『平成日本召還』20


――1
 第6飛行隊による爆撃を先鞭として行われた陸上自衛隊による攻撃は、所謂エアランド・バトルとして成功する事となった。
 航空攻撃による部隊を混乱させた所へ、1AmRcT(第1装甲連隊戦闘団)が殴り込んだのだ。
 歩兵も戦車も定数を満たしたとはとても言えない規模ではあったが、その衝撃力は相当なものであった。
 走行しながら砲を射撃する90式戦車や89式歩兵戦闘車、果ては87式自走高射機関砲の姿に、大協約<第14軍団>第1421歩兵大隊の士気が崩壊したのだ。
 僅かも戦う事無く壊走する第1421歩兵大隊。
 しかし、それが成功する事は無かった。
 退路へと99式自走榴弾砲とMLRSが全力射撃を行ったのだから。
 そしてAH-64Dによる掃討すらも行われた。

 F-2による空爆から3時間後。
 第1独立装甲連隊の指揮官である福田一佐が、戦闘の一時停止を下命した頃まで生き残っれていた第1421歩兵大隊の将兵は、たった82名であった。
 その全員が、捕虜として囚われる事となった。



 意外な話かもしれないが、このメクレンブルク王国外周部に於ける戦闘は、<大協約第14軍団>第1421歩兵大隊と、ワイバーン・ロード1個戦闘中隊の消滅をもって終息する事となった。


 <大協約第14軍団>側としては、小規模とは言えない部隊が“消滅”しており、無闇に戦闘を継続する事によって、被害が拡大する事を恐れたのだ。
 そもそも、<大協約第14軍団>は平和が長く続いた結果として軍閥化し、利権集団としての側面を強く有しており、その本質に於いては狂信的な戦闘が行える集団では無かったのだから。
 よって、駄目で元々くらいの気分で停戦交渉を口にしたのだ。
 対して日本。
 “平和国家”と云う、その何とも言いがたい政治的スタンスと国民の民意的な面からは“停戦”と言われれば即座に頷いてしまう面があったが、今回はそれだけでは無かった。
 より重要な理由があったのだ。
 それは弾薬である。
 日本がメクレンブルク王国へと持ち込んだ弾薬が、この数日の戦闘でかなり消耗してしまっていたのだ。
 無論、払底したと云う訳では無いが、大隊を叩いたのしては余りにも消耗し過ぎてしまっており、このまま1個の鉄竜(戦車)と2個の歩兵連隊を基幹とする<大協約第14軍団>本体と交戦するのは厳しいと、<第1次メクレンブルク支援団>の司令部は判断したのだった。



 メクレンブルク国境沿いの小さな村にて行われた1週間近い停戦交渉の結果、暫定的ながらも2ヶ月の停戦協定が結ばれた。
 <大協約第14軍団>としては、この間に出来る限りの情報を収集する積もりであった。
 それが判って尚、日本国がそれを受け入れたのは、軍事的要素の他に外交的理由があった。
 この停戦協定の中に、<大協約第14軍団>の仲介でをもって、<対帝國大協約>の最高意思決定機関である<大協約列強理事会>との外交交渉を行うとの項目を入れたが為であった。


 両者の思惑が入れ混じる形で停戦協定は発効した。
 これによってマスコミが命名する所の、第1次メクレンブルク事変が終息したのだ。


――2  さて、メクレンブルクでの戦いが停戦した事で世界は認識した。
 “帝國”が復活した事を。
 世界は最初、半信半疑を通りこして疑っていたが、大協約軍7つの軍団でも最強をもって知られていた<大協約第14軍団>が、戦闘を行い、そして敗北したと云う現実――<大協約第14軍団>自体はその事を口にしなかったが、精強と共に強欲をもって知られた同軍団が停戦をするなど、他に理由が無かろうと世間は判断したのだ――が、裏づけとなったのだ。


 この事が広まると共に、動き出した者たちが居た。
 様々な者たちが、伝説の“帝國”に夢をみた。
 その中でも、平成日本へ接触を図る等の顕著な動きを見せたのは3つのグループだった。

 1つは獣人。
 当然だろう。
 彼らは“帝國”消滅後、ダークエルフ達と同じように塗炭の苦しみを味わってきたのだ。
 かつての庇護者が復活したと聞けばいてもたっても居られなかったのだ。


 1つはドワーフ。
 北東ガルム地方に住み、そして“帝國”の陣営へと参加していた者たちだ。
 北東ガルムのドワーフ族は、その経歴故に“帝國”消滅後に大協約軍によって攻められ国家は消滅し、大協約北東ガルム・ドワーフ特別領として列強の雄ローレシア王国に支配され、莫大な債務を負い、冶金技術や魔法鉱物の精製を放出しながら何とか生き延びてきていたのだ。
 完全に滅ぼされなかったのは、その技術を惜しまれた事と、エルフの口添えがあったからとされている。
 とは云え、状況は奴隷もかくやと云うものであり、裏切り者として同胞からの支援も得られない状況では、
 “帝國”へ救いを求めるのも当然だろう。


 そして最後の1グループはボルドー商人、特にメディチ家の人間だった。
 メディチ家は“帝國”から帝國伯爵の位を貰った家ではあったが、機を見るに敏なる性を発揮し、“帝國”消滅後も生き延びていた。
 無論、帝国時代と比べれば比較にならぬ程に勢力は衰えていたが、それでも尚、広域な活動範囲を持っていた。
 その彼らが“帝國”――平成日本へと接触を図ったのは、無論、その“帝國”産の様々な物品の独占的売買権を求めての事だった。
 彼らは“絹”の独占販売が生み出した富の事を忘れてはいなかったのだ。

 そして同時にメディチ家は知っていた。
 列強諸国とは比べ物にならない程に資源を食料を必要とする“帝國”は、転移後は国力に比して、激しく痩せ細ってしまう事を。
 即ち、恩の売り時である、と。


 世界が、平成日本を含めて動き出していた。


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