ユフ戦記20


劈頭 1


以前、皇国と帝國が相互意思の衝突を見出す前の遥かなる昔、クロイツェンはなぜ北小内海の冬は厳しいのかと帝國軍人に問い詰めたことがあるが、彼等の科学力を以ってしてもその原因は分からないらしい。
帝國に言わせれば、帝國最北端よりもさらに北にあるレムリアや南小内海が温帯であるなど、不可解な点が多数見られるとのことだ。
結局、自然とマナの相互作用で気候が決する以上、帝國の科学力だけでは解明できない、という結論が導かれたようだ。
解明できない、といえば帝國の件もそうだ。
帝國人一人一人は我々と何ら変わることのない平凡な人間、ただ科学の力というものを持ち合わせているだけなのに、国としての帝國は酷く好戦的で高圧的だ。
それとも、帝國の科学力では個人の特性と国家の特性の乖離について説明できるのであろうか?


益体もないことを考えながら、クロイツェンは露天艦橋に身を置き、白波の立つ海面を見つめる。
陽は中天にあるはずなのだが、粘土で拵えたような分厚い雲に阻まれているのか周りは薄暗い。別段明るければ景色が楽しめるとかそういうわけではない。
せめて、皇国の運命を左右する知らせは陽のあたる場所で聞きたいというクロイツェンの我侭に過ぎない。
紅顔の少年といってよい年頃から四十年間を海の上で過ごしてきたクロイツェンにとっても、冬場の北小内海は心に鉛を抱えさせるような場所だ。
海はその薄墨色の皮膚の下に巨艦を沈めるに足りる力を隠しており、気まぐれに人間に見せ付ける。風は湿気を存分に含んでおり、その対地速度と熱量を以ってすれば、間の悪い新米当直士官を三十分で凍死させるのも造作ない。
正直に言えば六十間近の人間には酷く堪える寒気だ。そのうえ、クロイツェンの製造から六十年近く経つ生体光学式捜索器ではまともな効果は期待できない。
三十路あたりの熟練下士官に比べれば話にならないものだが、だからといって艦内に引っ込むことが許されるほど皇国水軍の伝統は単純ではない。
皇国人が理想とする、陛下より下賜された水軍大提督の外套を纏い、寒風の中直立不動で見張りをし、入ってくる報告に鷹揚に頷くどんなときにも動じない提督というものを経験の若い兵卒に見せるため、このような荒行に挑んでいるのだ。


艦隊が根拠地を後にして既に十日が過ぎようとしているが、帝國郵船が喧伝する豪華客船大内海周遊とは対極にある苦行を押し付けられているのはこの艦隊だけではない。
近衛艦隊に属すべき、しかし防諜上の都合で様々な番号を付けられた艦隊は皇国とその勢力圏下にある根拠地を発っているはずだ。
この鉛色の水平線の彼方にクロイツェンの旗下に入るべき艦が散らばっている。
魔道通信を封鎖しているおかげで各艦隊の正確な位置は分からないが、予定通りならば半径120リーグに全艦がいるはずだ。
とはいえ集結するか根拠地に帰投するかは未だ定まっていない。
小内海に散らばっている艦隊の進路は、今まさに皇都で決せられようとしている。
あらゆる外交手段が功を奏さない中で、残された選択肢は服従か戦争か。
国家としての視点から見ればこの冬が積極的な行動に出る唯一の機会なのだが、ユウジルドの不手際のせいでその判断が苦悩を伴うものになっていることは確かだ。

風音に混じって微かに聞こえてくる足音からクロイツェンはそのときが来たことを悟った。艦橋から艦隊附魔道士官が暗号文を携えて露天艦橋に出てくる。
幕僚を省みることなくクロイツェンに歩み寄る。

「閣下、陛下より第一級秘匿通信が発せられました」
表面上平静を装っているが魔道士官の声からは緊張の色が見て取れる。
通信文を受け取ったクロイツェンは懐から皇主陛下の御水茎で封をされた封筒を取り出し、命令書を取り出す。
たった今届いた通信文の文面は『皇都の厚雲は陽を覆う』であった。
命令書にはいくつか想定される通信文が記載されており、それぞれにとるべき行動が書かれている。
「ご苦労、勅命を確認した。全艦隊に想定状況赤と伝えよ」
露天艦橋に溜息が満ち、それは風に攫われてゆく。想定状況赤とはライアール方面の帝國艦隊への攻撃命令を意味している。


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