遥かに仰ぎ、麗しのSS「凰華女学院分校の日常」 【前編】 「だりゃぁぁぁぁっ!!」 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁーーーーっっ!?」  静まり返った凰華女学院分校の敷地内に、掛け声と悲鳴が一組になって響き渡る。  掛け声は兎も角、悲鳴の方は切羽詰ったかの様な悲痛な声だ。  ……が、気に留める者は誰一人としていない。皆が皆、「ああ今日もか」とばかりに無関心を決め込んでいる。  この悲鳴、どうやら凰華女学院分校のありふれた日常、その一コマである様だった。 「おおっと!? みやび選手のパロ・スペシャルが華麗に決まった! 司選手、堪らず悲鳴を上げていますっ!」 「あわわ…… 先生、がんばってがんばってっ!」  ――その「日常の一コマ」の現場では、四人の若者達が何やら騒いでいた。  自分達以外誰もいやしないというのに、アナウンスを務める相沢美綺。  オロオロしながらも、とりあえず“先生”とやらを応援する上原奏。  そして、大自然をリングに戦う風祭みやびと滝沢司。  ……どうやら、毎日のように開催され、もはや分校の日常と化してしまった「風祭みやび vs. 滝沢司 無制限一本勝負」が行われている様だった。  ちなみに「風祭みやび vs. 滝沢司 無制限一本勝負」とは、時・場所・場合を全く弁えずに問答無用で行われ、どちらか――実際は司――が力尽きるまで終わらない、正に「なんでもアリ」の全力勝負である。(大概、「司がみやびにいらんこと言って襲いかかられる」といったパターンで始まる)  早朝だろうが深夜だろうが、  職員室だろうが理事長室だろうが、  授業中だろうが勤務中だろうが、  この二人には全く関係無い。些か大袈裟かもしれないが、地震がおきようが台風が来ようが、平気で屋外で取っ組み合う様な連中なのだ。  ……ちなみにこいつら、これでココの理事長と教諭である。この分校の将来が思いやられる、というものだろう。 「ほらほら! 止めて欲しかったら、観念して『申し訳ありませんでしたみやび様』と言うんだあ!」 「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁーーーーっっ!?」  みやびがギブアップを要求するが、司は先程から両腕両足の間接がミシミシと嫌な音を立てっ放しで、とてもとてもそれどころではなかった。  ぶっちゃけ、滅茶苦茶痛い。正直、目からは涙、口からは悲鳴以外出すことは不可能だ。(みやびの言葉すら聞こえているかどうか……)  しかし、大の大人の癖に、小学生と見紛う程のちんまい少女(みやび)にいい様にやられっ放しだ。実に、情けない。  が、司はいつだって本気で抵抗している。  理事長だからとか、風祭だからとか、はたまたちんまい少女だからとかで手加減している訳では全く無い。  司は風祭の権力にも財力にも屈しない馬鹿……もとい、漢なのだ。(「大人げない」とも言うかもしれない)  ……まあ所詮は貧弱な坊やであるため、みやび個人の暴力の前に屈する羽目になっていたが。 「……きゅう」  暫し司はじたばたと暴れていたが、やがて失神。勝負はみやびの勝利で幕を閉じた。  それを確認したみやびは、勝ち誇って宣言する。 「見たか! これが風祭の力だっ!」 「お見事で御座いました、お嬢様」  侍女のリーダがそれを称える。 「うむ、これで99戦全勝だな!」 「その通りで御座います、お嬢様」 「勝負の内容は、しっかり記録してあるな?」 「もちろんでございます、お嬢様」  リーダは、手に持ったハンディカムをポンと叩く。  ……どうやら、一部始終が撮影されているらしかった。 「よし! 100戦全勝したら、その記念に今までの全試合の記録を編集し、校内で放映しよう! もちろん生徒職員は全員視聴だ!」  良い思いつきだ、と言わんばかりにはしゃぐみやび。  その顔は実にさっぱりとしており、司がちょっかいを出す直前のピリピリした様な雰囲気は霧散していた。  多分……いや絶対、司でストレス発散したのだろう。 「かしこまりました、お嬢様」  リーダは、そんな彼女に微笑みながら一礼する。 「では行くぞ!」 「はい、お嬢様。それでは皆様失礼します。司様もこれに懲りず、またお嬢様の御相手を御願いいたしますね」  こうして、意気揚々とみやびは去っていった。  ……しかし、全試合撮影してたんですかリーダさん。 「先生! 無事です……きゃああっ! せっ先生!?」  