魔法少女リリカルなのは×とらいあんぐるハート3SS 番外編「うちのお父さんは世界一っ!」 【前編】 ――――第97管理外世界“地球”、海鳴市。 <1、喫茶『翠屋』> 「はやて、あんた…… まだあの男と一緒にいたの?」 「……はい?」  少なからぬ呆れと怒りの込められたアリサの詰問に、はやては一瞬訳が判らず間抜けな返事を返す。  だが数秒間の思考の後、彼女の言う“あの男”が自分の“父”であることに気付き、慌てて抗議の声を上げた。 「ち、ちょう待ってやアリサちゃん。仮にも私のお父さんやで? あの男呼ばわりはあんまりやん」 「はあ〜 アンタ、いえアンタ達は……」  はやての抗議にアリサは大きな溜息を一つ吐くと、語気を強めて断言する。 「いい、はやて? アンタ達はあの男に騙されてるの! いい加減目を覚まして、とっとと縁を切りなさいっ!」 「!? それは誤解、誤解や――」  アリサの言葉に、はやては誤解だとばかりに父の良い所を挙げていく。  だがそう長くは続かず、直ぐ言葉に詰まってしまう。  それでも何とか言葉を続けようと苦心するはやてを見かね、アリサは手で遮った。 「……もういいわ。アンタが言ってることは、しょせん無理な“よかった探し”に過ぎない。聞くだけ時間の無駄よ」 「そ、そんなことない! お父さんは、やればできる子やっ!」 「ダメな子に対する典型的な慰めよね、それ。  ……ま、29になってもまだバイト同然の仕事しかしてないダメ人間には相応だけど?」  ……事実である。  管理局の陸士という職は基本的に任期制であり、その待遇はともかく身分は短期の契約職員に過ぎない。  まして入局試験どころか入局資格も満たせずに“見習い”扱いで入局した恭也など、それ以下のフリーターも同然だ。  故に、どう考えてもそろそろ30に手が届こうという男がやる仕事ではなかった。  ことに“娘”はやてが既に一尉、“妹”なのはやその友人であるフェイトが二尉であることを考えると、その情けなさが一層際立つ。  バンッ!  が、それは禁句だった。はやては激高して立ち上がり、周囲の目も気にせず声を張り上げた。 「お父さんは、世界一のアルバイターやっ!」  ……気付けば、何時の間にか注目の的になっている。  閉店間際なので既に客も少ないが、それでも恥ずかしいことに変わりはない。アリサは思わず顔を赤くする。  だが勝ち誇るはやてを目の前に、勝負を降りる訳にはいかなかった。  持ち前の負けん気から、周囲の目(耳)を気にしつつもアリサは反論に応じた。 「年老いて路頭に迷うのが目に浮かぶわ!」 「私が養ったる!」  そっ……  はやてのその言葉に、耳をダンボにしていた客達がそっと涙を拭いた。  ……ああ、きっとこの少女はかわいそうな身の上なのだ。  にも関わらず、ろくでもない父親を愛しているのだ、と。  このちょっぴりいい話に、店内がほんのり暖かくなった。皆の眼差しが温かい。  この生温かい空気に更に顔を赤くしながらも、アリサは尚も反論に応じる。   「あんな甲斐性なしじゃ、結婚もできないわよ!」 「私がしたる! 子供も産んだるっ! ――というか、むしろ望むところや!」  ざわっ……  はやてのその爆弾発言に、今まで感動していた客達がざわめき出した。  『近親○姦!?』『まさか幼い頃から○的虐待を!?』『誰か児童相談所……いや警察を……』 「あの、お客様……」  流石に見るに見かねた桃子が、テーブルにやって来た。 「あ、桃子さん?」 「他のお客様のご迷惑になりますので、どうかもう少しお静かに……」 「へ…… ――っ!?」  その言葉で、はやてはようやく自分が注目されていることに気付いた。  何故、とばかりに今までの発言内容を吟味してみる。と……  かあ〜〜  恥ずかしさのあまり、顔が真っ赤になった。  そして、遂には泣きながら店を飛び出してしまった。 「うわ〜〜ん! アリサちゃんのいじめっ子!」 「あたしが悪い訳っ!?」 「ま、毎度有難うございました〜〜」 「まったく、へんなトコで律儀なんだから……」  テーブルの上に、何時の間にか千円札が3枚置かれていることに気付き、アリサは呆れ果てた様に呟いた。  あんなに口論しながら、慌てながらも、はやては『奢る』という約束をきちんと守ったのである。まったく、何と言うべきか……  テーブルの上を片付けつつ、桃子がしんみりと呟いた。 「……でも、はやてちゃんちも結構大変なのね。知らなかっわ」 「は、ははは……」  真実を話せる筈もないアリサは、笑って誤魔化すことしかできなかった。 「アリサちゃん、さっきは少し言い過ぎだったよ?」  桃子が奥に戻った後、今まで沈黙を守っていたすずかが苦言を呈した。  彼女とて立場的にはアリサ側だったが、かと言ってはやてを二人で問い詰めることもしたくなかった。  故にどちらに肩入れするでなく、今まで沈黙を守ってきたのだが―― 「まだ言い足りないくらいよ! まったくはやてといい、フェイトといい、あの男のどこがいいんだか」 「……今回は、相手がはやてちゃんだったからまだいいけど、フェイトちゃんには絶対ダメだよ?」 「わかってるわよ……」  アリサは忌々しそうに頷いた。  フェイトは普段こそ大人しいが、こと自分の大切なものを守るためには一切の妥協をしない。  もし今回の様なことにでもなれば、はやて以上に激しく反応するに違いなかった。  ぎり……  腹立たしさのあまり、アリサは歯噛みした。  ああ忌々しい、まったくもって忌々しい。 「まったく! あの男のせいで、私達“仲良し五人組”はバラバラよ!」  ……それは流石に言い過ぎだろう。彼女達は未だ親友同士、固い友情で結びついている。  だが何時しか互いに距離が出来てしまったのも、また否定できない事実であった。  魔道師の三人と一般人である二人の距離。  二人の“恭也”、そのどちら側にいるかによる距離。  ――この二つが、徐々に五人を引き離し始めたのだ。  ことに、二人の“恭也”を巡る距離は大きかった。  何故ならば、アリサとすずかは“こちらの世界の恭也”に、はやてとフェイトは“来訪者である恭也”に、 それぞれ隠し様のない程の好意を抱いていたからである。  加えて、何故か互いにもう片方の“恭也”を敬遠しているのだから始末に終えない。  流石に、なのはは二人の“恭也”を両方受け入れていたが、それはそれでアリサには不満だった。  生まれてから今まで14年間一緒に暮らしてきた“こちらの世界の恭也”と、ぽっと出の“来訪者である恭也”が彼女にとり同格だなど、 どうして認められようか?  なのは、アンタまで一体どうしちゃったのよっ!?  だがそんなアリサの気を知ってか知らずか、すずかが指摘した。 「謝らなくっちゃ、ね?」 「……謝るのはいいけど、内容の撤回はしないわよ?」  すずかの言葉に、アリサは念を押した。  あの男は、その愚かな行為により人に哂われている。後ろ指を指されている。  それは、“恭也さん”を貶めるも同然の行為。  想い人の名を、姿を汚す存在など、どうして認められようか?  ……それに、なのは、はやて、フェイトの三人とて、噂に心を痛めて泣いていたではないか。  なのに、自分を想う娘達が泣いているというのに、“あの男”は一向に行動を改めようとしない。  親友達の心を踏みにじる存在など、どうして認められようか? 「私は、あんな男が“恭也さん”だなんて断じて認めない。誰が認めてなどやるもんですか」 「……“あの人”も、本当は駄目な人なんかじゃないと思うよ?」  アリサの心の叫びに、すずかがやんわりと諭した。 「だって、はやてちゃんとフェイトちゃん、それになのはちゃんまでもがあんなに懐いているのだもの。  ――ねえ、アリサちゃん? 私達のお友達って、そんなに人を見る目が無いのかな?」 