『ユフ戦記』46


血染めの島 8


皇都に訪れた短い夏のある日、20日ばかり軍務を休んだスルムは彼のかけがえのない宝と共に家を後にしていた。
家の居心地が悪いわけではない。
高級住宅街とはいかぬが、物静かな皇都の南通りに面する集合住宅は幼い子を抱えるスルム一家にとって繰り言を誘うような要素はない。
採光がよく広々した間取りは己の実入りからすれば過分ともいえるねぐらだ。
まだ彼と妻の相貌に皺が刻まれていなかった頃、寡婦の家主との間に紡がれた一つの美談が彼とその家族をそこに住まわせる原動力となった。

砕氷をみたい、と言い出したのは彼の3つの宝のうちの1つ、真ん中の娘だった。
皇国に伝わる幾つか伝わる物語のうちの一つ、氷の国での王女と貧乏猟師の悲恋譚を語り聞かされた娘はその舞台を訪れたいと夫婦に告げたのが始まりだった。
3人の子に同質量の宝玉よりも高い価値を見出していたスルムは大いに悩んだ。
軍は皇都で帝國人がしでかした火遊びの後始末に追われており、近衛の一員たるスルムもその例外ではない。その筈だった。

事態が変転したのは娘と交わした会話を銀髪の翼竜士官に洩らしたことに起因する。
彼女はスルムが叛乱の際に皇国軍人に相応しい行動をとったこと、そして彼の娘の希望を即位間もない皇主陛下に耳打ちしたらしい。直接見たわけではない。
どうも彼女に甘いところのある皇主陛下の計らいによりスルムは休暇と旅行先までの船、そして滞在先を確保した。
ロイ王家専用船での船旅、滞在先の離宮、そして景色。
そのすべてが満足のいくものだった。
離宮はかつて実在した悲恋譚の主人公たる王女が寝起きしていた場であったし、露台から望む観穹湖と背後に控える白剣山は反抗期を迎えた息子を黙らせるに充分であった。

白剣山を滑り観穹湖に至る無数の河、その氷が湖に落ちる瞬間を皇国では砕氷と言い表す。
分厚い鹿革の手袋の上から息を吹きかける娘に可笑しみと言い表しようのない愛おしさを感じていると娘の叱責が飛んでくる。

お父様、さっきの砕氷見逃したでしょう?折角来たんだから私より河を見なくちゃ。 私の顔なんかいつでもみられるけど砕氷は夏しかみられないんだから。

紅みがさした頬を膨らませた顔で上目遣いにスルムをみつめ、人差し指を突き出して説教をする娘の姿がまたスルムの頬を緩める。
表情の変化を見て取った娘は両手を腰に当ていかにも怒ってます、といった態度をとる。
まあまあ、二人とも止しなさいと言う妻の表情から憂いの色が見て取れるのはスルムの気の回しすぎだろうか?
彼女はスルムが今回の休暇を軍参謀部歩兵兵略論究課への配属と引き換えに手にしたことを知っている。
父さんはレイサに甘いんだから、とぶつぶつ零す長男の顔も楽しそうだ。
末のサイカは小さな体躯から一杯の元気を発散させて雪に覆われた湖畔を走り回る。

陽光を浴びて山に張り付く氷河は青玉と翡翠を溶かして混ぜたような輝きを放ち、周りの白い雪との対比が際立つ。
宝石みたいなのに、あれが水になっちゃうなんてなんだかもったいなね。
そう娘が零した刹那、一つの河が崩れ落ちる。
巨大な氷が破片になりながら湖面を波立て、辺りには陽光をうけた氷霧が舞い上がり万華鏡のような輝きを見せる。
あの位置だと音が達するまで五寸程かな。
地鳴りのような音に備え身構えるスルムに訪れたのは体を突き上げる衝撃と硝煙の香り、そして地鳴りとは異なる轟音。

陽の代わりに月が照らす塹壕を見渡せばそこに家族の姿はなく、黒い軍装を濡らして横たわる皇国兵たちと少数の帝國兵。
耳朶を振るわせるのは砕氷の音ではなく帝國軍のものと思しき砲火、先程まで耳にすることの無かったものだった。