みやびとリーダが去って直ぐ、仁礼栖香が駆け足でやって来た。  どうやら司とみやびの対戦を聞きつけ、慌ててやって来たらしい。  そして「ぐったりしている司に驚いた」という訳だ。 「せっ先生! しっかりして下さい! ――って、何か口から白いものがっ!?」  慌てて司を起こそうとするが、司の口からは何やら白い煙の様なものが吐き出されている。 「あ〜、かなりやられたからね〜〜」 「何かミシミシっていやな音が、いっぱいいっぱい……」 「なら、止めなさい!」  先程からリーダと共に一部始終を見ていた相沢美綺と上原奏の言葉に、栖香はこめかみをひくひくさせながら叱責する。  が、彼女達の返事は明快だった。 「ごめん。それ、無理」 「理事長は、私達の言うことなんか聞かない聞かないですよ……」  仲裁しても、大人しく聞き入れる様なみやびではない。かえってみやびを余計怒らせ、事態を悪化させるだけだろう。  そうなれば分校の全員に被害が及びかねないし、司に対する攻撃も更に激しいものになることは間違いない。  ぶっちゃけ、こうして素直にやられた方が司一人の被害で済むし、司本人の被害も結果的には軽くなるのだ。(司自身もそのあたりは諦観している)  何時の世も、泣く子と地頭には勝てないのである。 ……地頭が泣く子だから、余計始末に終えなかったりするのだが。  まあそれでも、最初の内は皆必死で止めていたのだ。  が、何だか回を重ねる毎に単なるスキンシップ、或いは予定調和っぽくなってきたため、最近では「止めるのも何だかな〜」と誰も止める者はいなくなってしまった。  今では、司の悲鳴を誰も――ごく一部を除き――気にも留めない。  慣れとは実に恐ろしいものである。  少々話が逸れたが、要するにそんな訳で彼女達に出来ることといえば、みやびの怒りが早く鎮まるよう「美綺は軽い口調でアナウンスを務め」「奏はひたすら司を応援する」といった程度のものだった。 「悲しいけど、これが現実なんだよ。すみすみ」 「わたしたちじゃ、ほんとにほんとにどうしようもないんです……」  が、“寮の標準時”の二つ名――司のせいでこの称号も最近では揺らいでいるが――を持つ栖香に、その様な融通を求めるのは酷というものだろう。  彼女から見れば、みやびは「無理難題を吹っかけて司を虐める横暴理事長」にしか見えない。  最近ではこれに「恋敵の可能性あり」という警戒感も加わり、みやびに対する反感は相当なものだ。  故に、二人の対応には言いたいことが山と有る。  ……が、今はそれどころではなかった。 「貴女達は…… まあいいでしょう、とりあえずは先生を保健室にお連れするのが先決です」  そう嘆息すると栖香は司の下に潜り込み、何とか背負おうと試みる。が…… 「きゃあ」  司の重みを支えきれず、たちまち押し潰されてしまった。 「おおっ!? バックからすみすみを襲うとは! センセ大胆!!」  カシャッ! カシャッ!  良い被写体!とばかりに、美綺はその様子を激写する。  それを見た奏が慌てて止めた。 「あわわっ! 美綺、やめようよ〜 今はそんな場合じゃないよ〜」 「止めてくれるなおっかさん。おいらがやらねば、一体誰がやるんだい!?」 「み〜さ〜き〜ち〜」 「ちぇ〜、わかったよ。 ……折角のネタだったんだけどなあ〜」  美綺はぼやきながらも、奏と共に栖香を助け出す。  そして、今度は三人がかりで司を保健室まで運んで行った。  ……実はこれ、ここ数ヶ月の彼女達の日課でもあったのだ。 ――――保健室。 「いてて……」 「先生、大丈夫ですか?」 「大丈夫だ…… いつも済まんなあ、仁礼」  司は、保健室まで連れてきてくれた上に、手当てまでしてくれる栖香に礼を言う。 「あたしたちにも、お礼を言って欲しいにゃあ〜」 「……黙れ、相沢。誰のせいでこうなったと思ってるんだ?」  少なくとも半分は、美綺にも責任が有る筈だ。  故に、「自分にも」とねだる美綺を、司は半目で睨みつける。 「先生、ごめんなさいごめんなさい。みさきちも反省してますから……」  司の怒りを察し、慌てて奏が代わりに謝った。 「……とてもそうは思えんが?」 「てへっ、センセごめんね!」  反省の色、ゼロである。 「あのなあ、相沢……」 「? ……!」  少し説教しようと考え、美綺の目をしっかりと見据える。  美綺は一瞬小首を傾げたが、ナニを勘違いしたのか直ぐに嬉しそうに司の目を見つめ返してきた。 「……いや、何でもない。それよりお前どうしたんだ? いつものお前なら、あの時も軽く返せた筈だろう? らしくないぞ?」  