「…………」 「きっと、私達の知らない素敵なところが、たくさんあるのだと思うよ?  ……名前を呼びたくないのは私も同じだから強制しないけど、はやてちゃんやフェイトちゃんの前で貶めるのだけは駄目」 「……わかってるわよ」  すずかの言葉に、アリサはぽつりと呟いた。  だが、だからこそ余計に許せないのだ。  だって、もしそうだとすれば、あの男はわざとあのような振る舞いを―― 「……それに、今はあの人にかまけてる暇なんてないよ?」 「? どういうこと?」  突然の思いがけぬ言葉に、アリサは戸惑いつつも訊ねた。  と、すずかは俯き、何かを抑える様に淡々とした口調で答え始めた。 「……昨日、お姉ちゃんが恭也さんのお食事に一服盛ろうとしたの。  間一髪だったわ。あんなに強力なお薬使おうだなんて」 「え? そ、それって!?」 「おまけにゴムに針で穴まで開けて……  私も恭也さんが好きだって知ってるくせに。  『すずかもライバルだね、正々堂々勝負しよう』だなんて言ってたくせに……  ふ、ふふふ、これってもしかしなくても裏切りだよね?」 「す、すずか……?」  その普段からは想像もつかぬ瘴気に、アリサはドン引きだ。  すずか、アンタにこんな一面が隠されていたなんて……  きっ!  暫し肩を……いや全身を小刻みに震わせていたすずかが、顔を上げて真剣な表情でアリサを見た。 「このままじゃ、恭也さんとられちゃうよ? 相手は強敵だから、私達協力しないと」 「協力!? で、でもさ、恭也さんは一人な訳で……」 「シェアすればいいよ。私達、親友でしょう?」 「や、流石にそれは……」  色々と問題があるのではなかろうか、と口篭るアリサ。  が、そんな彼女をすずかはじっと見つめる。 「……私、アリサちゃんとならいいよ? アリサちゃんは私とじゃ嫌なのかな……」 「う゛…… 確かに、オールオアナッシングよりは……相手もすずかだし……」 「……今なら、お姉ちゃんから没収した薬もついてきます。嫌なら私一人で使いますけど」 「!? わ、わかった、わかったわよ! 協力するっ、するからっ!?」  そうでなくと恭也との接点が一番少ないアリサである、そんなモノを使われた日には一発で勝負がつきかねない。  アリサは慌てて首を縦に振った。  それを見て、すずかは怖い位綺麗ににっこりと頷いた。 「うん♪ これで私達は一生親友だね? あ、ちなみに裏切りは許しませんから」 「くっ、わかってるわよ! こうなったら毒喰らわば皿まで! 夜討ち朝駆けで行くわよ!」 「おー!」  ぱたぱた 「毎度有難うございました〜」  駆けていく二人を、桃子は呆気に取られてつつも見送った。  そして二人が見えなくなった後、感心したように呟いた。 「最近の中学生って、進んでるわね……」 <2、路上にて> 「はあ……」  翠屋を飛び出し、当ても無く歩く道すがら、はやては大きな溜息を一つ吐いた。  こんな筈じゃなかったのに……  あまりの結末に、思わず項垂れてしまう。 「……せっかく久し振りに会うたというに、私なんてアホなんやろ」  はやては、普通の中学生ではない。  地球でこそ一中学生に過ぎないが、一歩外へ出ればその名を知らぬ者はいない程“力ある”の大魔導師なのである。  そして、魔導師とは支配者階級――即ち旧貴族・士族――であり、その社会的地位と能力に応じた“奉仕”を行うことが当然視される。  『noblesse oblige』(高貴なる者、力ある者の義務)  この言葉の実践を、文字通り要求されるのだ。  まして如何にまだ幼かろうと、魔導師の頂点に位置するはやてがこの“義務”から逃れられる筈も無い。  管理局上級キャリア試験に通ったこともあり、公私共にとにかく色々と忙しい日々を送っていた。  ……当然、地球の学校になどまともに通える筈がない。  幸い聖祥学園上層部と管理局との間に何らかの関係があるのか、出席日数については何とかなったものの、 親友のアリサやすずかとはとんとご無沙汰だった。  そんなはやてにとり、今日は久方振りの登校である。  旧交を温めると同時に今までの不義理のお詫びも兼ねて、帰りに彼女達を翠屋に誘ったのであるが―― 「つい気が緩んで、いつもなのはちゃんやフェイトちゃんとする様に、お父さんの話をしてしもうた……」  ――という訳である(逆説的に言えば、それほどまでに久し振りの会話だったのだ)。  なのはやフェイト相手ならばもはや挨拶代わりのようなもの、会話の種として話も弾むがアリサとすずかには逆効果だ。  『しまった』と気付いた時には既に遅く、冒頭のシーンと相成ってしまった。  ……いや、アリサの言い分も分かるのだ。  ぶっちゃけ、彼女は“こちらの世界の恭也”に惚れている。  そんな彼女にとって本物はあくまで“こちらの世界の恭也”であり、“来訪者である恭也”は偽者でしかない。  その存在は、さぞかし目障りに違いなかった。  だがそれでも偽者……いや“来訪者である恭也”がまともなら、何も口出ししなかっただろう。  だが、『かなり問題あり』となると黙ってはいられまい。  (彼女には、さぞかし“こちらの世界の恭也”が想い人を愚弄する存在に見えるだろう!) 「お父さん、遠くから見るととことん駄目人間やからなあ……」  はやては嘆息する。  もうそろそろ30に手も届こうというのに万年上等兵(陸士長)。  挙句に勤務態度は最悪で減俸されまくり、100円200円の金にも汲々とする甲斐性なし。  ……うん、本当にいいとこなしだ。  けれど―― 「あそこまで言われる筋合いはないで。“こっちの世界の恭也さん”がナンボのもんやっ!」  先程までの意気消沈振りはどこへやら、怒りの導火線に火がつき、はやては吼えた。  そう。アリサが“こちらの世界の恭也”の方を“本物”と認識している様に、彼女は“来訪者である恭也”こそを“本物”と認識している。  だからこそ、アリサ達の“こちらの世界の恭也”に対する賛辞に反発してしまう。対抗心を覚えてしまう。 「専門外にも関わらず剣道でインターハイ三連覇?  ――はっ! それがどないした!  うちのお父さんはSランクの戦闘魔導師にだって勝てるでっ!」  “こちらの世界の恭也”の武技を思い出しつつ、はやては吼えた。  碌に会ったことも無いが、それでも小学生時代に何度か道場での鍛錬を見学させて貰ったことがある。  当時は何も分からなかったが、今ならば分かる。  “こちらの世界の恭也”は――弱い。自分の父と比べ、あまりに非力だ。  見るところ、せいぜいナイフや鉄パイプで武装したチンピラ共を叩きのめすのが精々だろう。  これに拳銃が加わればもういっぱいいっぱい、マシンガンやアサルトライフルとなるともうお手上げだ。  ……父なら、100発を超える超音速誘導弾(ハイ・マジックミサイル)の同時攻撃も全弾回避・迎撃できるというのに。 「学年主席? 生徒会長? ついた二つ名が“風芽丘の貴公子”“完璧超人”?  ――はっ! それがどないした! うちのお父さんなんて“兵隊元帥”やっ!」  更にはやては吼える。  自分の父はただの万年陸士長ではない。  僅か入局数年……それも陸士長の身でありながら、“兵隊元帥”としての待遇を下士官兵達から受けているのだ、と。  管理局において、何の有力資格――魔導師資格を含む――も持たない一兵卒からの叩き上げ士官を“特務士官”と称する。  これは抜群の実力・実績を示し、かつ長い経験を積んで初めてなれる地位だ。  故に、正規の士官は(たとえ佐官将官と言えども)彼等を尊重する。  その意見に重みがあることも無論だが、何より彼等の支持無しに円滑な部隊運営は不可能だからだ。  故に、下士官兵は無条件で彼等を崇拝する。  『士官と下士官兵は別の世界にいる』等と言われるが、士官でありながら下士官兵にとり古参下士官よりも畏怖する存在なのである。  ――そんな彼等は、俗に“兵隊将軍”とすら呼ばれる。  