陸士長『魔導工学研究計画:黎明の章』中編 スコットランド王国軍 第51研究所 食堂  ひたすら、ひたすらな咀嚼音が豪奢な食堂に響き続ける。 此処は貴賓用の食堂。調度品も室内の内装も拘っている。 だが、ただ1人食堂の椅子に座り、山積みになった帝国産の菓子を次々に胃袋へと納めていく女―――少佐には関係ない。 彼女は、右手で棒羊羹をモリモリとはみつつ、左手で山積みになった報告書のレポートを捲っていく。 どちらも凄まじいスピードだ。レポートの承認印を小刻みに押してながら菓子の包みを器用に破り、口の動きは全く止まらない。 「あの、少佐殿。度々申し上げておりますが、食べながら報告書を読むのは……」 「んがくっく……行儀が悪い? 確かにそうだな。だが、私が甘味を食べるのを邪魔しないでくれ」 視線を受けワタワタと慌てる主任を見やり、少佐は口の端に付いた漉し餡を別の部下が差し出したハンケチで軽く拭う。 長身の大尉は全く動かない。少佐の斜め後ろで、真っ直ぐ前を見たまま彫像と化している。 「知らないのか主任。甘党は一日おやつを抜いただけで別腹が餓死してしまうんだ。この私が言うのだから間違いない」 そう断言し、ワシャワシャと文明堂のカステラを端から囓っていく。 瞬く間に2斤のカステラが少佐の腹に収まっていくのを見て、慣れている筈なのに主任は思ってしまう。 この人、よく『放浪時代』を生き抜けたなと。あの、食べていくのですら精一杯の時代を。 実際、彼女―――特務少佐は不思議が多い存在である。過去を知る者が殆ど居ないのだ。 修技館を出たと言う話は無いのに、長老達に意見を出せるだけの権限を持っているしお抱えの実働部隊も配下に存在する。 その辺、主任は詮索を控えていた。 この少佐は甘党の癖に、行動や手段は極めて辛口なのだから。 「今日の甘味は品揃えが良いな。どこで仕入れた?」 「は、アバディーンに出向している食品会社のつてで手に入れました」 「ほう、君のつてか。見事な人脈じゃないか」 「お褒めにあずかり光栄です」 「だが、研究の方は甘味の品揃えほどよろしくない。レポートの上を見るだけでもやや遅延が見られるな」 「は、はは。申し訳ありません!」 脂汗をタラタラ流しながら頭を下げている主任。 そんな彼に一瞥もくれずに、少佐は主任が話している間に口に放り込んだ牡丹餅を喉の奥に流し込んだ。 濃いめに入れた日本茶をずずっと啜り、主任の方を口の端を吊り上げながら見やった。 「まぁ、この辺は致し方無いな。此方に送る匪賊と流民の罪人どもの数が予定より2割程不足している」 「は、はい。何分、まだ開発初期の状態の部門が大半ですので、実験を頻繁に行わなければ基礎理論の完成に差し障ります」 「ふむ……まぁその辺は石井将軍と話を付けてきた。必要分、我が方への割り当てを増やしても良いとの事だ」 「そうですか。ありがとうございます!」 「勿論只では無かったぞ。交換条件として、我等が世界の疫病や病気媒体に関する情報を欲しいとの事だ。解るな?」 「ははっ、至急、上の方に資料提供の要請を出して置きます」 「よろしい。10日後に私はまた帝國本土へ渡る。それまでに用意しておくように」 「はっ!」 深々と主任が頭を下げるのを見て、少佐はくくっと喉を鳴らし。 最後に残っていた生クリームたっぷりのシューを一呑みにした。 報告が済んだ後は、視察である。 主任と研究員数名を連れて、少佐は各部門を見て回っていく。 ちなみに大尉は居ない。エントランスで待機状態だ。 「大尉を連れて来なくてもよろしかったのでしょうか?」 「主任も解っていると思うが大尉が血を見過ぎるのはあまり良くない。