そのしぐさに毒気を抜かれ、司は取りあえず話題を変える。  が、その質問は結構地雷だったりする。 「……だって、みやびーが横暴なんだもん。センセはあたしたちのセンセ(担任)であって、みやびーのセンセ(担任)じゃないんだよ?」  「なのに、大した用も無いのにセンセを連れていこうとするなんてズルイよ!」と美綺。  ……どうやら、司が美綺や奏と一緒に散歩している最中に、後からやってきたみやびが司を無理矢理連れて行こうとしたらしい。  それにムッときた美綺の言葉にみやびが反応し、一触即発。  そして慌てた司のいらん一言により、みやびの怒りが司に向かって爆発した、というのが真相の様だ。  とは言え、普段の美綺ならば上手く角が立たない様、みやびをあしらえたに違いなかった。  が、美綺にだって譲れない一線がある。  可愛い妹になら多少譲りもしようが、何が悲しくて“たかびーりじちょ”なんかに譲らねばならぬのだ! 「しょうがないだろ? 相手は理事長、僕の雇用者だ」 「……嘘だ」  おどけた調子で答える司に、美綺はむくれ気味に返す。  だいたい司の態度も気に入らない。  みやびに対応する時、司はとても優しい目をするのだ。  司は風祭みやびという少女を、“理事長”としてでもなければ“風祭”でもなく、只の“みやび”として見ている節がある。  只の“教え子”として見ているだけならばまだ良いのだが、どうもそれだけではないようだ。  何より一番気に入らないのは、二人の戦いに自分が割って入る余地が無いということだ。  自分や栖香の様に、もしかしたらみやびも何か司と特別な繋がりがあるのかもしれない――そう思えてならなかった。  が、そこから先は考えたくもないので、「宿命の対戦」などと面白おかしく吹聴して回り、自分自身すらも誤魔化そうとしている。  美綺とは思えないほど消極的な選択だったが、それが現実だった。 「……おいおい、僕が怒っていたのに、なんで相沢が怒るのさ?」  が、自分が地雷を踏んだという自覚が無い司には、美綺の不機嫌の原因が全くわからない。  故に、美綺の態度に若干のいらだちを覚える。 「おい相沢、いい加減に……」  『友情は寛容であり、友情は情け深い。また妬んでも限度を知っている……』  と、その時、ふと美綺と交した誓いが頭に過ぎる。  それは、神聖な誓いだった。何よりも優先すべきことの一つだった。 (……何で僕は、こいつと「親友の誓い」なんかしてしまったのだろう?)  微妙に早まった真似をしたかもしれない自分に対し、やや後悔しつつ溜息を吐く。  が、仕方が無い。  知ってしまったから。深く関わり合ってしまったのだから。  故に、それは当然の選択だった。  『いらだたない、お互い恨みを抱かない……』 (ああ、その通りだ)  故に、許さなければならない。 「……まあいいだろう、“親友”のよしみだ。今回は許してやる。 あくまで今回だけであって、次回は許さんぞ?」 「へ…… うん! ありがと、“親友”!」  司のその言葉を聞き、美綺は一瞬驚いたものの、直ぐにとびっきりの笑顔で笑った。 (くっ、可愛いじゃあないか!)  その笑顔は反則としか言いようが無い。これでは、何もかも忘れて許してやるしかないではないか!  きっとこの笑顔に絆され、この次も、そのまた次も自分は許してしまうのだろう。 (全く、僕って奴は……)  などと考えていると、何やら背後から視線を感じる。  振りかえらずに後ろを見ると、ジト目で自分を見る栖香が視界に入る。 (いかん! 栖香がお怒りだ!)  慌てて栖香の方に向き直すと、コホンと咳払いを一つ。 「仁礼、本当にいつもありがとう。君がいなければ、きっと今頃は病院のベットの中だろうな」 「いえ、クラス委員ですから」  司の礼に、栖香は少し頬を赤らめる。  ……それを、復活した美綺が見逃す筈がなかった。 「そ〜れ〜だ〜け〜?」 「下衆の勘繰りは止めてください」 「酷っ!?」  ニヒヒと笑いながら尋ねる美綺を、栖香はばっさりと切り捨てた。  これには流石の美綺もショックを受けたようだった。  が、やはり直ぐに復活。今度は司にちょっかいを出して始める。  実に懲りない……いや、めげない子である。 「でもセンセ、弱すぎるよ。99戦全敗じゃあ、凰華ジャーナルのネタにならないじゃない」 「そうは言うがな相沢、あれで理事長は中々のグラップラーだぞ? あの技のキレは相当のものだ」  特に関節技とか関節技とか関節技とか…… 「そういえば、今度先生が負けたら私達全員、今までの映像記録を見なきゃいけないんですよねですよね……」  奏はうんざり気味に呟いた。  ……まあ、理事長主演の格闘映画を長時間見させられる様なもの、或る意味拷問だから、当然といえば当然の反応なのだが。 「センセ、男ならもっとしっかりしろ!」  美綺もイヤなのか、司を叱咤激励する。  と、先程から何か考え込んでいた栖香が、真剣な口調で司に話しかけてきた。 「……先生」 「何だ、仁礼?」 「今度の勝負なのですが…… 心苦しいとは思われますが、どうか本気を出して頂けないでしょうか?」 「は?」 「へ?」 「え〜と?」  三人共、栖香が何を言っているのか理解できなかった。 「……仁礼、すまないが、僕には君が何を言っているのか……」 「先生のお考えもごもっともではありますが、今は非常事態です。 このままでは、先生に不名誉な映像が公開されてしまいます」 「え〜と、もしかしてすみすみ、センセが手加減してると思ってる?」 「当然です! 大人の男性に、私達が敵う筈無いじゃありませんか!」  何を馬鹿なことを、と栖香。 「いやあ〜 でも、センセだしね〜?」 「先生、弱弱だし……」 「お前ら……」  教え子達の駄目駄目な評価に、司はちょっぴり凹み気味だ。  ……まあ、彼女達の言葉はかなりの部分で真実を突いているのだが。  正直、みやびは手強い。  あのちんまい体を見て侮ったら、トンデモナイ目に逢うだろう。  何せ、自分よりも遙かに大きく重い司を軽々と投げ飛ばす位なのだ。  が、栖香は真剣だった。  彼女は、司が本気を出せばみやびに負ける筈が無い、と信じ込んでいるのだ。  司の本音としては、出来るかどうか分からないが暫く理事長から遠ざかって間をおき、近づくのは理事長が映画のことを忘れてからにしたい(←チキンである)が…… (こりゃあ、やるしかないな……)  そう腹を括る。  何より栖香……もとい可愛い教え子の信頼と期待には、答えない訳にはいかないのだ。(みやびも一応司の教え子なのだが、そんなことは遙か衛星軌道上まで棚上げしている) 「ふっ!」 「? どしたの、センセ?」 「仕方が無い。一度だけ、一度だけ本気を出そう」 「先生!」 「いや、本気って…… 何か、今までも結構いっぱいいっぱいだった様な……」 「えっ? まさか…… でもでも!?」  司のその言葉に目を輝かせる栖香と半目で突っ込みを入れる美綺、そして「もしかしたら?」とオロオロ気味の奏……三者三様である。  が、司は自信たっぷりに言い放った。 「心配するな。こう見えても、僕は高校時代に柔道の県大会で準優勝したこともあるのだ。な〜に、柔道三段の僕が本気を出せば、理事長もイチコロさ!」  ……どうやら、「貧弱な坊や」では無かった様である。 「凄いです!」 「本当!? こりゃあ、明日の凰華ジャーナルのネタになるぞ〜」 「県大会準優勝って…… 本気って…… 凄いけど、何だかとってもとってもおとなげないよ……」  やはり三者三様の彼女達。 「あれ? でもセンセ、高校時代は野球部で、県大会準優勝も野球のことじゃあ?」  ふと思いつき、美綺があれ〜と尋ねる。 「掛け持ちしてたんだ」 「どっちか一つに絞れば、全国大会出場だって出来ただろうに……」 「うるさいぞ相沢」  『野球部ではレギュラーで県大会準優勝、柔道部でもレギュラーで県大会準優勝』  こう聞けば、司はスポーツ万能とも取れる。  が……  野球部でレギュラー云々に関して言えば、丁度野球部は9人しかいないため、全員レギュラーだったのだ。  加えて言えば、当時野球部はキヨハラ君(キャッチャー)とクワタ君(ピッチャー)という野球の天才二人が創部したばかりであり、彼等二人の活躍のお蔭で県大会準優勝まで進んだ、というまるでどこぞの野球漫画の様な展開が真相だった。  ……ちなみにキヨハラ君とクワタ君はその後プロに進み、現在では1億円プレイヤー目前だそうだ。  柔道で県大会準優勝云々に関しても、対戦相手が怪我や何やらで次々に棄権した、というまるで何かが乗り移ったかの様な悪運によるもので、実際は県大会でベスト16に進めるかどうかも怪しいものだ。  まあそれでも地区予選を突破できる実力はある訳で、凄いことは凄いのではあるが……  本当、保持タイトルだけでは物事分からないものである。 「では、私が書状を書きます」 「じゃ、あたしは観客集めるよ!」 「え〜と、えとえと…… じゃあじゃあ私は応援しますね……」 「おいおい、ちょっと待ってくれよ。