特務三尉なら“兵隊少将”、特務二尉なら“兵隊中将”、特務一尉なら“兵隊大将”、そして最高位である特務三佐なら“兵隊元帥”と。  そして陸士のクセに部屋一つ独占し、部隊駐屯地を出入りする際には衛兵司令以下衛兵達が最敬礼で見送る父は、 (特務士官でこそないものの)まぎれもなく“兵隊元帥”だった。  それも特に求めるでなく周囲から推戴され、自然にそうなったのである。  一体、如何程の実力と人望を見せつければそうなれるのだろう? はやてには、およそ想像もつかない。 「……なのに、何でや。ありさちゃんもすずかちゃんも、何でわかってくれへんのや」  再び肩を落とし、はやては嘆く。  アリサ達には、幾ら説明しても父の……“来訪者である恭也”の凄さがわからない。理解できない。  そのあまりに現実離れした神懸り的な――或いは胡散臭い――強さよりも、目の前で拳銃すらも恐れず立ち向かい、 複数の相手を叩きのめす“こちらの世界の恭也”の現実的な強さの方に、遥かに魅力を感じている。  “兵隊元帥”の件も認識はせいぜい“チンピラゴロツキの親玉”がいい所、ますます嫌悪感を募らせる始末だ。  もはや二人と自分達とでは立位置が違うのだ、と痛感せざるを得なかった。 「でも今回悪いのは私なんやし、明日一番でアリサちゃんに謝らな。とはいえ、どんな顔して会えばええねん……」  そう項垂れつつ、はやてはとぼとぼと道を歩いた。                          ・                          ・                          ・ 「おや、はやてちゃんかい?」 「あ……」  あまりにタイミングの悪い出会いに、はやては内心大きく動揺した。  ……どうやら今日はとことんついてないらしい。  目の前に、“恭也”が立っていた。  だが姿形や声は同じでも、“違う”とはっきり分かる。  纏う空気が、存在感がまるで違う。  断言できる。彼は“こちらの世界の恭也”だ。   「こんばんは、き……なのはちゃんのお兄さん」  『恭也さん』と言いかけたものの、体が拒否して言葉が続かない。  止むを得ず、はやては当たり障りの無い言葉で頭を下げた。  そして、内心苦笑する。  ……何のことは無い、結局の所、自分もアリサのことを言えぬのだ。  自分にとり、“本物の恭也”はあくまで自分の父。この目の前にいる相手ではない。  だから、名を呼ぶのにこれほど抵抗感がある。粗探しの目で見てしまう。  なんや、この頼り無さは。ホンマにお父さんと同一の存在かいな。  こんなんじゃ『背中を預ける』どころか、とても戦力に数えられへん……  加えて、先の反発も未だ残っていた。故にどうしても拒絶してしまう。笑窪も痘痕、長所も短所に見えてしまう。  何より、自分の父を否定されているようで、正直こうして会っているのが辛い。 「こんばんわ、久し振りだね」 「はいー」  父とは異なり柔らかな、言葉仕草共にそつの無い挨拶。  が、それすらも今のはやてには『胡散臭い』と思えてならない。  ……はっきりと自覚できる。今の自分は実に危険な心理状態にある、と。 「一人? 最近このあたり物騒なんだ。送るよ」 「!? け、結構ですっ!」  どうにか話を切り上げてとっとと逃げようと考えていたはやては、その申し出に思わず仰け反った。  同時にその心中で、額を床に擦り付けんばかりに頭を下げ、己が行動の失礼さを詫びる。  すんません、本当にすんません。私、なんて失礼なことを……  だがそのあまりに失礼な言い草と態度にも関わらず、“こちらの世界の恭也”は穏やかな表情と態度を崩さない。  そればかりか、諦めずに再度申し出る。 「う〜ん、嫌われちゃったな……  でもね?本当に危ないんだ。最近、何人もこの辺りで痴漢に遭ってるんだよ。  で、俺は町内会の一員として警備してるって訳。嫌だと思うけど、俺を信じてくれ」 「う……」  こんなに非友好的な相手の身まで心配してくれるなんて、なんと紳士なのだろう。ウチのお父さんとは大違いや……  けれど理性でそう思っても、この込み上げてくる拒絶感を抑えきれない。  言い澱むはやてに迷っていると勘違いしたのか、“こちらの世界の恭也”は止めとばかりに自慢げに話す。 「こう見えても腕に覚えがあるんだ。御神流っていう古武術を極めて、免許皆伝なんだよ」 「!?」  その言葉を聞き、はやては目を見開いた。  ……今、この男は何と言った?  あれ程の高みに至った父が『もはや一生極めることは叶わぬ』と嘆き、それでもなお必死に打ち込んでいる御神流、  父が世界最強最高の武術と誇り、その名を辱めぬべく日々命を懸けている御神流、  そして何より、高ランクの戦闘魔導師が犇く戦場で唯一父の命綱である御神流、  ――それを、『極めた』? 何と軽く言ってくれるのだろう。この男にとり、御神流とは“その程度”のものなのか?  そんなはやての心を知ってか知らずか、“こちらの世界の恭也”はにこやかに言葉を続ける。 「ま、そんな訳で何かあっても大丈夫、はやてちゃんを守ってみせるよ」 「…………」  またも軽く投げ出された言葉、それをはやては無言で聞いていた。  それは、やはり父が重んじるもの。  そして、はやてにとっても大切な思い出、神聖なる“約束”。  『約束しよう、はやて嬢――』  父は、滅多なことでは“守る”などと約束しない。  だが一度約束したなら、何があろうが必ず守ってくれる。己を犠牲にしてでも救ってくれる。  そう―― あの時、自分が闇の書に飲み込まれ、“夜天の王”と化した時の様に。  この違いは、日常に生きる“こちらの世界の恭也”と非日常に生きる“来訪者である恭也”との差だった。  幼い頃に父をテロで失い、その後各地で命懸けの戦いを繰り広げてきた“来訪者である恭也”にとって、 御神流はただ身を守る業に止まらず“父の形見”であり“人生の道標”であった。  また多くの死を乗り越えてきたが故に、『守る』という言葉の重みを知っていた。  だが父の死も、ましてや命懸けの戦いも経験していない“こちらの世界の恭也”が、そこまでの思い入れを持てる筈がない。  無論、真摯な思いはあるだろうが、“来訪者である恭也”である恭也のそれと比べ、軽いものがあるのは無理からぬことであった。  ……とはいえ、8歳の頃から“来訪者である恭也”に育てられてきたはやてに、そのような斟酌をする余裕などない。  お父さんが、侮辱された。  私の大切な思い出が、踏み躙られた。  はやての体が、怒りで震えた。  心の奥底で眠っていた筈の“夜天の王”が、むくりと頭をもたげる。    オ父サンノ姿デ、私ノ前ニ現レルナ。  オ父サンノ声デ、私ニ語リカケルナ。  コノ“偽者”メ。私ノオ父サンハ、モット――  心の奥底から湧き上がる黒い感情を押さえつけ、はやてはやっとの思いで答えた。 「私、魔法使えますから大丈夫ですー」 「ああ、そういえばはやてちゃんは“魔法使い”だっけ。  ……でも、女の子だしやっぱり危険だよ。  なのはが管理局とやらに入った時は心配でね、一緒に俺も管理局に入ろうかと思ったくらいだよ」 「!」  “魔法使い”――そう表現する口調には半信半疑の、どこか軽いものが含まれていた。  別に悪気があった訳でもないだろう。普段ならば、気にも留めぬ些細なこと。  だが、今のはやてには“効いた”。  それはまさしく象の背を折る最後の一穂だった。  ごとり  はやての中で、何かが動き出した。  軽く口の端を歪ませ、言葉を紡ぐ。 「……私の方が、もっと危険かもしれませんよ?」 「?」 「私、悪い魔法使いですから」  はやての言葉に、だが“こちらの世界の恭也”は苦笑するだけだった。 「悪い魔法使い? 白雪姫の継母みたいな? ああ、これはあまりに失礼か」  その返答に、はやてはクスリと笑う。 