『ユフ戦記外伝・奇跡の翼』4


昭和26年 

どんよりと垂れ込めた灰褐色の水蒸気の塊からは、水素と酸素の化合物が空気中の微粒子を取り込んで地表を目指してくる。
雪とも霙とも区別の付かないそれは、昨今隆盛を迎えつつある、俗に言うウィンタースポーツに適したものではない。如何に北海道の僻地とはいえ、秋口に入ったばかりの段階で粉雪を望むのは酷といえよう。
例年ならば標茶(しべちゃ)のような田舎の気候など誰も気に留めない筈なのだが、今年ばかりは趣が異なる。雪の影響で航空便の乱れが生じるかもしれないからだ。



有史以来、人類は鳥の如く蒼空を自由に闊歩したいという願望を持ち続けた。とはいえ人類は大きな夢の割りに発想力に乏しいので、鳥を手本とした彼らがその飛行形態を真似ようとしたことは必然といえよう。
ダイダロスの息子イカロスは鳥の羽根を蝋で固めて太陽を目指したし、エルマー、ジョバンニ、ダミアン侯といった面々がその後同じ手法で蒼空を目指した。結論は云うまでもないが、一命を取り留めただけで満足せねばなるまい。
2000年以上に渡って同じ失敗を繰り返してきたヨーロッパ人を笑い飛ばすのは容易い。ただ、天明五年に岡山藩の表具師・浮田幸吉が体に羽根を取り付けて旭川に架かる京橋の欄干から人力飛行に挑戦した挙句、満場の見物人の前で川底に叩き付けられたという事実も付け加えておこう。

長らく夢物語に過ぎなかった人類の夢が実現に近づいたのは、ジョージ・ケリー卿の構想によるところが大きい。彼は揚力を発生させる固定翼と推進力を得る動力を分離させることが有人飛行の実現への近道であると考えた。
航空力学における一大金字塔というべきこの構想は、およそ一世紀後ライト兄弟によってその正当性が裏付けられる事となった。
物理学的な見地から述べるなら、帝國の航空技術は1903年のキティーホークにおける肌寒い木曜日の朝から、基本的には何も変わっていない。いや、もっと云えば1809年に発表された理論の射程内、ということになろう。
ライト兄弟が、ちっぽけな布張りの飛行機を作るにあたって、手作りの風洞で研究を繰り返したことはよく知られている。とすれば、帝國人が飛行機の開発に当たって風洞を用いない理由はどこにも見出せない、ということになろう。
長々と書いたことを要約すれば、飛行機の開発にあたっては風洞が不可欠ということだ。

帝國と中島飛行機が超音速攻撃機開発にあたって、計画を極秘裏に進めようとしていることは、以前述べた通りである。そして帝國政府は計画そのものを秘匿するには試験飛行だけではなく研究開発施設、さらに欲を云えば実機製造工場の存在までも秘密裏に建設する必要があるとの結論に達した。
超音速機の開発に際しては超音速風洞の建設が不可避な問題であり、そして超音速風洞が些か特殊かつ大型の施設であることを考慮すれば帝都の近郊に研究施設を設けるなどという発想には辿り着きようがない。
施設の立地条件は人目に付きにくい田舎で、港もしくは鉄道の便がよく飛行場を併設できる平地があること。なによりも再転移時にも影響を受けないよう、帝國本土内であること。
標茶が選定されたのはそういう経緯であった。



「3,2,1 スタート」

合図と共に、硝子を隔てた空間にどす黒い煙が流れる。
すべての速度域で同じ煙が通用するわけではないが、今日に限ってはこの汚らしい煙を用いることになった。
高速で吹き付ける空気流が煙によって可視化され、装置が目覚めたことを知らせる。

「まあ、何とかモノにはなりそうだね」

荒木中将が傍らの斉藤に声を掛ける。
斉藤は中島側の代表者としてこの研究施設立ち上げに参加してきたが、本人もその点に関して不満はない。役員兼任の工場長として各地を転任するよりも余程面白みのある話だと飛びついたのは彼自身であった。