僕はそこまで話を大袈裟にする気はないぞ」  せいぜいこの三人とリーダさん程度の立会人で勝負しようと考えていた司は、突っ走ろうとする栖香と美綺を慌てて止める。 「センセ、この際白黒はっきりさせた方がいいと思うよ?」 「一度、理事長は痛い目にあうべきです」 「理事長が負けた場合を考えてやれよ。可哀想……いえ、何でもありません」  止めようとはしたが、二人の剣呑な目付きを見、司は押し黙ってしまった。 ……だって、怖いから。 「よ・ろ・し・い・で・す・ね?」 「……はい」  弱弱である。  とはいえ、兎に角こうして賽は投げられたのだった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【後編】 ――――理事長室。 「理事長〜いますか〜〜?」  軽くノックの後、返事も待たずにドアを開ける。  そんな司に、みやびは呆れた顔で言った。 「……司、一応ここは理事長室、そしてお前は教師なんだ。もう少し、礼儀というものをだなあ……」 「いいじゃないですか理事長。可愛い労働者がこうして訪ねて来たんですよ?」 「……自分で言うかなあ? 全く……」  そうぶつくさ言いつつも、みやびはお茶を用意してくれる。  お茶はいつの間にかストックされた司好みの日本茶、茶碗も司専用のものだ。  お茶請けは羊羹、これも司の好物だったりする。  いかに司が、ここに訪れているのかが分かるだろう。  ……まあそれだけの理由で、ここまでの高待遇が受けられる筈は無いのだが。 「え〜と、今日はリーダさんは?」  司はお茶にふーふーと息を吹きかけながら、みやびに尋ねた。  が、この質問にみやびはいたく機嫌を損ねたらしい。うがーと吼える。 「お前! それが茶を振舞って貰って最初に口に出す言葉かっ!?」 「いやあ、しかし理事長、また腕を上げられましたね」  司は茶を一口に含んで呑み込んだ後、呟いた。  ここで出されるお茶は、直ぐに喉に放り込んでは勿体無い。故に、じっくり味わう。  職員室で出されるお茶も相当美味いのだが、これは更にその上を行く。はっきり言って格が違うのだ。 「さらっと流すな貴様――!!」 「うん、美味しいよ。みやび」  司は極自然にそう言うと、みやびの頭をポンポンと叩く。 「えっ!? ……うん」  ちなみに、みやびを呼び捨てにしたり、あまつさえ頭に手を乗せるなどという行為が許される者など、司の他には事実上存在しない。  みやびの実の家族は、呼び捨てはともかく頭に手を乗せる等という行為はまずしないし、使用人の鑑たるリーダがそんなことをする筈も無いからだ。  もし、上記以外の人物がそんな真似をすればどうなるか――それは神のみぞ知ることだが、どう転んでも素晴しい運命が待ち構えていることだけは確かだろう。  ……まあそんなチャレンジャーは、少なくともみやびの周囲には存在しなかったが。  要するに、司は別格中の別格なのだ。 「ま、最初が最初だから、もー後は上達するしか無かったんですけどね?」 「こっ、この、おまっ、おまえという奴は――!!」  ……これはあんまりである。  生まれて初めて入れたお茶が余りにもアレだったから、それを司にストレートに指摘されたから――  みやびは一生懸命練習したのだ。  具体的には司を“実験台”と称し、司のお茶をいつも自分で入れていたのだ。  司が、理事長室を訪れる度に。  だから、少し位褒めてあげても罰は当たらないだろう。  が、司は照れくさいのか、いつも最後に余計な一言を発する。  ……要は子供なのだ。この男は。 「いやあ〜 しかし、この羊羹はいつ食べてもいけますね〜 あ、お代わり貰えます?」 「だから、さらっと流すな貴様――!!」  みやびの絶叫が木霊した。 「それで〜 司は一体何をしにいらしたのですかね〜 どうか、この理事長めに教えてくださいませんかね〜?」  お代わりの羊羹をほうばる司を見ながら、みやびは拗ねきった口調で尋ねる。  ……それでも、お代わりの羊羹を切ってやったらしい。みやびも大人になったものである。  まあこれが司以外の人間ならば、とうに叩き出されているだろうが。 「ああ、実は理事長との記念すべき百戦目のことなんですけどね?」 「なんだ〜? ああ、映像の全校公開の件だな? 駄目だぞ、取り消しは無い。大人しく全校に恥を晒せ〜♪」  ま、司があたしの奴隷になるというなら、考えてやらんでもないがな、とみやび。  なんだか、凄く嬉しそうだ。 「いえね? 