「……そんなの、かわいいものです。私はここ海鳴を、ひいてはこの世界全てを滅ぼそうとした、悪い悪い魔法使い――」  そこで言葉を一端切り、“こちらの世界の恭也”を見る。  そして、妖艶に笑った。 「なのはちゃんのお兄さん? あなたの力がどれ程のものなのか、是非この“夜天の王”に見せて下さい」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【後編】 「なのはちゃんのお兄さん? あなたの力がどれ程のものなのか、是非この“夜天の王”に見せて下さい」  ――そう言って、はやては妖艶に笑う。  今のはやては、はやてであってはやてではない。  今は無き古代ベルカの数千数万の魔法を受け継いだ、狂気をその身に宿す死を司る王“夜天の王”だ。  無論、その全てを現した訳ではない。  ほんの“さわり”のみであり、その本体は未だ心の奥底で深き眠りに就いている。  余程のことがない限り、決して目覚めることはないだろう。  何故なら、“自分”が……何より“あの人”がそう望んだから。 「はやて……ちゃん?」  その歳からは考えれぬ仕草と表情に、“こちらの世界の恭也”は、思わず見惚れてしまう。  だが直ぐにその身から発せられる力と死の波動に圧倒されてしまった。 「……どうしました? 来ないのなら、こちらから行きますけど?」  “こちらの世界の恭也”に、はやて……いや“夜天の王”は嘲笑の声で挑発する。  だが、“こちらの世界の恭也”は動かない、動けない。  ただただ居竦められ、呆然と立ち竦むのみだ。  ……なんと惰弱。所詮は“紛い物”か。  “夜天の王”は失望の吐息を漏らした。  或いはもう少しできるかと思ったのだが、どうやらその姿形に目を曇らせてしまったようだ。  今の自分が発している魔力は、せいぜい上級魔導師のそれでしかない。  だと言うのに――なんと無様。  だが上級魔導師という存在は、たとえそれが素人同然であったとしても倒すには優に(この世界の)1個中隊を要する。  ましてや“上澄み”に過ぎぬとは言え“夜天の王”の発する波動だ。気の弱い人間ならば発狂しかねない程強烈なものだった。  圧倒的な力と死。 ――日常を生きてきた“こちらの世界の恭也”にとって、それは初めて経験するもの。あまりに過酷な体験だった。 「あ……ああ…………」 「……立ち向かうどころか、逃げることすらもできませんか」  恐怖に支配され、身動き一つ、言葉一つ発することができぬ“こちらの世界の恭也”に、“夜天の王”が言い放った。  それに込められた感情は、失望と嘲笑……そして抑えきれぬ怒り。  この程度でよく父の姿を、名を名乗れたものだ。この偽者が……  どうしてくれよう、と“夜天の王”は“こちらの世界の恭也”を睨み付ける。 「!?」  その瞬間見てしまった。見えてしまった。  怯え切り、バケモノを見るが如く自分を見るその瞳。  それは――紛れも無く“父”のもの。 「お、おとう……さん…………」  その衝撃が、仮初めに被ったに過ぎぬ“夜天の王”を、はやてから引き剥がした。  その視線に耐え切れずに蹲り、嗚咽する。  やめて、お父さん。そんな目で私を見ないで……  たとえそれが“偽者”であると分かっていても、幾らそう自分に言い聞かせても、それはあまりに辛い視線だった。  『……はやてちゃん。私、ね? おとーさんやおかーさん、“優しいお兄ちゃん”に、私の“本当の姿”を見られるのが怖いんだ……』  ――以前、なのはがしんみりと語った台詞を、はやては思い出した。  なのはの言う“本当の姿”。それはSランクの大魔導師として、その真の力を発揮した時のことを言っているのだろう。  なのはが“白い魔王”などと呼ばれているのは、断じて揶揄ではない。  それに込められる感情は、純粋なる畏怖。その真の姿の前には、Aランクだろうが超Aランクだろうが等しく恐怖を覚える圧倒的存在。  この圧迫感に抗せるのは、最低でも超Aランク以上の、それも数多の戦いを潜り抜けた猛者のみだ。  ましてや、“一般人”であるなのはの家族など……  『……きっと受け入れてくれるとは思うんだけどね。勇気ないよ……もしもって思うと、ね?』  確かに、最終的には受け入れてくれるかもしれない。そう信じている。  けれど、最初に見せるであろう表情を見る勇気が無い、となのはは寂しそうに笑った。  『一度でも見ちゃったら、立ち直れないかもしれないしね。   だから、家族の前では絶対に魔法なんか使わないよ。   ……使うのは、“意地悪なお兄ちゃん”の前でだけ』  “優しいお兄ちゃん”“意地悪なお兄ちゃん”――なのはは、同一の存在である二人の“兄”を、そう区別して呼んでいた。  なのは曰く、上手く言えないけれど二人はとてもよく似ている――はやてには信じ難いことだが――そうだ。  そして、家族に隠す鬱憤を晴らすが如く、“意地悪なお兄ちゃん”相手に現在進行形で魔法を使いまくっている。  ――そうまでして隠していたものを、自分は晒してしまった。 「私、なんてことをしてしまったんや……」  はやては、己がしでかしたことの重大さに、やっと気がついた。  …………  …………  ………… 「本当にごめんなあ……」  気を失い、塀にもたれかかる“こちらの世界の恭也”に、はやてはそう言って何度も頭を下げた。  あれからすぐ、はやては彼の記憶を消した。  目が覚めれば、きっと何も覚えていないだろう。  ……だが、だとしてもはやての罪が消えた訳ではない。  不用意な言葉でアリサとすずかを不快にさせ、挙句逆切れで“こちらの世界の恭也”に酷いことをした。  ……もしあそこで正気に返らねば、自分は一体彼をどうしていたことだろう? そう考えると、恐ろしくなる。  そして最後には、なのはの想いまでも踏み躙った。必死で隠していたものを、曝け出してしまった。  なんと、愚かなことだろう。  なんと、自分勝手なことだろう。 「あんな目を見てしもうたのも、自業自得、か……」  はやては、自嘲気味に呟いた。  そして、“こちらの世界の恭也”が目を覚ます直前、“転移”した。 ――――ミッドチルダ、“クラナガン・エクスプレス”駐屯地。 <3、恭也私室> 「はやて、どうした?」  その言葉で、はやては我に返る。  気付くと、そこは恭也の私室だった。  ……そう言えば、転移先の設定をした記憶が無い。  無意識の内に、ここを選んだのだろう。  恭也は珍しく部屋にいた。簡易ベッドに腰掛け、手には雑誌が握られている。 「お父さん……」  その名を呼びつつ、はやては駆け寄ろうとした。  ――だが、できなかった。  先の視線が脳裏にこびり付き、離れない。  もし拒絶されたら、と思うと恐ろしくて堪らない。 「……はやて?」 「!?」  不審に思った恭也が近付こうとするが、はやては怯えて後ずさってしまった。  これを見て、ふむと恭也は考え込む。  ……どうやら、かなりへこんでいるらしい。  だが、それだけならば自分を避けないだろう。そして避けながらも、時折縋るような視線を向けてくる。実に厄介だ。  とはいえ8歳の時から今までの6年間を共に過ごし、自分を“父”と呼んで慕う少女を無下には扱えない。  恭也は頭を掻きつつ、どうすべきかを考えた。  ……とりあえず、話し合わんことにはどうにもならん。  得られた結論は、酷く頼りないものだった。  だが他の方法は全くと言って良いほど思いつかない。  止む無く恭也は神速を発動、強引にはやての目の前に現れた。 「!?」  はやては突然の出来事に驚きつつも、やはり逃げようと後ずさる。  だが恭也に逃がす気は更々なかった。 「はやて、逃げるだけでは何も解決せんぞ?」  そう言い放つと、はやてを壁に押し付け、その目を睨み付けた。 「……ただ逃げ回るためだけに、俺の所に来たのか? 