「どの位気を失っていた?」

「2巻(7分弱)ほどですね」

応えるのは第2旅軍の通信士官たるナダルだ。
他にこの塹壕で生きているのはダカユース二等兵のみ、とはいえ第2旅軍の生き残りがこの3人だけというわけではない。
15巻ほど前に帝國軍陣地の一角に乗り込んだのは2,30人、帝國人は塹壕での白兵戦を早々に切り上げて山の奥に消えていったから損害は酷くはない。
その後帝國人から浴びせられた嫌がらせのような砲撃を加味しても15人は生き残っている筈。すべては帝國人の残した塹壕のお陰というわけだ。

「いい気付だ、帝國人は夢を見ることも許してくれないらしい」

音のするほう‐山の奥を見やりながら息を吐く。
胴長人は元気一杯だ。最後まで付き合えなかったのは心残りではある。

「夢を?
どのようなものでしょう、差し支えなければご教授いただけないでしょうか」

「夢、そう夢だよ。
私の人生で最も輝いていたとき、そして最早この手に掴むことの許されない夢だ。
ところでダカユース君、此度の射撃はこれまでのものと趣を異にする様だが君の意見はどうかね?」

口にしている最中に気恥ずかしくなってきたのか、あるいは軍人の本分に戻ろうとしたのかスルムは話題をかえる。
ダカユースに問いかけたのはナダルが兵団本部に報告を送っており、話相手にはできないためだ。
皇国語は52の文字を組み合わせるが、安定して(そして普及可能な価格の)一定の振幅数を発揮する魔石は18種類しかない。
そのため魔道通信は、マナの振幅数が異なる魔石を18種類、これらに魔力入りの道具で刺激を与えて18個の記号からなる文章を送信する。
これはかなりの難事だ。
魔術師なら兎も角、ナダルの様な魔術的才能を持ち合わせていないものが魔道通信を行うというのはそれなりの苦労を伴うのだ。

「ええ、百竜長殿。
この何処と無く間の抜けた発射音は帝國人の云う重迫撃砲とやらに違いありません。
今まで撃ってこなかったのに気でも変わったんでしょうか?」

スルムは形容しがたい笑みを浮かべてダカユースに向き直る。
左足が千切れている所為か酷く身に堪える作業だ。

「思いあたることがあるのだよ、ダカユース君。
帝國人は三個の歩兵中隊と一個の重火器中隊で大隊を形成する。
そして重迫を持っているのは重火器中隊だけなのだ、私の云っている意味がわかるか?」

「この山を守る帝國軍がその兵力の一部をこちらに差し向けた、そういうことですね」

「そう、この造りの良い帝國陣地に篭って抵抗する我々に手を焼いたのだ。
そして第2旅軍の任務は陽動であり兵力の吸引であった」

「なんとも喜ばしい、閣下は任務を完遂されたのです」

「我々、だ。我々は任務を完遂したのだ。若人たちの死は決して無駄ではなかった」

スルムは塹壕から身を乗り出し、斜面を見つめる。
幾百もの部下たちの屍骸が折り重なってそこにあるが、決して苦味のある感情が胸に去来することはない。
はしゃぎまわるわけでもないが。
周囲の塹壕にも部下が篭っている筈だが、連絡を取るのは至難の業だ。
塹壕同士は繋がっていない上、連絡路は帝國人の去って行った山の奥にあるためだ。
振動と轟音と共に帝國人に小銃弾を浴びせていた塹壕が一つ沈黙する。
そろそろこの壕も攻撃対象になりそうだ。

「どうやら旅の最後を共にするのはこの三人のようだ」

「兵団本部に送る便りはありますか?必要な通信は完了しました」

ナダルが痩せこけた頬を緩ませて問いかける。
まったく、たかが30前の若造に気を使わせるとは情けない。
ナダルの好意を退けつつ、ダカユースに外してあった背嚢を取るよう指示する。
まだぬくもりの残った皇国兵の骸を掻き分け暗褐色に染められた背嚢をスルムに差し出すと、スルムは中から布に包まれた筒らしきものと真鍮杯を取り出す。

