『桜の落葉』


かつて戦場で感じたものにも似た異様な気配に跳ね起きた男を迎えたのは、穏やかで涼やかな夏の夜だった。

網戸越しの微風が遠くの田から運ぶ蛙の鳴き声を聞きながら、酔眼と手探りと月明かりを頼りに台所へ辿り着くと、
甕から柄杓で水を掬い取る。
沢水は手製の激烈な芋焼酎で焼かれ渇いた喉に甘いが、現状は苦い。

故郷とはいえこんな田舎で一介の入植者として鍬を、戦地で体得した自活の技術を振っている元上官に、
いま秘密裏に構想されつつある新国軍の幹部要員として再起を促すべく、
汽車と木炭車を延々と乗り継いでこの関東平野を縁取る山中まで訪れたにも関わらず、
翻意させられないまま当の相手に酔い潰されてしまったという現状は。

農地改革にも関わらず依然として素封家かつ篤農家である元上官の本家が協力しているだけあって
ここは十二分に先進的な農場だが、骨を埋めるべき場所とは思えなかった。
「何だ、君も起きてきたのか」
もう軍曹と呼ばれることはなく、この男を少尉殿と呼ぶこともないのか。
酒の所為か、妙に感傷的な気分になった元軍曹がそれを言葉にしようとした時。
蛙の声が、月の光が途切れた。
世界が、静かに暗転した。


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