答えろ、はやて」  なんて綺麗な目をしとるんやろう……  自分を睨みつける恭也の瞳に、はやては釘付けとなった。  そして、思い出した。 ……何故、恭也が自分の一番になったのかを。  そう、はやては恭也の目に心を奪われたのだ。  今こうしているように、自分を包み込んでくれる厳しくも優しい目。  遥か格上の相手に怯まず立ち向かい、勝って当然とばかりに笑う不敵な目。  新手のいぢめを思い付いた時の、いたずらっ子の様な目。  どれも、大好きだ。  ……けど、中でもはやてが好きな目は、あの日あの時自分を絶望の淵から救い出してくれた時の目。  あの時、“夜天の書”と同化したはやては、“夜天の王”ではあっても“はやて”ではなかった。  あのままでは、何れその精神は溶けて混じり合ってしまったことだろう。  それを救ってくれたのが、恭也だった。  超Aランクの大魔道師達ですら畏れた“自分”に、傷つきながらも怯むことなく果敢に立ち向かい、 遂には絶対防衛圏内を文字通り“すり抜け”て“自分”の直ぐ傍にまで辿り着いた。そして、唇を奪った。  ……反撃しようと思えば、幾らでもできた。  絶対防衛圏内を突破したとはいえ、“自分”の防御フィールドは強固だ。生半可な攻撃では掠り傷一つつけることすら叶わない。  接触されたとはいえ、攻撃など容易だ。それこそ、魔力の波動一つで消し飛ばすことができる。  だが出来なかった。だって、“自分”を見つめるその瞳に釘付けとなってしまったから。  なんと―― 真摯な、美しき瞳。生まれ出でて幾星霜、“我”は斯程の瞳をついぞ見たことが無い。  そう、“夜天の王”は、その瞳に心を奪われてしまったのだ。  だからこそ“夜天の王”は彼の望むはやてを主人格と認め、その身深くで眠りに就いたのだ。  ……そんな恭也を信ぜずして、一体何を信じるというのだろう?  はやては、自分の愚かさを恥じた。  ……何がどうなっているのか、さっぱり分からん。  自分の胸に縋りつき泣きじゃくるはやてに、恭也は困惑を隠せなかった。  壁に押し付け、睨み付けた。 ――ただそれだけで、あれ程頑なだったはやてが“こう”である。  ……よくわからないが、これが『難しい年頃』というヤツだろうか?  はやてをあやしつつ、恭也は内心小さく嘆息した。ま、解決したっぽいからいいか…… 「ふむ、もうそろそろ点呼か……」  ふと壁に掛けられた時計を見ると、もうそんな時間だった。  暫し熟考した後、恭也ははやてに告げる。 「もう遅い、泊まってけ」  はやてが、驚いた様に恭也を見上げた。  恭也は、椅子の上に置いてあった大きなぬいぐるみ――はやてが贈った26歳の誕生日プレゼントだ――を抱え、ドアの外に置いた。  そして後付けの魔法錠を閉める。これで、よし。 「はやて、着替えは終わったか」 「うん……」  そう言って仕切りのカーテンから出てきたはやては、裸ワイシャツだった。  ……幾ら寝巻き代わりに好きな服を貸してやると言ったとはいえ、これはないだろう。  恭也はこめかみを抑えつつ突っ込んだ。 「……他に、ないのか?」 「体格が違い過ぎるんや」  はやてがぶーたれた。  ……無論嘘ではないが、“狙ってる”ことは言うまでもあるまい。 「なら、せめて……パンツくらいはけ」 「ショーツゆうて欲しいなあ……ムードないやん」 「……何故にムードが必要だ。父娘なのだろう、俺達は」 「あ〜、まあ一応そうやね?」 「否定するなら追い出すが?」 「ああ!? うそっ! 嘘やー!?」  …………  …………  …………  布団に収まったはやてが、直ぐ傍の恭也にしみじみと呟いた。 「お父さんと一緒に寝るなんて、久し振りやね? 最後に添い寝したのは、小学校の卒業式前日やし」 「……お前、『公衆浴場の混浴対象年齢は最大12歳未満や!』なんて散々喚いたからな。根負けしたんだ」 「え、えへへ…… でも、今の私は14やよ? 何で?」 「ま、相当へこんでたみたいだからな? 特別、さ」 「そういうもん?」 「ああ、へこんでる時には、温もりが恋しくなるものだからな」 「……お父さんも?」 「ノーコメント」 「わ、私以外ともこんな真似を!?」 「ノーコメント」 「誰!? 私の知ってる人!? ま、まさかフェイトちゃん!?」 「んなわけあるかっ!」  ぐりぐり……  こめかみに拳骨を当てられ、はやては堪らず悲鳴を上げた。 「いたっ!? ちょう痛っ!?」 「俺はな、よそ様の大切な娘さん相手に、軽々しくそんなこと仕出かす男じゃないっ!」 「ごめんなさ〜〜い」  ……フェイトちゃん、報われんなあ。  そう思いつつ、はやては恭也に泣きを入れた。 「うう、まだ頭が痛い……」 「阿呆なこと抜かすからだ。とっとと寝ろ」 「はい〜〜」 「ああ、だがその前に一言だけ言っておく」 「?」 「はやて…… 何があったか知らんが、“けじめ”だけはつけとけよ?」 「!?」 「それだけだ。じゃあおやすみ」 「……おやすみなさい」  ……お見通し、か。  はやては嘆息した。  “けじめ”とは、要するに『迷惑をかけた人たちにちゃんと謝れ』ということだ。  無論、恭也は『はやてがここまでへこんだのは、自分以上に他人を傷つけたからだろう』と単純に考えたに過ぎない。  だが、はやては何だか全てを見透かされている様な気がしてならなかった。 「明日、朝一番で謝らないとなあ……」  そう呟き、はやては目を閉じた。 <4、廊下にて>  部屋で二人が眠りに就こうとしていた丁度その時、廊下ではその日の最終点呼が行われていた。  それぞれの部屋の前にその部屋に属する隊員達が整列、そして順番が回ってくると部屋長が一歩前に出て、週番士官に報告する。 「週番士官殿! 第105号室総員4名、現在員4名! 異常ありません! 以上!」 「よし」  週番士官の三尉は頷くと、助手の下士官に確認表をチエックさせる。  それが終わると、次の部屋に――この繰り返しだ。  そして、週番士官は遂に恭也の部屋の前まで来た。  だが本来ならば立っているはずのその場所に、恭也はいなかった。  ……その代わりと言ってはなんだが、ぬいぐるみが一つ置かれている。 「…………」  週番士官は、無言でそれを見た。  大人一抱え分もあるであろう、巨大な黒ウサギのぬいぐるみ。  だがその目付きは鋭く、お世辞にも可愛いとは言えない。  ……いや、そんなことはどうでもいい。  問題は、コレが“たかまちきょうや”と下手なミッドチルダ語で書かれた札を首に掛けていることだ。  もしかしなくても、これは身代わりか?  週番士官は顔を引きつかせ、助手の下士官を見る。 「……おい、なんだコレは?」 「高町陸士長であります!」  だが、助手の下士官はこれが恭也であると言い張る。  それどころか無断で確認表にチエック済みの記入まで行っていた。  週番士官の怒りが爆発する。 「おい! ふざけるな! ぬいぐるみじゃないか!?」 「ふざけてなどおりません! 高町陸士長であります!」  尚も助手の下士官は言い張り、じっと週番士官を見る。  古参下士官である彼の視線に耐えられる新米士官など、そうはいない。  舌打ちしつつ視線を逸らすと、週番士官は他の隊員に目標を変えた。  だがやはり誰もがこのぬいぐるみを恭也と強弁する。  予想だにしなかった事態に、生真面目な週番士官殿は頭を抱えた。  畜生、空気読んでくれよ。天麩羅三尉さんよ……  頭を抱えたいのは、周りにいる隊員達とて同様であった。  取り巻く隊員達から、溜息が漏れる。  これが他の士官なら、ぬいぐるみが置いてある時点で納得し、無言で通り過ぎたのに……  だがようやく見習い士官の“見習い”が出たばかりのこの若者には、隊の“しきたり”が分からない。  分からないなりにも、せめて空気を読めと言いたいところだが……  隊員達は目を見合わせ、無言で頷きあった。 