「回流式を諦めたのが決め手でしたね。
とりあえず現時点では開放式でデーターを取って、余力が出てくれば回流式の建設に乗り出しましょう」

ライト兄弟が手作りの風洞を製作したことは述べたが、いま少し補足する。
従来風洞に要求されていた800キロ以下の空気流では、伝統的な方式(巨大な扇風機で空気流を発生させるということだ)で事足りた。
が、遷音速域以上ではペラの先端速度が音速付近に達すると急激に効率が悪化するという厄介な問題が生じてくる。何のことはない、プロペラ機の音速突破が極めて困難なことと同じ原理だ。
そこで中島は二つの高速風洞が考案した。
測定部を通過した気流を減速、圧力を回復させた後再び加圧して使用する回流式(連続循環方式とも云う)。もう一つは空気の再利用を行わない開放式である。
開放式はさらに二種類に分けられる。高圧空気を噴出させる吹き出し式と、測定部の後ろに真空の容器を設け、そこに空気が吸い込まれる流れを利用する吸い込み式である。

「回流式はそんなに難しかったのか?利点があると聞いていたんだが」

「ええ、空気槽を用いないので長時間の運転ができますし動力の節約にもなります。
ただそれ以上に技術的な問題が横たわっていますので」

斉藤の言には理由がある。
彼は風洞の専門職ではなく、政治的な折衝や手配など現場のフォローに徹してきたがそんな斉藤でも回流式の困難性は理解できる。
空気の圧力と温度の間には一定の関係が見て取れるが、長時間循環する空気の圧力と温度の管理はかなりの難事であると予想されたし、そうなれば空気流の速度が安定しない。
かてて加えて、空気流の減速に伴う熱をどのように吸収するかという点でも技術者の頭を悩ませた。温度が高いと再圧縮の効率性が低下するから切実な問題といえよう。
一旦閉じ込めた空気を排出するのも困難となれば、開放式に研究の主眼が移ったのも当然といえよう。

「実現性で言えば吸い込み式が一番簡単だと聞いたんだが?」

「開放式はどちらも似たり寄ったりです。
ただ、吸い込み式だと真空タンクを用意するので測定部の圧力は常に大気圧以下となりますので」

「レイノルズ数が低くなって粘性の影響がでかくなり過ぎる、そういうことだな?」

斉藤に先回りして言い当てる。荒木も超音速風洞という壮大な玩具を見ているせいか、少々落ち着きに欠けるむきがある。

「医療保険の掛け金をちょろまかして作ったなんてことがばれちゃあ内閣が吹っ飛ぶかもしれん。
これだけ大掛かりな施設を中島サンに呉れてやるには少々惜しいかな」

「かといって興銀のお堅い連中からこっそりせしめるなんて無理ですよ。
納税者や保険加入者の皆さんには気が引けますが、大事の前の小事と割り切りましょう」

回流式に比べて開放式が安価、手軽といっても程度問題に過ぎない。
当然、膨大な資金が必要とされる。
帝國は基幹産業の大企業を支援するため、興業銀行を設立した。転移前のことだ。
企業が事業を拡大する際に政府の手回しで興銀から融資を受けさせる、というのが従来のやり口だった。現に中島の愛知工場新設も興銀の支援無しでは不可能だったろう。
が、計画の秘匿が前提となれば非常手段を講じるしかない。
昨今の民主化とやらで議員諸兄の眼を欺いて税金を投じるのは困難だから、保険や郵便局を隠れ蓑にする、というのが第六計画の資金調達方だ。

