『ユフ戦記』31


混乱 1

『翻って見るに帝國陸海軍の統帥権は、畏れ多くも天皇陛下より内閣総理大臣に委ねられているのであります。
それこそ転移前のそして転移後の幾つかの統帥権問題を抜本的に解決するものでありまして、私は天皇陛下と大日本帝國憲法に基づいた権限を行使しているのであります。
法令を黙殺して軍令権を持たぬ海軍大臣が作戦用兵に容喙するが如きは厳に慎まなければならないことであることは自明の理であり、帝国議会の一員たる諸卿が山本君の言葉に躍らせれるようではこの国の未来に何か仄暗いものを感じざるを得ません』

昭和31年12月8日 衆議院首相質問における嶋田繁太郎の答弁


周囲の骨まで射抜くような視線が緒方誠人に痛みすら覚えさせている。
常識的な帝國人であれば12月を前にして初雪がちらつく帝都を半袖の作務衣で練り歩くような真似はしないであろうから、彼等の好奇に満ちた視線にも頷けるというものである。
尤も、冬の帝都を些か常識から乖離した格好でうろつくという趣味を彼は持ち合わせていない。
その元凶は全て、彼の二歩前を悠然と歩むジャケット姿のダークエルフ女性である。

「部下は部下らしい態度をとれ。夫婦といえども私は公私混同が嫌いだ」

という言葉で彼を従わせるのは緒方グレイス、帝國海軍中佐にしてスコットランド王国連絡武官。極めつけはスコットランド王国長老格サンディーノ帝國伯爵家後嗣という肩書き。
海軍一等兵曹にして時代に乗り遅れた貧農といってよい小作農家の三男である誠人にとって一生頭の上がりそうのない伴侶でもある。
彼女が帝國人として平凡な顔立ち、短躯といってよい背丈、取り立てて優れた点も無い彼を選んだ理由は定かではない。
彼女に問いただしても『緒方誠人一等兵曹、それは貴官に知る必要の無い事柄である』と突っぱねられるだけだった。

乗艦の瑞鶴が洋上訓練中であるのに彼がここにいる理由は単純明快。
夜明けとともに瑞鶴に降り立った連絡機に艦長以下乗組員の視線を感じながら放り込まれ、海軍省に出頭を命じられた彼を待ち受けていたのは海軍大臣の署名の入った辞令を携えた妻であった。
辞令の内容は、帝都で久々の休暇を楽しむ海軍中佐の護衛を果たした後に艦に戻れ、つまりはそういうことだった。
彼の今着ている服も彼女の発作的な衝動に駆られ引っ張り出してきた物に過ぎない。
彼は『海軍の連絡機を使って夫に買い物のお供をさせるのは公私混同にならないのですか』と言いかけたが、咄嗟のことで胸の内にしまいこむ。
彼とて学習能力が備わっているからだ。


「誠人、何をボヤっとしているの。次はこの店よ」

顔はいいんだけどなあ…
ダークエルフ女性は美人ぞろいとされているが、彼女を取り巻くスコットランド人女性に比しても一際輝いて見えるのは恋と呼ばれる伝染病で彼の正常な判断力を失っているだけとは思えない。
鼻筋が通り、やや鋭利な角度の目元、冷たさを感じさせるほど薄い唇で形どられた顔は時に冷血との印象を与えるが、そこがまた彼の心臓の電気信号を活性化させ、心筋の収縮速度を上げる原因となっている。

とはいえ、日本人男性の多くが女性に願望を込めて投影する『大和撫子』というようなものを持ち合わせていないのは彼の骨身に沁みて体得された経験則が教えるところでもある。
彼の両親は、実家に挨拶に行った際に動員された一個連隊規模の猫を彼女が被る事によって誤解をしているが事実はそうなのである。

「いらっしゃいませ。本日はどのような品をお求めで?」

女性店員の声に迎えられた誠人は暖房の効いた店内で寛ごうとしていた故に店内の品物に目をやる余裕は無かった。
であるから、彼が続く彼女の言葉で現実に引き戻された挙句狼狽したとしても責められる点は無い。