「どうやら、週番士官殿はだいぶお疲れのようだ。医務室にお連れしろ。  後の点呼は、規定に従い助手のバーン一曹が代行する」 「「「「は!」」」」  その場で最先任の下士官の言葉で、隊員達は一斉に動き始めた。  猛者揃いの隊員たちの中でも、特に力自慢の男達が週番士官を押さえつける。  週番士官も何か叫びながら必死で抵抗するが、儚い抵抗でしかなかった。  しまいには当身を喰らい、気を失った状態で連行されていく。  彼等が見えなくなると、隊員達はホッと胸を撫で下ろした。  やれやれ、これで一安心だ……  点呼の少し前、恭也の部屋から凄まじいまでの魔力が漏れてきた。  三人の大魔道師によって強力な防音・耐魔法処理が施されている筈の部屋から、これ程の波動……  一体、中で何が起こっていると言うのだろう?  正直、聞きたく無いし、知りたくも無い。と言うか、部屋を開けた途端に人生が終わりかねない。  ――だから、絶対にしないしさせない。  自分達の明日を守るべく、隊員達は一致団結したのである。  今回の行動も、ただそれだけのことに過ぎぬのだ。  それを察せぬ阿呆に、クラナガン・エクスプレスの士官は務まらない。  この程度のことも読めぬようでは、到底自分達の指揮官足り得ない。命を預けられない。  だから、この不幸な週番士官殿が翌朝転任希望届けを出したのは、お互いにとって実に幸せなことだった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【蛇足的後日談】   ――――その1“クラナガン・エクスプレス”にて。  面会に訪れたはやての腕に巻かれた包帯を見て、恭也は眉を顰めた。 「……その腕はどうした?」 「や、ちょうね?」  はやては曖昧に笑うと、紙袋を恭也に手渡した。 「はい、お父さん。これ」 「むう? 何故に新品?」  紙袋を開け、恭也は首を傾げた。  その中身は、開封もされていない新品のワイシャツだった。  寝巻き代わりに貸したワイシャツを、『洗って返す』と持ち帰った筈なのだが…… 「やー、アイロンがけ失敗してもうて……」 「珍しいこともあるものだな?」 「すんません、かんにんや」 「ま、いいさ」 「ありがとー だからお父さん大好きや!」  そう言って抱きつくはやて。  が、実はこれ嘘である。真実は―― 『――という訳で、お父さん着古しのワイシャツをパジャマ代わりに、お父さんと添い寝したんや』 『…………』 『やー、これ娘の特権やね? お父さんの温もりと匂い、感触を堪能させて頂きました』 『……………………』 『私としては男と女の関係になること期待して、思いっきり体を擦り付けたんやけど……  やっぱ、相当な堅物やわ。ま、チャンスはこれからもあるけどな? で、これがその時のワイシャツ』 『!』 『あー、ダメダメ。これ、私のパジャマにするんやから。  ……え、なんでわざわざ見せ付けるのかって?  んなこと決まりきってるやん。フェイトちゃんに自慢するためや♪』 『フーーーーッ!!』  かぷっ 『あいたーーーーっ!?』  前腕を噛まれた痛みに、思わずはやてはワイシャツから手を放す。  その瞬間をフェイトは逃さなかった。地面に落ちる前に素早く掴み、脱兎の如く駆けて行く。  それを、はやては呆然と見送った。  ……やがてその姿が見えなくなった頃、はやてはぽつりと呟いた。 『……あかん、からかい過ぎた』  しゃあない、詫びの印にそのワイシャツ、フェイトちゃんにあげるわ。いい夢見てや……  ――という訳である。  要するに、この大袈裟な包帯は、歯形を隠すためのものだったのだ。 「ん〜♪ ふっふっふ〜〜♪♪」  すりすり  犬や猫の如く、はやては自分の体を恭也に擦り付ける。  そこには、もうそろそろ佐官になろうかという士官、SSランクの大魔道師の威厳はみられない。  あるのは父に甘える娘の姿だけだった。 「……局の制服姿で甘えるのは、できれば勘弁して貰いたいのだがな?」  如何に傍若無人な恭也とて、(それが“娘”とはいえ)職場で上官を膝に乗せてこんな真似させるのは流石にバツが悪い。  ……と言うか、そんな倒錯した趣味は持っていなかった。  だがそれを聞いたはやては、不満そうに恭也を見る。 「え〜〜 今はお互い非番やし、いいやん」 「……いや、隊の風紀というものがな?」 「散々風紀を乱しとるお父さんが言う台詞やないな?」 「……ご尤も」  降参、とばかりに恭也は両手を挙げた。 「で、はやて。“けじめ”はつけたか?」  暫くされるがままに徹していた恭也が、突然沈黙を破った。  ビクッ!  その言葉の鋭さと内容に、はやての体が一瞬震えた。  そして、慌てて恭也から離れ、床に正座する。  ――恭也が、“教育”モードに入ったからだ。こういう時の恭也は、怖い。実に怖い。  はやては、それを誰より肌身に染みて知っていた。 「は、はいー。みんなには、きちんと謝りました。それはもう、額を床に擦り付けんばかりに!」 「ふん…… で? はやてはそれで“終わった”と思うか?」 「え、えと…… アリサちゃんとはお互い様ですし、すずかちゃんとなのはちゃんも……許してくれたと思います。  でもーなのはちゃんのお兄さんは……」 「ほう? こっちの世界の俺に何をしでかしたんだ?」 「えっと……実は――」  …………  …………  ………… 「なんともまあ……実に下らん理由だな、おい?」  話を聞いて、恭也は呆れ返った。  正直、何故その程度のことで、そこまで怒れるのかが分からない(所詮は他人事ではないか!)。  だがそれを聞き、はやてが声を上げた。 「! く、下らなくなんかない! お父さんが侮辱されたんやで!?」 「……ちっとも反省しとらんじゃないか。そんなことでは、もう一度同じことを繰り返すぞ?」  ぐりぐり……  恭也ははやてを小突いた。 「あう……」 「ま、気持ちは嬉しいがな? 言わせておけ」 「…………」  承服しかねぬ、という目のはやてに、恭也は内心嘆息した。  はやてといい、フェイト嬢といい、最近どうも関係が変な方向に行っている様な気がしてならない。  正直、成長すれば疎遠になると思っていたのだが……  それにしても、この世界の俺もいい具合に垂れてやがるな。  この世界の自分の醜態を聞き、恭也は苦笑した。  情けなくはあるが、『ま、それも一つの可能性か』とも思う。  この世界では士郎は死んでいないし、とうに足を洗っている。御神の一族も健在だ。  ……これでは、垂れるのも仕方が無かろう。  何より、御神流の在り方そのものが大きく異なっているのだから。  この世界の御神流は、一言で言えば“お抱え”である。  即ち、国家によって保護されている、ということだ。  軍・警察・特務機関の特殊戦闘要員に対する教育、政府要人の警護がその主な仕事だが、時には直接“工作”を行うこともあるらしい。  ……まあ、それも一つの生き方だろう。だからこそ、“龍”のテロからも逃れられたのだろうから。  国家に属している御神の一族をその国内で爆殺するなど、属する国家に対する挑戦以外の何者でもない。  そんな真似をすれば、国家はその面子に賭けて、そして他の構成員の安全の為にも断固たる措置をとる。とらざるを得ない。  それこそ合法非合法あらゆる手段をとる筈だ。  ……ああ、この世界では未だ健在のGF(連合艦隊)に命じて、ご自慢のCVBG(空母戦闘群)でも派遣して 連中の根城である香港の自治政府に直接圧力すらかけかねないな。  仮にも世界屈指の経済・軍事大国を本気にさせるほど、連中も愚かではないってことだ。  ま、その経済・軍事大国とやらも海の向こうの同盟国と仲良く中東に腰までつかり、かなりあっぷあっぷしているようだがね?  『ここまで進んだ文明を持ちながら、ここまで民族・宗教・イデオロギーによって細分化された世界を僕は知らない。