まあ、仕方ないなと思いを巡らせると同時に大きな保険だとも思う。
斉藤も一応は中島の役員だからこの現実性の薄い計画が潰れた時のことも心配しなければならない。
技術的、或いは政治的見地から計画がポシャるとしても、空力研究とエンジン開発は当面軍の金を湯水の如く使える。
計画秘匿のために当面研究成果が表には出ないから、その間に他社との差を広げていけば帝國の空を制することもあながち夢物語とはいえない。
民間機市場に参入するのは知久平さんの志に反するが、そのときはそのとき。
ふふ、そのときには川西の連中が路頭に迷って頭を下げてくるかもしれん。


「斉藤君、自分の世界に閉じこもらないで貰いたいね。
あのマッハ計は信用できるのか?」

川西の凋落という夢から醒めた斉藤はえらく不機嫌だった。
荒木に釣られて硝子の上のマッハ計を見れば、針はM0.7からさらに上昇していく。

標茶の第1吹き出し式風洞の構造は、冷却して水分を除いた空気を二段階に圧縮し、それを貯め込む。
超音速風洞において水蒸気の凝縮に纏わる問題が多いからこその処置である。
次の圧縮にかなり大掛かりな動力が要求されるが、幸い翔鶴級に搭載予定だったガスタービン機関が余っていたのでそれを流用することで解決している。
戦闘艦艇用としては実用に耐えないと酷評され、高千穂級では『対16インチ弾防禦ではなくガスタービン防禦が必要』と言われるほどの厄介モノだが地上においてはそれなりに使えるのだ。
そうして溜め込んだ3.4MPaの空気は、圧力弁を経て集合筒に送られ末細−末広ノズルによって膨張させられ、音速を突破して測定部を駆け抜ける。
測定部の後ろに設けられたディフューザーで減速・圧力回復を行って外に排気される。
このときの空気の運動エネルギーが大きく、当然騒音も凄まじいものになる。
北海道の田舎に施設が設けられたのと騒音は無関係ではありえない。

「ああ、衝撃波のことですか?」

速度の測定にはピトー管が広く使われる。
これは突き出した管に穴を開け管の中心部で流れの総圧を、側壁で静圧を測定して、両者の差から流れの動圧を導く。
これで速度を求めるというものだ。
が、空気の流れが超音速に達すれば、ピトー管の前面に衝撃波が発生し、下流流れ場に影響を及ぼして正確な測定が困難になる。
そうだ、と頷く荒木に横から説明が入る

「ピトー管の総圧と一様流の静圧からレイリー・ピトー公式によってマッハ数が求められます。
総圧を静圧で割ったものは2γをγ+1で割ったものに一様流のマッハ数の二乗を掛けたものからγ−1をγ+1でわ」

「ああ、分かった分かった。衝撃波が出ても速度は測定できるんだな?」

長くなりそうな横槍を抑えてマッハ計を見る。針はマッハ1.4を示している。

「そこだ、行け」「吹き飛ばせ、何がマッハ3だ、何が作戦行動半径12,000キロだ。無茶ばっかりいいやがって」

硝子の前に陣取った中島の研究者たちは気勢を上げている。
測定部には航空模型の代わりに嶋田総理の模型が置かれている。
まあ落成式を兼ねた試運転だし、多少のことは多目に見よう。

「やった、飛んだぞ」「マッハ1.25だ」

模型に貼り付けられたかつらが宙を舞うと一斉に歓声が上がる。
斉藤が隣を見れば荒木は笑うに笑えない。

「あそこで陣頭指揮を執っているのは確か」

「ああ、佐竹君ですね」

「そうそう、佐竹君だ。前にも官邸で会ったな。
しかし首相はそんなに無茶を言ったかな?」

「無茶、ねえ。
音速突破も挫折したジェットエンジンの性能向上、摂氏300度の空力加熱に耐える機体外皮、遷音速と超音速を両立させる機体設計、超高空の低圧環境でも使用できる燃料。
まだありますよ。
これを無茶というのはかなり婉曲的な表現ではありませんか?少なくとも、無茶とはもう少し実現の蓋然性が高い試みに使われる言葉ですよ」


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