「夫に選ばせようと思うのですが」

「それはようございます。奥様であればどのようなお召し物でもお似合いかと思われますが、旦那様どうでしょう?」

店員の声で慌てて顔を上げた誠人の目に飛び込んできたのは極彩色の布切れであった。 紫檀で落ち着いた内装の店内はいかにも高級服飾店といった様であったが、そこに陳列されている商品はどれも誠人に縁の無いものであった。


いずれも一等兵曹の俸給では手の届かないものであるが、帝國商社の利権に与っているサンディーノ伯家から見ればはした金だろう。
帝國の特産品、絹をふんだんに使用した色鮮やかなものや、白を基調とした清楚な印象に仕上げられたもの。恐ろしく高価なネーデルランド特産の浮触布や清華産の艶沢布を帝國が世界に誇る染色技術で染め上げた生地を惜しげもなく使ったもの。
共通して言えることは、そこに陳列されている商品は全て女性用の下着であるということである。
齢25の一般的帝國人男性からすれば、歓迎すべき事態ではない。

「いや、仰るとおりどれを着ても妻には似合うと思うのですが」

「そう云うな、誠人の目に適う物でなければ意味が無い」

なんということだ。何たる窮地。
これで本人に悪意が無いというのだから始末に終えない。
いま上官に苛烈なまでに攻め立てられているこの窮地を救ってくれる人はいないのか? ハンニバルはカンネーの窮地でヌミディアとケルトの騎兵のおかげで息を吹き返したじゃないか。城撲でも文公は戦車隊の急襲で戦局をひっくり返したじゃないか。
誰でもいい、この俺に総予備を投入してくれ。
誠人の儚い希望はふくよかな中年店員の声で砕け散った。

「そうですよ、夫婦が御揃いでこういった店に寄られるのは帝國ではあまり見られない光景です。旦那様はよい奥方を持たれて果報者です」

上官はいくつか目に付いた品物を小間使いに持たせ、試着室に向かう。緒方一等兵曹には店の小間使い以上の義務が与えられ、上官の満足げな表情と裏腹に紅潮した面立ちで店を後にしたのは2時間後のことであった。


「いつの間に自動車運転資格をお取りになられたのですか?」

緑色の車の中で誠人は尋ねる。
尤も民間乗用車の飛躍的増加に伴い、女性が運転資格を取得するのはさして珍しいことではなくなっている。

「私は戦闘機で曲芸飛行まで出来る技量を備えているのにどうして教習所なぞに出向かわなくてはならない?
役所に伺いを立てるまでも無く運転を許されていると解すべきであろう」

その言葉は彼の脳裡に生物として不可欠な防衛本能を掻き立てるには十分であった。
三菱がごく一部の富裕層向けに売り出している競技使用の四輪車の運転席では、時速計が200キロを突破していることを教えてくれる。

「とはいえ車も便利なものだ。自動車道のお陰で東京から富士まで一時間といったところか。雰囲気のいい温泉宿を見つけたのだ、早速誠人の見立てが役に立ちそうだな」

常人離れした反射神経の持ち主(人間ではないのだが)が運転しているとはいえ、彼は法華経を唱えずにはいられない。
その苦行に終止符を打ったのは神奈川県警高速機動隊の皆様であった。
かれは警察という物に如何なる意味でも親近感を持ち合わせていなかったがこの日ばかりは異なっていた。


「何の御用?警視庁ではスコットランド国王専用車は止められてもサンディーノ伯家の車は止められないことになっているのよ」

些か気圧された様子で警察官が応じる。

「それが…海軍のほうから法定速度を100キロ以上超過して富士に向かう緑色の車があれば止めるよう要請されていまして」

不機嫌さを隠そうともせず警察無線に齧り付いた彼女は海軍省からの暗号通信らしきものを聞いている。
程なく車に戻ってきた上官は告げる。

「皇国人のお陰で休暇は中止だ。私は海軍省に戻るから貴方は転属願いを出しなさい。 私の従兵になれば休暇でなくとも一緒にいられるでしょ?」

公私混同の大嫌いな上官はそう告げて車を発進させた。


捕捉
この時点で帝國は有料自動車道の整備をしていますがあくまで産業用です。


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