この世界は危険だ』  ああクロノ、お前の言うとおりだよ。何と素晴らしくも混沌とした世界…… 「ま、向こうの俺は放っておけ。どうせ俺だし、記憶を消したのなら無問題だ」 「はいー」 「とはいえ、そうだな……  もしこの屈辱を覚えていて、闘志に火が付いたなら――  同じ存在のよしみ、少し“教育”してやるか?」  記憶を消したとしても、感情は残る可能性がある。それが大きい感情ならば尚更だ。  もしこの世界の自分が何も覚えていなかったら、或いは恐怖を覚えていたならば、放っておく。  それは自分であって自分ではないからだ。  だが“恐怖”よりも“屈辱”を感じ、それが残ったとしたら、そしてそれを恥じたならば――  それはまさしく自分と同一の存在。手を貸してやるのもやぶさかではない。 「はやて、喜べ。お前のプレゼントが役に立つかもしれんぞ」  そう言って恭也が指す先には、はやてが恭也の誕生日にシャレで贈ったプレゼント、実にリアルな虎のマスクとマントが掛かっていた。 ――――その2『フェイト宅』にて。 「目、目が回る……」 「……当たり前だよ。帰るなり二時間近くも入浴するなんて、一体どうしたんだい?」  浴室から倒れるようにして出てきたフェイトを支えつつ、アルフは呆れた様な声を上げた。  ……いや、実際呆れているのだろう。  髪と胴をタオルとバスタオルで巻いて隠しているが、そこから覗く顔や手足は因幡の白兎の如く、白い肌が真っ赤に染まっている。  何故、こんなになるまで…… 「え、えへへへ♪」  が、フェイトは喜びと興奮を抑えきれないといった表情で笑うだけだ。  ……大丈夫、だろうか?  心配げに見上げるアルフに、フェイトは更なる驚愕をもたらした。 「じゃあ私、もう寝るから」 「へ!?」  まだ夕方だというのに、本当に一体どうしたといのだろう?  アルフは本気で心配した。 「だ、大丈夫かい?」 「うん、大丈夫、大丈夫。じゃあおやすみなさい♪」 「あ、ああ、お休み……」 「恭也さ〜ん、今行きますよ〜〜♪」  訳の分からないことを呟きながら私室に向かうフェイトを見送った後、アルフは呻いた。 「フェイトが、壊れた」  上機嫌で私室に入ったフェイトは、だが直ぐに出てきた。  ダダダ、バンッ! 「アルフ! 私の部屋に掛かってたワイシャツ、知らない!?」  ……いや、より正確に言えば『血相を変えて部屋から飛び出た』と言うべきだろうか?  とにかく、冷静な彼女がここまで取り乱すとは尋常ではない。 「へ? もしかして、あの大きくて皺くちゃの?」 「そう、それっ!」 「あれなら――ちょうど出入りの洗濯屋が来たんで、一緒に出しといたよ?」 「!?」  それを聞き、フェイトは一瞬呆然と……だが直ぐに我に返り、外に飛び出そうとする。  それを、アルフは慌てて止めた。 「は、放してー 行かなければ、私は行かなければならないのーーッ!」 「そんな格好で何処へ行こうってんだい!?」  まだバスタオル一枚、ぶっちゃけ裸同然のフェイトに、アルフは呆れと苛立ちの混ざった声で叱責する。 「急がないと、シャツが……ワイシャツがお洗濯されちゃう!」 「はあ?」 「付いた匂いが! 温もりがあっ!?」  本気で泣き叫ぶフェイトに、アルフは戸惑いを隠せない。  一体、何故そこまで執着するのだろう?  一体、着古したワイシャツをどうしたいのだろう?  分からない、まったく分からない…… 「何が言いたいのかよく判らないけど……  あのシャツならフェイトが風呂に入って直ぐ出したから、もうとうに洗濯されてると思うけど?  あそこ、近いし仕事も早いし」 「!」  ぱたり  その言葉を聞いたフェイトは、まるで力尽きたかの様に倒れた。  アルフが慌てて抱き起こす。  ……だが返事が無い。完全に脱力している。 「ちょっ!? どうしたんだよフェイト、いきなり倒れちゃうなんて!? フェイト! フェイトーーーーッ!!」  フェイトが立ち直るまで、優に三日以上かかったという。 ――――その3『高町家』にて。 「ただいまー ……あれ、お兄ちゃん?」  久々にミッドチルダから海鳴の実家へと帰宅したなのはは、玄関前で“優しい方のお兄ちゃん”とばったり出くわした。 「ああ、なのはか。おかえり」 「……お出かけ?」 「ああ、修行の旅に出る」  やっぱり……  なのはの顔が曇る。  見ると、兄はいつもより更に動き易い服装の上、ナップザックを背負っている。  これは修行に出る時の装備だ。きっと一週間程山篭りするに違いない。  ……せっかく久し振りに会えたのに、ついてない。 「……いつ、帰ってくるの?」  その日には顔を出そうと考え、なのはは訊ねた。  だが、兄の答えは予想の斜め上を行っていた。  う〜むと暫し考え込んだ後、トンでもない数字を口に出す。 「そうだな半年……いや一年はかかると思う」 「にゃあっ!?」  驚きのあまり、なのはは万歳して鳴き声を上げてしまった。 「お、久し振りにみたな、それ」  それを見た兄は暢気な声を上げる。  が、当のなのははそれどころではない、慌てて兄に詰めよりあらためて聞き直す。 「お、お兄ちゃん……? なんで一年もお山に篭るの?」 「む? 確かに山にも篭るかもしれんが、基本は全国行脚だぞ?」 「全国っ!? な、なんで!?」 「決まってるだろ? 武者修行だよ、『俺より強い奴に会いに行く!』だ」 「なんで急にそんなこと……」  なのはは絶句した。  ……いろいろ突っ込みどころは山とあるが、一番の疑問は『何故、今?』だった。  その場の思いつきで、こんな突拍子もないことをしでかす兄ではないのだが……  と、兄は重々しく語り始めた。 「実はな、前々から思っていたんだ。本当に俺はこのままでいいのか、と」  兄として妹達の模範となるべく、品行方正で過ごした学生時代。  そして一流の大学を出て、一流の会社に就職した現在も、内にある“もう一人の自分”が常に問いかけた。  ……それで本当にお前は満足しているのか?と。  ただ、渇望があった。  それが何かは分からない。が、唯一剣を振るうことでのみ治まった。 「だが、やがて剣を振るうと更に渇望が増してきた。  にも関わらず、俺は剣を振るうことを止められなかった。  当時はそりゃあ悩んだものだ、『俺は何に飢えているのか?』とな」  兄は自嘲気味に首を振った。  最初は、努力に対する結果を求めているのだろうと単純に考えた。  だから、親友に勧めらて剣道部に入った。  ……だがそれは最悪の選択だった。 「最初にIH優勝した時、感じたのは虚しさのみ。  正直、直ぐにでも投げ出してしまいたかった。  だが一度優勝してしまった以上、それは叶わない。  その後の二年間は、ただ義務で竹刀を振るい続けるという苦痛を味わったよ。  過大な期待と賞賛……もう懲り懲りだ」 「お兄ちゃん……」  ……余程辛かったのだろう。兄はどこか遠い目をしている。  あの完璧とも思えた兄がここまで悩んでいたなんて、となのはは涙ぐむ。  どうして、もっと早く気付いてあげられなかったのだろう。  家族とは、互いを慈しみ労わる者同士の筈なのに…… 「そして昨晩、夢を見たんだ。何か……圧倒的な存在にひれ伏す夢を」  ぎり……  余程屈辱だったのだろう。兄は奥歯を強くかみ締めた。  ……その音は、なのはにもはっきりと聞き取ることができた。 「俺は……何もできなかった。情けない、恥かしい、悔しい。  痛感したよ。俺は、こんなにも弱かったのか、と」 「でも、夢でしょう?」 「夢だからこそ、だ! 己の夢にも勝てぬようでどうする!?」  はやての記憶消去は、完璧だった。  だが恭也の心は屈辱を覚えていた。  そしてその屈辱が、眠っていた“何か”を目覚めさせたのだ。  ……やはり、彼は紛れも無く“高町恭也”だったのである。 「だから俺は旅に出る。