具合の悪い事に今夜は満月だしな」 キャラメルをもきゅもきゅと口の中で遊ばせながら、少佐は廊下を歩いていく。 辺りには人影が少ない。所々に表示されている看板には『培養槽室』や『保冷室』等が書かれていた。 「モルグ等を見て下手に刺激が入ると、抑制するのに私が手間となる。まぁ、今回は視察だけだ。問題はあるまい」 「は、確かに……」 少佐の言葉に頷き、次の視察場所へ向かおうとした主任と一行の耳に、警報音が飛び込んで来た。 と同時に、通路の天井に設置されている赤ランプが乱舞し、通路全体を赤く染める。 「どうした。何があったのだ!?」 廊下に設置してある非常用電話機を使い保安室へと連絡を取る主任。 『主任、そちらに居られましたか。直ちに第弐棟から退去なさってください! 第6保冷室の実験体の活動が急激に高まっています!』 「何だと、それはどういう事だ!」 「保冷器の故障で、抑制されていた成長が異常促進したようです! 隔壁を降ろしますので直ちに……」 保安員の言葉が終わらない内に、二十数m向こうの廊下にある部屋の扉が爆砕した。 ぽっかりと開いた扉枠を破壊しつつゆっくりと姿を現したのは、体長が2m半ほどもある大柄な剥き身の厳つい人体標本。 直接外気に張り出した血管がピクピク動き、ピンクと朱のボディからは得体の知れない粘液が滴っている。 「あれは何だね主任。私の歓迎にしては些か雅に掛けるが?」 「も、もももも申し訳ありません。研究設備の不備の為、オーガの実験体を取り逃がしたようでして……」 「なるほど取り逃がしたか。不備の極みだな」 「は、はい。た、直ちに保安部によって制圧を」 「保安部が来るまで間が持たんな。どうやら我々に用があるらしいぞ実験体君は」 少佐の言葉に主任が振り返ると、オーガの実験体がジリジリと此方へ向かってくる。 足の表皮が溶解している所為か、歩みが遅い。 だが、たかが二十数メートルしか間が無いので直ぐに此方へと辿り着くだろう。 「少佐殿、は、早くた、退去を」 「そ、そうです。隔壁を閉めますので早くお下がりください!」 早くも後ずさりながら必死に少佐へ退避を促す研究員達。 種族構成が戦闘民族と言っても過言では無いダークエルフ達だが、何事にも例外がある。 彼等は、学者及び技術者としては優秀だが戦闘技能はからっきしなのだ。 そんな怯える主任と研究員達の言に耳も貸す様子もなく、少佐はにやりと笑みを浮かべた。 「はは、とんだ歓迎イベントだ。だがまあいい、化け物が逃げ出すのは研究所の華だ」 少佐は一歩前に出ると、右手を上に掲げた。 するとあら不思議、彼女が首に掛けているストールの片方の先端がひらりと動きホルスターを開ける。 ストールの先端は器用にうぃ〜んと動きながら、南部式自動拳銃をホルスターから引き抜くと。 するすると上に舞い上がり、少佐の掲げた掌にグリップを納めた。 普通に右手でホルスターから抜いた方が早いんじゃないかと言う突っ込みは野暮である。 誰の突っ込みも無かったので、少佐は笑顔で発砲した。 一発、二発、三発、四発、五発、六発、七発、八発、九発。 九つの銃声が研究所の通路に響き。 そして、それら全ての弾が明後日の方向に飛んでいき、内2発は跳弾によって研究員達の直ぐ側に命中した。 「駄目だ主任。当たらん」 (…………射撃が下手過ぎます少佐殿) どうやってこの人特務になれたんだろ? あまりに下手な射撃に本音が漏れそうになり、慌てて口を塞いだ主任の耳にそれは聞こえた。 ふぅふぅ、ふぅふぅ。 生臭い息の臭いが、鼻に付く。 そう、もう直ぐ側までオーガの実験体は接近して来て居たのだ。 後編へ続く。