偶にはこちらからしかけてみようかな、と思いまして」 「はあっ!?」  訳が分からず、みやびは目をパチクリさせる。 「と、言う訳で理事長に挑戦します。今度の金曜の放課後、武道館で雌雄を決しましょう」 「……へえ? 余程、100敗目をきっしたいと見えるなあ?」  みやびは、獲物を前にした仔猫の様な表情で司を見る。 「はっ、はっ、はっ、本気を出した僕は一味違いますよ!」 「……お前が一味位違っても、別に大した違いは無いだろう?」  99戦全敗の男が何を言うか、とみやび。 「ええいっうるさいっ! この勝負、受けるんですか受けないんですかっ!? このお子様理事長っ!!」  ……流石に「99戦全敗」の言葉は効いたらしい。司は禁断の言葉で返す。 「お子様って言ったなあ〜!! いいだろう! その体に、家柄の絶対的な差を叩き込んでやる!!」 「何の! お子様理事長に、庶民の底力を見せて差し上げましょう!」 「また、お子様って言ったなあ〜!? お前なんか大嫌いだ! 出てけ〜!!」  みやびは半泣きで、司を理事長室から追い出した。 「あ…… 果たし状、渡すの忘れた」  みやびに追い出された後、司はふとポケットの存在を思い出した。  これを渡さないと、すみすみに怒られてしまうのだ。  司は頭を掻きつつ、もう一度理事長室のドアを開けた。 「果たし合い、ですか? ……司様の方から?」 「そうだ! まったく、飼い犬に手を咬まれるとはこのことだっ!」  リーダは首を傾げながら、みやびから渡された果たし状の封を切る。(みやびは怒りのあまり、読む気もしないらしい)  果たし状は、和紙に毛筆で認められていた。  その古めかしくも流麗な文字からは、書いた本人の意気込みが伝わってくる。  ……尤も、書いたのは司ではなく栖香だったりするのだが。 「……お嬢様、どうやら普段の司様とは様子が少々異なる様です。油断は禁物かと」  自信満々のみやびに、リーダは忠告する。  この字は司のものではない。おそらく生徒の誰かの手によるものだろう。  そしてこの文からは、その生徒の司に対する想いとみやびへの反感がひしひしと伝わってくる。 (この少女に縋られて、司様はお嬢様に挑戦してきたのですね)……  リーダは溜息を吐く。  彼女から見て、つかさとみやびはとても仲の良い兄妹――年の近い――の様に見えた。  司自身も、みやびの我儘を満更でもない様子で受け入れていた筈だ。  ……そんな司が、自分からみやびに挑戦してくる筈が無い。きっと、裏で司を動かした輩がいる筈だった。 (ということは、仁礼様か相沢様……或いは御二人が結託している可能性もありますね)  司にとり、みやびの優先順位はかなり高い。  彼女に匹敵する者は、少なくとも分校ではこの二人しかいないだろう。  だから、黒幕は直ぐに分かった。  まあ美綺がこんな和紙に毛筆などという果たし状を書く筈もないから、この果たし状は栖香の手によるものだろう。  まず間違いなく、彼女が関わっている。  問題は美綺だが、栖香が関わっているならば何らかの形で協力することは間違いない。  いや、先の対戦のいきさつを考えれば、むしろ積極的に関わっている可能性が高かった。  つまり、司は栖香と美綺に縋られて――実際は「尻を叩かれて」だが――、みやびに挑戦してきたのだ。  こうなると、司は俄然強敵となる。  普段はアレでナニな司だが、こういう時の司は一味も二味も違うのだ。  ……とはいえ、そんなことは口が裂けてもみやびに言えない。  もし教えれば、みやびは逆上して手がつけられなくなるだろう。あれで結構……いや、大いに司のことを気に入っているのだから。  (司以外の人間がみやびを怒らせたら、肉体的ダメージを与えられるだけではすまない。これだけでも司の“特別待遇”が分かるというものだ) 「あははは! あたしが司に負ける訳がないだろう!?」 「お嬢様、司様は柔道三段でございますよ?」 「……むっ!」  思いがけぬことを聞き、一瞬みやびは押し黙る。 「……どうせ、試験の簡単な所で受けたのだろう? 何でも、場所によっては誰でも黒帯を貰えるそうじゃないか!」  各市町村の柔道会は三段までの段位を授与できるため、それぞれ独自で昇段基準を設けているが、中には受けるだけで昇段できる所もあるらしい。  司もその手の類だろう、とみやびは言っているのだ。 「そうかもしれません。しかし、何れにせよ司様は10年以上の柔道経験がおありです。油断は禁物かと」  もっとも柔道一直線という訳では無かった様ですが、とリーダ。 