剣を通じてこの甘ったれた性根を叩き直しに。  そして次に夢で会った時には返り討ちにしてやるのだ。  ――そう決心した時、一瞬だが渇きが癒えた。  やっと分かったよ、俺は独り剣の道に生きたかったのだ」 「え〜と……」  言いたいことは判る。わかるがちょっと待って欲しい、となのはは思う。  それは些か論理が飛躍し過ぎていないだろうか。  ……と言いますか、もし兄がこのまま行っちゃったら。  それを黙って見送ったなんて知られちゃったりしたら――  『なのは! アンタなんで止めなかったのよっ!?』  『え〜ん、なのはちゃんの馬鹿あ〜〜』  『なのはちゃ〜ん? ちょお〜っとあっちでお話しよっか?』  ぞぞぞっ!  アリサ、すずか、忍の三人に囲まれて詰問される自分を想像し、なのはは真っ青になった。  なんとしても止めないと…… 「で、でもでもっ! 忍さんとかアリサちゃんとかすずかちゃんとかはどうするの!?」 「? 何故そこで忍が? ……それにアリサちゃんとかすずかちゃんって、なのはの友達だろ? どうするって何をだ?」  ……ああ、みんな可哀想に。あそこまで露骨にアプローチして気付かれないなんて。  兄のあまりの朴念仁さに、なのはは内心で涙した。さすがは風芽丘の誇る恋愛不感症だけのことはある、と。  どんどん脱落していって、学生時代から残ってるの忍さんだけだものなあ〜 「じゃあ、そういう訳で」 「ああ!? 待って、待ってよ!?」 「……なんだ? まだ何かあるのか? 兄は、まだ見ぬ世界にワクワクしているのだが」  あれ〜? なんかお兄ちゃんが壊れてきたような……と言いますか、何だか誰かを彷彿させるような???  段々と投げやりになってきた兄の態度にデジャヴを感じつつも、なのはは必死に考える。 「え〜と、うんとうんと……あ、お仕事…………  !? そうだ、そうだよ! お兄ちゃん、お仕事はどうするのっ!?」 「辞めた」 「……はい?」 「さっき、辞表を出してきた」 「…………」  そのあまりにあっさりしたお返事に、なのはは一瞬真っ白となる。  だが直ぐにことの重大さを悟り、愕然とした。 「にゃあああっ!? 無職!? わたしのお兄ちゃん二人揃って無職っ!?」  そんなっ!? 一人でもいっぱいいっぱいなのにっ!!  なのはは必死で兄に再考を促した。 「だ、駄目だよ! お仕事は大切だよ! ごはん食べられなくなっちゃうよ!?」 「なのは…… 男にはな、たとえそれが愚かな選択であろうとも、選択しなければならない時があるんだ」 「にゃあ!? それ何か耳に覚えのあるとってもイヤなフレーズ!?」  “いぢわるなお兄ちゃん”が好んで使う言い回しを、知る筈の無いこの兄が使う……  なのはには、それが非常にイヤな未来を暗示している様に思えてならなかった。  だから、行かせまいと必死にその足元にしがみつく。 「おねがいーー お兄ちゃん、行かないでーーーーっ!!」 「え〜い! 放せなのはっ!」 「放さないの! それはダメ人間への一本道なのおっ!」 「……なに兄妹で金色夜叉ごっこやってるんだ?」 「あらあら、兄妹ゲンカなんて珍しい」  足に縋り付くなのはとそれを蹴倒そうとする恭也。  その何処か倒錯した光景に、何事かと騒ぎに釣られてやってきた士郎と桃子が呆れた様な声を上げた。 「とーさん、かーさん」 「あ、お父さん、お母さん! お願い、お兄ちゃんを止めて!」  …………  …………  ………… 「なるほど……『独り剣の道に生きる』『全国武者修行の旅』ねえ……」 「あらあら……」  なのはの説明に、士郎と桃子は顔を見合わせる。  それを憮然と、或いは期待の篭った瞳で見る恭也となのは。  士郎が重々しく口を開いた。 「恭也……本気、か?」 「ああ、本気だ。とーさん」  暫し、二人の視線が交錯する。  やがて、士郎が沈黙を破った。 「……恭也。剣術使いってのはな。まず畳の上じゃあ死ねないもんだ。  俺みたいに“剣術使いとしての自分”のみ死んで、こうやって美人のかみさんと、なんて例外中の例外だぞ?  ――それでも、行くのか?」 「……ああ、このままでは死んでいるのと同じだ。心が、魂が腐っていく」  しっかりと士郎の目を見据え、恭也は答えた。  それを士郎は何処か複雑な表情で、だがやはりしっかりと恭也の目を見据え、聞いていた。  そして聞き終えた後、しみじみと呟いた。 「……お前達には、普通に生きて欲しかったんだがな」 「……すまん、とーさん」  深々と頭を下げる恭也を見て、士郎は桃子に問うた。   「なあ、桃子? いいだろう?」 「ええ、やっぱり恭也は士郎さんの息子なんですね……」  桃子が、頷いた。 「恭也、餞別だ。持ってけ」  そう言って、士郎は一振りの剣を恭也に渡した。  それは、士郎のかつての愛刀“八景”。  その意味するところは―― 「ありがとう、とーさん、かーさん」  もう一度、恭也は深々と頭を下げた。 「にゃあっ!? 待ってよ! おかしいよ、おかし過ぎるよ、この展開っ!?」  突然、なのはが待ったをかけた。  ……や、今まで呆然と見ていたのだが、事が終わりそうだったので慌てて介入したのである。  が、恭也、士郎、桃子は首を捻って顔を見合わせた。 「……どの辺がだ?」 「いや、俺にはわからんな?」 「感動的なシーンだと思うけど……」 「お兄ちゃん、もう24だよ!? 社会人だよ!?  お仕事辞めて武者修行なんて、あり得ないよっ!  将来、どうやってご飯食べてくつもりなの!?」 「むう、なんとか……なる?」 「なるわけ無いよっ!」  疑問系の恭也に、なのはが断言する。  だが意外な所から敵の援軍が現れた。  桃子が、無問題とばかりににこやかに笑う。 「大丈夫! 一つの道に打ち込む男の人のひた向きな姿に、女は惚れるものよ♪ 貢いでくれるわ♪♪」 「ははは、俺も桃子の世話になってるからなあ」 「そ、そーだったっ!」  今初めて気付いた事実に、なのはは愕然とした。  よく考えてみれば、お父さんもお母さんに食べさせてもらってるよ!  もちろんお父さんもマスターとして働いてて、その口の上手さ(と顔の良さ)からお客さん楽しませてるけど、 お客さんが来てくれる一番の理由は『お母さんの作るお菓子が美味しい』からだ。  ……そして二人の兄も、食べさせてくれるであろう女性に不自由していない。  なのはの脳裏に、兄達の将来が浮かび上がる。  忍、アリサ、すずかの三人に囲まれて暮らす海鳴の兄。  はやて、フェイト……そして顔の見えぬ女性達に囲まれて暮らすミッドチルダの兄  ――って、ちょっと待ってよ!? まだ増えるのっ!? 「に、にゃあ……」  うちって、もしかして『そういう』家系なのだろうか……  なのはは激しく鬱になった。 「がんばれよ、恭也」 「いってらっしゃい、恭也」 「お兄ちゃん、待って! 今ならまだ間に合うの! 真人間に戻れるのっ!!」  士郎と桃子に両脇をがっちりと捕まれたなのはが必死に叫ぶも、三人とも無視だ。  ……あれ? 私、正しいよね? 間違ってないよね? 「じゃあ、行って来る」  独り道を往く恭也の背中に、なのはの声が虚しく響いた。 「お兄ちゃ〜〜ん! かむばあ〜〜〜〜っく!」  その後――  重箱抱えて勇んでやってきたアリサとすずかが、がっくり肩を落として帰っていったとか、  その重箱の中身をつまんだ士郎が凄いことになって桃子が喜んだとか、  なのはが顔を真っ赤にして家から逃げ出したとか、  一年後に帰ってきた恭也の性格がすっかり変わっていたとか、  そのワイルドさに忍、アリサ、すずかがあらためて惚れ直したりとか、  偶に警察のお手伝いする位で後は修行というダメ生活になのはが嘆いたりとか、  タイガーキョウを名乗る謎のトラ男が恭也の師になったりとか、  とにかく本当に色々あったが、今は関係ないのでここで終わる。