『平成日本召還拾遺物語』04
沖縄は旧米軍嘉手納基地の一角に建てられた総合航空航宙博物館。
そこは世界でも最大規模の、平成日本が運用した、或いは運用している機体のほぼ全てを網羅する、航空機の博物館であった。
大は旧世界の遺物たる大型民間航空機B-747型機から、小は個人携帯用ヘリコプターまで。
新旧民間軍事を問わず、ほぼ全てが収められていた。
それらの中で一番に良い場所――戦闘機コーナーの先頭に平成日本及び<連合国>の正式採用主力機たるF-3戦闘機、烈風が展示されていた。
開発当初はxFE-1と呼称されていた本機がE(輸出用)の文字を外され、更にはF-2に続く3と云うナンバーを与えられたのは、この廉価な汎用機に対し航空自衛隊が如何に期待していたかと云う事を物語っているだろう。
この他にも、国民に対する宣伝の面もあった。
日本政府は大量の予算を投じて整備するのが、現在の航空自衛隊主力であるジェット戦闘機に対し劣っている様に見える、否、実際問題として性能的には比べられる筈も無いプロペラ機を大量に採用する事で国民が、国家への不信、平成日本が落魄してきているのでは無いかとの不安を抱かせない様にと、考えていたのだ。
又、その前に補助戦闘機として採用していたFL-1の存在を糊塗する為にも、F-3の採用は大々的に国民に宣伝される事となったのだ。
その為に、XFE-1が正式採用される際に航空機命名基準の改定が成されたのだった。
ピカピカに磨かれた姿は、見世物として展示される今でも[<連合国>空の守護者]の渾名に相応しい威厳に満ちていた。
「まさかここまで売れるとは思わなかったがね」
背広姿の小柄な男性、F−3の設計主任がサングラス越しに濃緑の機体を見上げた。
確かに烈風は売れていた。
輸出用のA型と国内用のB型から始まった烈風の生産は、A/B型の能力向上(汎用)型であるC/D型、対地攻撃能力強化型のE型(※輸出専用)、機体構造を修正して艦載化したF型、設計の一部をを再設計して機体構造の一新をした艦載型F2型、C型の夜戦能力向上型のI型、F型を元に早期警戒システムを搭載したG型まで、現時点でも1500機を超える数が配備/売却され、更にはまだまだ生産が行われているのだ。
売れすぎとすら言っても良いだろう。
「嬉しいかい?」
そう問いかけたのは、航空自衛隊制服を着込んだ男であった。
設計主任に比べて、やや以上に横幅が太い。
XFE−1のテストパイロットであった大山少佐(当時一尉)であった。
日に焼けた顔に良く似合った、丸めがねをかけている。
「まぁね。そりゃ嬉しいですよ。鬼児扱いだったのが川崎蹴飛ばして大売れだってんだから愉快痛快ですがな。
しかし、久しぶりですな大山さん」
「ああ、お互い元気そうで何より」
共にXFE-1と云うプロペラ機に平成日本の未来、希望を夢見た男たちだった。
方や富士重工業の航空機部門における中心的設計技師。
F-3の改良型のみならず、そのコンポーネントを流用した低価格軽輸送/連絡機の開発に尽力していた。
方や航空自衛隊でも有数のプロペラ戦闘機通のベテランパイロット。
航空自衛隊の新設部隊のみならず、<連合国>参加諸国で新設される航空部隊の練成に尽力している。
夢叶っての忙しい立場。
それゆえにF-3の正式採用後には2人が直接顔を合わせる事など数回も無かった。
そんな2人が一緒居る理由は、転移後10年近い月日を掛けて漸く完成した国産ステルス戦闘機、F-5の完成披露式典に呼ばれたからだった。
F-5戦闘機、愛称は“颶風”。
F-22に比べてやや大型な機体に、先進的ステルス技術とレーダー技術、更にはF-22戦闘機を解析し、実用化された大出力エンジンとを搭載した機。
F-22に匹敵する(凌駕では無い事が日本の航空技術の限界であった)戦闘機であった。
日本に於ける最大の風、その名を冠するにたる機体ではあった。
尤も、その調達予定数は162機(5個飛行隊分+α)と、1000近い航空機を保有する航空自衛隊の中で、主力機と呼ぶには少数であった。
如何に予算規模が拡大しているとは云え、1機辺りの調達価格が140億を超えるのだから仕方の無い現実であった。
そう、今後も航空自衛隊及び海上自衛隊の主力はF-3であり続けるのだった。
神州東部に新設された富士重工業の神州第一航空工場では、大馬力で量産が続けられていた。
「まだ改良を続けるのか?」
「ええ。F2型で実験できた新機軸を盛り込んだ、そうですねH型とでも云うべきものを構想してますよ」
楽しそうに笑う設計主任。
基本的には国内向けですが、と云う。
F-5系のものも採用が認められたんですよと。
量産効果による、F-5の価格低下を狙った面もあった。
が、それ以上に航空自衛隊の主力であるとの意識が大きかった。
平成日本が新たな世界にて得た翼は、更なる飛躍を行うのだった。