「む、むむむむむむぅ」 「高校時代には、県大会で準優勝されたこともおありだそうですよ?」 「司が!?」  びっくりである。 「野球部ではレギュラーで県大会準優勝、柔道部でもレギュラーで県大会準優勝……司様はスポーツ万能で御座いますね?」 「ふん! どれも準優勝、というところがあいつらしい」 「県大会決勝のお相手は、その後全国大会で優勝されたとか。加えて地区予選から全国大会まで、司様との一試合を除き全試合一本勝ちだそうです」  当時、ヤマシタくん(仮)は腹の調子が悪かった。司との試合は、正にそのピーク時という最悪のコンディションで行われたのだ。  ……まあ、今となっては誰も知る由もなかったが。 「う〜!」  流石のみやびも、しばらく色々な表情を顔に浮かべて考え込む。  余程葛藤しているらしい。  が、結論に達したらしく、みやびは真剣な口調でリーダに命じた。 「リーダ! 司の調査を御願い!」 「かしこまりました、お嬢様」  彼ヲ知リ己ヲ知レバ、百戦シテ殆ウカラズ――孫子。 ――――武道館。  果し合い当日、司とみやびは分校内の武道館、その一区画で向かい合った。 「くくく、まさかお前から挑戦して来るとはな、滝沢司」  負け過ぎで脳に回ったか? とみやび。 「ふふふ、理事長こそ年貢の納め時ですよ?」  対する司もわざわざ実家から送ってきてもらった柔道着に身を包み、自信満々である。  ……今まで背広で戦っていたということから考えても、今回はいつもと違う様だ。 (それはみやびも同様で、今までの様に制服ではなくジャージ姿だった) 「家柄の差が絶対的な差であることを教えてやる」  ――カチン! 「家柄なんて飾りです。御偉いさんにはそれがわからんのですよ」  ――カチン! 「…………」 「…………」  二人とも互いの挑発に頭にきたのか、暫し無言になる。 「ふ、ふ、ふ」 「く、く、く」  そして、どちらからともなく笑い始めた。  もはや司とみやびは、互いしか見ていない。 『泣かしちゃる!』  二人の心は、その一点でシンクロしていたのだ。 「さあっ! いよいよ運命の決戦が始まろうとしています!  今回は運命の第100戦! 風祭みやび選手(総合格闘家)が100勝目をあげ、完全勝利を達成するか!?  それとも滝沢司選手(柔道三段)が一矢報いるか!? ここ武道館は緊張に包まれています!」  司会の美綺もノリノリである。  何せ、凰華ジャーナルの総力を挙げて宣伝したお蔭で、観客も多い。  相乗効果を考えれば、凰華ジャーナルの良い宣伝にもなるだろう。  美綺は内心、笑いが止まらなかった。 「さすが天下の凰華女学院。畳のクッションが効いてるな」  女子校、それも50人そこそこの分校には不釣合いな程巨大で豪勢な武道館は、外見同様内部も充実していた。  ……これなら、全力でいけそうである。 「さあ来い! 滝沢司!」 「おうさ!」  そして、試合が始まった。 「くそっ! ちょこまかと!」  司は内心焦りまくりだった。  先程から、みやびのスピードに付いていけない。予想以上のスピード、そして何よりその小回りの利きに翻弄されていたのだ。  加えて身長差が有り過ぎるため、転がし難くて敵わない。 ……結構ピンチである。  が、ここで負けては男がすたるというものだ。   (払い腰……いや、内股で決める!)  司は高校時代の得意技で決めることにし、機会を待つ。  おとなげないと言われようが、栖香の信頼と期待を裏切る訳にはいかないのだ。 (――今だ!)  機会を捉え、内股を放つ。  それは絶好のタイミングの様に思われた。  が……  視界が反転する。  一拍子置いて、畳みに叩きつけられた音。  暫し呆然としていた司は、やがて驚愕して言った。 「まさか…… 内股すかし!?」 「ふふふ! まんまと罠に嵌ったな、滝沢司! お前が内股で勝負に出ることなどお見通しだあっ!!」 「な、何だって!?」  確かに小さな相手を投げるには、かなり技が制限される。  が、それにしても―― 「お前の得意技が内股だということ位、先刻承知の上だっ!」 「!?」  リーダは、司の柔道技能に関する調査を徹底的に行い、得意技等をはじめ、何から何まで調べ上げた。  その報告を受けたみやびは、司が内股で勝負に出るだろうと確信し、司と同様に機会を伺っていたのだ。  ……要するに、司はまんまと罠に嵌ったのである。 「卑怯ですよ!?」 「卑怯などという言葉は、負け犬の遠吠えだ〜♪」  抗議する司に、みやびはいかにも嬉しそうに言い放った。  