『ユフ戦記』16


戦争計画 player B 6

 午後八時を過ぎても、そこいらじゅうの空気はたっぷりと水気を含んでいる。
帝國の夏が蒸し暑いのは今に始まったことではないが、それでも彼らは耐えなければならない。
それが彼らの使命だから。
誰もがそれを望んでいるから。
使命を果たすまで、休息など許されるはずもない。

その中に、皆の注目を集める男。
彼の口腔は唾を失ってしまったようだ。
あたりはこんなに湿っているのに。
静寂が辺りを包み、その緊張感に満ちた空気の中で任務を果たさなくてはならない。
状況は控えめにいっても苦しい。
だがここを持ちこたえれば勝利が大きく引き寄せられる。
彼は意を決し、何万回と繰り返した熟達の極みにある動作を披露する。
そして、その次の瞬間、湧き上がる怒号と、それに掻き消される歓声。


「ピッチャー渡辺、カウント1−3から第5球を投げた、ふわりとした球、打ったー、 痛烈な打球が左中間へ、二人生還、三人目も帰ってこれるか、青田、殊勲のタイムリー。
ジャイアンツ、8回表ついに逆転!」 

テレビジョンには膝を付く縦縞の背番号26、そして二塁ベース上でこぶしを突き上げるじゃじゃ馬が映し出される。
溜息と怒号が狭い室内に響き渡る。
この居酒屋が魚崎に位置する以上、歓声などあがるはずもない。
甲子園での首位攻防阪神巨人戦、防御率単独首位の渡辺省三を立てて、三連戦の頭を取りに来た阪神。
対する巨人の先発は、ロートルと云ってよい別所。
阪神が4点先制したところで勝負ありと思われたが、なかなか巨人も粘る。
プロ野球史上初めて連覇を果たし、シーズン勝率.829を誇った往年の勢いはないものの、底力を感じさせる阪神。
昭和二十年代後に三連覇を果たし、まさに黄金期にあろう巨人。
今宵も見ごたえのある死闘を演じている。

もっとも、この店の中の者たちが望むのは緊迫した展開ではなく完勝であるから、二転三転する試合展開を楽しみながら酒を飲むなどという芸当は出来ない。
とはいえ、完勝したらつまらないと言って騒ぎ立てるから、虎党たちを満足させるのは並大抵の苦労ではない。


「あー、やっとられんわ。
渡辺もうちょい気張らんかい」

「せやせや、酒がまずうなるがな」

男たちは気楽なものである。
転移に伴う急速な経済発展により彼らが通う様な飲み屋にも冷房が備え付けられており、日が暮れているとはいえ夏の野外で野球に興じる者の苦しみなど理解できない。

「おう、酒で思い出したんやけどな、大将、このごろ焼酎高いで。
わしら貧乏人相手にあんましきつい事しなや」

「ほーよ、付き合い長いからこっち来とおけど、あんまり高くなるようじゃ考えるで」

客の間から声が上がるが、大将も黙ってられない。

「そないゆうてもな、わしが値段上げてるんちゃうがな。
卸値が上がってどうにも出来んわ。
嘘や言うなら他行ってみいや」

 大将の云うことには理由がある。
帝國国内の消費者物価が上がりつつあるのは事実だ。特に輸入品で値上がりが著しい。
まず、フランシアーノからの輸入品、ついでユウジルドからのもの、小内海を経て輸入されるもの、そして大内海沿岸部の帝國勢力圏内から運ばれるもの。
帝國の輸入品を大雑把に分類すればそうなる。


世界最大手の旭日旗を掲げた新聞を見れば、悪辣な二カ国が世界中に害を振りまき、それに対して正義の帝國が制止に入ろうとしていることが読み取れる。
二カ国と正義の帝國が緩やかに対立状態に陥りつつある現状では、戦争状態に陥ることを見越して流通量が操作されるから、前二者が値上がりするのは尤もな話だ。
だが解せないのは帝國勢力圏内から運ばれる(商品焼酎の原材料たる麦もそこに含まれる)が値上がりしていることだ。

「冗談やがな、ゆうてみただけや。
しかし最近の世の中、経済っちゅうんかしらんけどえらいけったいやなあ。
どないなっとんや、教えてくれんか学者さん」

客の視線は大将を解放して一人の痩せぎすの男に集中する。
六甲山の山麓にある国立大学で教鞭をとっている三十台の男だ。

「うーん、簡単に言えば帝國の海上輸送力に不安を持っている企業が戦時に備えて物資の蓄積を図っているんちゃいますか?
戦時に商船が徴用されたら物資の流入量が目減りするでしょうから」


「そないゆうたかて、戦争になってもあっという間に片がつくんちゃうんか?
難しいことはよう分からんけど、船はすぐに軍から戻されるし兵隊さんもそんなに運ばへんのやろ?」

確かに、帝國政府の公式見解を信用すれば、最近の物価変動は説明できない。
未開な蛮族が帝國に戦争を仕掛けるわけがないから、開戦するとしたら帝國が万全の体制を整える来年の夏であり、電撃的な侵攻によりフランシアーノは2ヶ月以内に無条件降伏を受け入れざるを得なくなる、そしてその後に追い詰められたユウジルド相手に戦争を仕掛ける、少なくとも軍部の説明ではそうなっている。
そしてこの国の大多数の人間はそれを信じて疑わない。

「ええ、確かに政府の見解に従えばそうなるんですけど、どうも人の云うことを素直に受け取れないひねくれた人たちがいるようですな。
戦争が始まればどちらが正しいかすぐに分かりますよ」

そういいながら、彼は言い知れぬ不安を抱えていた。
帝國の企業のうち少なからぬ数が帝國政府の公式見解を信じていない、そしてその数は物価に少なからぬ影響力を及ぼしている。
そもそも、この国で政府の意向に逆らって商売することは難しい。
政府に忠実な報道機関に大々的に叩かれれば、たちまち左前になってしまうことは彼らとて理解している筈だ。
にも拘らず彼らは独自路線を歩んでいる。

企業の情報網は莫迦に出来ない。
時にダークエルフを凌駕するほどなのだ。
その彼らが何か我々と異なる見解を持つに至る、相応の理由があるはず。
それが何を意味するのかは、一介の大学教員には憶測でしか語れない。


彼は壮絶な伝統の一戦が終わるのを見届け、居酒屋を辞した後も靄に包まれた様な気分に支配されたままだった。
そしてその奇妙な不安感は、彼のアパートに帰りついたときに増大することになる。 玄関の新聞入れに入っていた奇妙な手紙にはこう書かれていた。


神戸大学経済学部助教授 大隈 浩二殿

貴方が昭和三十一年度海軍大臣特別召集命令により召集が決定したことを通知いたします。
つきましては帝国憲法第二十条に定められた臣民の義務を果たして頂くべく、八月十五日に指定された場所に出頭願います。

昭和三十一年八月四日

帝國海軍大臣        山本五十六
帝國海軍連合艦隊司令長官  山口多聞


 奇妙といえば、召集令状に記載されるはずの総理大臣の名前もなければ、軍令部総長の名前もない。
従軍経験のない大学教員を引っ張って何をするつもりだろう?
彼が怪訝に思っている間にも、帝国各地で学者や研究員、予備役軍人たちが奇妙な令状を受け取っていた。

投下終了

この世界では某新聞社が大々的に煽ってます


inserted by FC2 system