「割れているかと心配していたが、どうやら我々は幸運に恵まれているらしい」

スルムが取り出したのは撫肩のすらりとした壜、その中には琥珀色の液体が詰まっている。

「サレック王国の麦芽蒸留酒、ジーム醸造所の60年ものだ。呑んだことは?」

2人とも首を横に振る。
無理もない、サレック王国は知らなくともジーム醸造所は知っているという皇国人は多い。つまりそれほどの酒なのだ。
子気味の良い音と共に柔らかい香りが辺りに立ち込める。
なるほど、結婚式の晩に妻と共に口にした時はわからなかったがこれはいい酒だ。

「貴様らにはまだ早いだろうが仕方ない、丁度杯も3つあることだしな」

もし陣地の奪取が成ったら、帝國軍指揮官と自分でこの壜を開けるつもりだった。
彼とて大勢の皇国人に違わずそれなりの見栄というものを持ち合わせているから、上物の酒で帝國人の度肝を抜いてやるつもりだったのだ。
残る一杯は、無論皇主陛下に捧げるつもりであったのだが、もはやその必要はなくなった。

「今呑まなければいつ呑めるというのです?」

再び衝撃、そして土がスルムたちに降りかかる。相当近い。
友軍で抵抗している者はもはやいない。
彼らには帝國軍を拘置すべく、生きている限り抵抗するよう命じているからその意味するところは明らかだ。

「ふむ、今宵は望月でしたか。
作戦行動上の情報としては頭にはいっていましたがそれ以上のものとして捉えられませんでした」

帝国軍陣地のうちやや張り出したスルムたちの壕からは乙海岸と清水の断崖が一望できる。
ほぼ直角といってよい断崖の高さは200フィフィク(約600メートル)、その向こうに南遣団の船が見える。
月光を受けた漣が煌めき、眼前に広がる星の海はこの手に掴めそうなほどだ。

「どうだ、あの月さえこの手に掴めそうじゃないか。帝國人はこんな景色を見ていたんだな」

「掌月台、その位の名前をつけてもいいでしょう。
戦術目標甲・東斜面が死に場所の名前たあ少し味気ない」

特に異を唱えず3つの杯を満たすとスルムは再び斜面に眼をやる。

「嗚呼、玉杯に花受けて、か。
全く、こんな高みから俺たちを見下ろして好き放題撃っていたわけだ」

スルムがエリート意識の固まりとも取れる帝國歌の歌いだしをつぶやくとダカユースが応じる。

「花とは行きませんがね、月を杯に受けるくらいは出来そうです。
酒の表面に月を映して呑むと魔よけの効果があるとか」

「聞かないまじないだな、君の故郷での話か?」

胡乱げな顔付きを浮かべてスルムが問い返すのをみてダカユースは慌てて否定する。
何より宗教じみた行為は大抵の皇国人にとって忌避すべき対象なのだ。

「違います。帝國の元あった世界には森と湖に囲まれた美しい国があったそうで、そこの言い伝えですよ。
なにより蒸し風呂から出た金髪碧眼の美女たちが裸で湖に飛び込むというのが夏の風物詩だそうで」

「裸の美女がついているなら効果覿面に違いない」

今なお続く帝國軍の砲火を掻き消すような笑いがあがり、各々杯に口をつける。
直後に振動と熱風が三人に襲いかかる。
口に入った土を吐き出し、唇についたぬるりとした感触を消し去る。袖にはべっとりと紅いものが残される。

「レイサは嘘つきだな、そんな風に育てた覚えはないのだが」

いつでも顔を見れるといったのは誰だ、酒面に映るのは血と土の付着した薄汚い顔じゃないか。
壕の縁にもたれ掛かり、顔を上げる。

「百竜長、何か仰いましたか?」

ダカユースではない。
彼は壕に飛び込んだ重迫の破片を浴び、白い液体を頭部から垂れ流しているが、二人とも気にかけない。
270年のジームが口腔を満たすとやや甘く、芳醇な香りが鼻先まで突き抜ける。
その後にコクがありながら滑らかな味わいが味蕾を刺激する筈なのだがスルムの脳が認識するのは違和感の強い苦味だった。
酒の味がわかる程度には歳を重ねた、任務も果たしつつある。ならば勝利の美酒となるのではないのか?
にも拘らず、えづくほどではないが胸を刺激するようなこの苦味は何なのか。
スルムはその答を朧げに感じ取った。


inserted by FC2 system