が、次の瞬間には司にかにばさみをかけられ、みやびは顔面から畳みに叩きつけられる。 「負け犬は負け犬らしく……ぷぎゃっ! 何するのよ!? もう勝負は終わったのよ!!」 「はあ? 理事長、何を仰るんですか? 柔道じゃあ無いんだから、『一本で終わり』な訳無いでしょう?」  果たし状に、柔道ルールで決着をつける、なんて書いてなかったでしょう? と司。 「え…… し、しまったあ!?」 「ふっ、見事にひっかかりましたね?」  嘘である。  本当は柔道勝負のつもりだったのだが、「そっちがその気なら!」と方針を転換したのだ。 「ひ、卑怯者〜!」 「はて? 『卑怯などという言葉は、負け犬の遠吠えだ〜♪』と仰ったのは、確か理事長御本人では?」  ニタニタ笑いながら、司は余裕の表情で返す。 「く〜や〜し〜、司なんかにひっかけられるなんて〜」 「く、く、く、僕の勝ちですね、理事長。大人しく負けを認めて下さい。ついでに、今までの映像記録も全部破棄して下さいね?」  馬乗りになり、悪人のように笑う司。  ……傍から見れば、まるで犯罪者である。 「そっそんなこと出来るか! 末娘とはいえ、我が名は風祭ぞ!?」 「その覚悟、御立派です。けど、そんなことを言っていられるのも今の内だけですよ?」  手をワキワキさせながら、司は楽しそうに囁く。 「ま、まさか!? やめろ!」  みやびは司の意図を察し、怯えて後ずさった。 「では理事長、御覚悟を……」 「やめろ〜!!」  …………  …………  ………… 「きゃははっ! やめろ! 死ぬ〜!?」  司のくすぐり攻撃にあい、みやびは息も絶え絶えだ。 「降参したら、すぐ止めて差し上げますが?」 「だっ誰が、こっ降参など、するかっ!」 「今まで99戦、僕がただやられていただけとでもお思いで?  理事長の弱い所は既に把握済みです。このまま笑い死にしたくなければ大人しく負けを認めて下さい」  司は得意満面で言い放つ。  始めて訪れた仕返しのチャンスに、得意満面だ。  が…… 「先生?」 「……へ?」  ……振り向くと、実に冷やかな目をした栖香さんが立っていらっしゃいました。 「え〜と、仁礼?」 「理事長と何をしていらっしゃているのですか? 皆の目の前で……不潔です!」 「待て、誤解だ! これは真剣な勝負……」 「それの何所が真剣勝負ですか!?」  確かに、説得力皆無である。 「『先生の名誉がかかっている』と考えていましたが、どうやら違った様ですね。  理事長とお楽しみの所、申し訳ありませんでした。では」  そう言い捨てると、栖香は武道館を後にする。 「仁礼、待て! 誤解だっ! こんな貧弱な体でお楽しみも何も……うぎゃあっ!?」 「ふぁふぇふぁふぃふふゃふふぁ!(誰が貧弱だ!)」  理事長に噛み付かれ、司は堪らず悲鳴を上げた。 「何をするんですか!?」  司も対抗して、みやびの頬を思いっきり引っ張る。 「ふぁふぁふぇ!(放せ!)」 「そっちが先です!」  傍からはみやびが何を言っているか分からないが、どうやら司には分かるらしい。  二人は喰いつき&引っ張り攻撃を与えつつ、何やら本人同士のみで通じるらしい口げんかを行っている。  ……もはや、子供のけんかだった。 「あ〜」 「最初は、とってもとっても真面目な勝負だったのに……」 「お嬢様も司様も、やんちゃで御座いますから」  流石に呆れる美綺と奏。  が、リーダは何所を見ているのか、二人の取っ組み合いを微笑ましそうに見ている。  観客の生徒達は、呆れ果てたのか次々に帰ってしまった。  現在残っているのは、司の担当している生徒達(除く栖香)と、リーダ位のものだ。   「あの二人が私達の理事長と担任だと思うと、何か泣きたくなるよね……」 「同感」  智代美の呟きに、誰ともなしに同意の声が湧き上がった。  実際、見てて何だか泣けてくる。 「リーダさんは、このけんかを最後まで見届けるの?」 「はい、もちろんです。相沢様は?」 「……明日の凰華ジャーナルに載せなきゃいけないんで」  こりゃあ一面には載せられないなあ〜とぼやきながら、美綺は頭をかいた。 「わたし、もう帰りたい帰りたいよ〜」  ……そんな会話の合間にも、両者の死闘は続いていた 「ふぁふぁふぇ〜!(放せ〜!)」 「断るっ!」  風祭みやび vs. 滝沢司 無制限一本勝負(第100回戦)  57分24秒 両者ダブルノックアウト  凰華ジャーナルに掲載された写真には、力尽き、折り重なる様にして突っ伏す二人の姿が写っていた。