『帝國航空開発史』


バラッバラッバラッバラッ
帝都の片隅、羽田の大地に発動機の音がこだまする。
静々と滑走路に向かうは巨大な影。
巨大な翼には左右に3つづつのエンジンを吊り下げていた。
航空機としては桁外れに太い胴体の中には、100人を越す乗客を飲み込むことができる。

中島「富嶽」旅客機。
この羽田から、島伝いにレムリアの港町ボルドー飛行場を結ぶ長距離運行テストで、まもなく飛び立とうとしていた。

帝国と国民を襲った「転移」の影響は帝国の国策航空会社、大日本航空、満州航空にも降りかかった。
当初羽田飛行場に転移してきたDC-3、中島AT-2、ロッキードF14、九七式飛行艇などの旅客機は、新天地の地理が不明なのと厳しい燃料制限のため、国内のごく限られた路線を除いて野ざらしの憂き目を見た。
そのうちこの世界の地理調査がすすみ、そのうち帝国とさほどはなれていない「神州大陸」やスコットランド王国、マケドニア王国などへ帝国周辺路線を開設するに至った。
また航空機の稼働率を大幅に低下させていた燃料問題も、昭和18年を境に改善していき、民間航空への燃料も優先的に割り当てられ、今や帝国周辺路線の拡充は著しく再び発展していく兆しが見えてきた。

ところが地理調査がすすむにつれ、帝国は大洋のど真ん中に位置してる、他大陸と余りに隔絶した環境に置かれてることが判明してきた。
これは国防上は大変有利な出来事ではあるが、民間航空にとってはネガティブな条件となった。
つまり、大陸直行路線を開設するに当たっては、一番近い飛行ルートをとっても転移前の日本〜南洋諸島の直線距離と等しくなってしまったからである。

転移前、航空先進国アメリカのパン・アメリカン航空がサンフランシスコからハワイ〜ミッドウェイ〜ウェーキ〜グアムを経由してマニラ、上海に至る太平洋横断路線を運行していたが、使用していた機材は飛行艇、ボーイング314だった。
当時の技術では、長距離洋上飛行は大変危険だったのだ。
仮に当時の信頼性の低いエンジンのうち1つでも止まってしまうことは、すなわち死を意味した。
飛行艇なら、エンジンが故障しても何処でも着水し、修理することも救援を呼ぶこともできる。
しかしその「世界で最も経験豊富な航空会社」でさえ、故障〜不時着水や遭難事故を度々起こしていたというのだから推して知るべしである。

故に、ほとんどの長距離路線はできるだけ陸上の飛行場伝いに飛び、洋上飛行は専ら飛行艇で運行するのが転移前の航空業界の常識だった。

しかし、それでは大日本航空の保有機のほとんどを占める双発陸上機で運行できる路線は極端に制限されてしまう。
大日本航空も、初めは九七式飛行艇や二式飛行艇で大陸への航空路線の開設を図った。
だが、寄航に適した島が極端に少ないという問題に直面したのだ。


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