『ユフ戦記外伝・奇跡の翼』序


『復讐の女神ネメシス、その名を冠した世界で最も美しい翼。
中島飛行機と帝國、否人類が持てる科学と技術を惜しみなく投入して具現化され、蒼穹を駆ける女神の美しさはアフロデティの貌を蒼く染めるに充分である。
私は未だに信じられない。
帝國が当時投入しえた技術であれほどの機体が出来上がったとは。
兵術上の有効性を疑う者は少なくないが、ネメシスが公表されたときの各国の反応を忘れているのではないか?今後如何なる性能を持つ機体が出来上がってもネメシス程の衝撃を与えることはない、それだけは確かだ』
スコットランド王国海軍卿 緒方グレイスの回想録より


じっとりと重い空気が佐竹の体に纏わりつく。
からりとした紗那基地から戻った彼に、除湿機の故障した部屋で味わう六月の関東地方は少々堪える。
が、彼には梅雨時の煩わしさに思いを巡らせる贅沢は許されない。
他でもない、安保理への返答時期が迫っているためであり、武蔵野を預かる佐竹はこの件について社内責任者という地位を押し付けられている。
見通しの茫洋たるを想起し、卓上の紙巻に手を伸ばす。中島知久平が煙草を嗜まなかったとはいえ、中島社内での喫煙率が低いということはない。

さあて、どうしたものかな。
肺まで紫煙を取り込んだ佐竹は一枚の紙に眼を落とす。
ちい、煙まで湿気ていやがる。

『昭和二五年三月十一日 大陸間安全保障機構第113号理事会決議事項・同研究要望書

大陸間安全保障機構は中島飛行機に以下の事項を要求する。

一、 高速機の概念研究
二、 高速機開発に当たっての課題抽出および実現可能性
三、 高速機開発の予定表作成
四、 本年六月二十九日までに回答すること
                   大陸間安全保障機構議長 嶋田繁太郎』

まことに素気無いものだし、書かれていることも別段奇異ではない。
中島を指定してはいるが探らせたところ三菱と川西にも同様の打診が来ているようだ。
研究なら軍にやらせる場合は多々あるが、軍が電子機器を山ほど積んだ大型機にかかりっきりであることを考えれば民間企業にお鉢が回ってきても可笑しくはない。
ここまでは問題ない。

が、ここからなのだ。
軍ではなく実働部隊を持たない安保理からの要請、そして試作とも実用とも明記せず具体的な性能要求は一切なし。
極めつけは軍機級の防諜体制。まともじゃないことだけは確か。
どのような報告を求めているのか掴みようがないが、とりあえず社内の研究班が出した結論をそのまま書こう。

ふむ、試作機レベルならばロケット、実用機ならジェットというところ。
機体構造に充分な研究開発予算が与えられるならば3年で有人試作機の超音速飛行は可能、その場合は海軍が研究しているロケットエンジンを使用する。
そこで遷音速のデータを収集、ジェットによる有人超音速飛行はその2年後。
課題はエンジンの耐熱性と音の壁付近での機体強度、と。
はは、新型艦戦が700キロを越えるか超えないかというご時世に超音速?中島は気が触れたといわれるかな?
まあ烈風42型の発動機は三菱製だし格闘戦志向は三菱の宿痾のようなものだから我々に鈍足の責任はない。
川西もジェットを研究していることだし、とりあえず研究中の旅客機用ジェットの資料を添付しておこう。
まあ我々のジェット開発は大型民間機用、すなわち三菱が大陸航路に投入したDS−3に巻き返しを図るためのものであり川西と違って高速を狙うものではない。
ターボプロップを目指しているとはいえ抱える問題は似たようなものだから参考にはなるだろう。

そこまで考えたところで佐竹は立ち上がる。
午後2時、なんとも怪しげな安保からの要望よりも優先すべき事項があるからだ。
すべての中島社員にとっての悲願、六発の巨人機。
その化け物のような発動機の試験に付き合う時間だ。空冷星型複列36気筒エンジン、極めて構造が複雑なうえ冷却ファンの効果がいまいち上がらない代物。
今回は思い切って設計を変更し、クランク軸に対し螺旋状にシリンダーを配し導風板を置くことで冷却効果を狙っている。
排気タービンも問題はない、冷却さえクリアできればZ機は現実味を帯びてくる。
ま、夢のようであまり実用的でない高速機のことは忘れよう。
もはや佐竹の頭はD−NBH−3の試験運転で満たされており、三菱の四発機を蹴落として空を舞うZ機の姿に魅入っていた。

それは中島の首脳陣と技術者たちが首相官邸に招かれる3週間前のことであった。


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