帝國召喚 改訂版 短編「三式中戦車開発秘話」 ――――昭和一六年一二月某日、“帝國”九州地方某村。 「「「「雪の進軍氷を踏んで〜〜」」」」  山の中、道なき道を子供達が元気よく歌いながら歩いている。(この状況でその歌はどうだろう、とも思うが……)  突如として隣村に出現した、という戦車隊を見に行った帰りということもあり、皆普段以上に元気一杯だ。誰もが興奮 して、とてもじっとなどしていられない。  だから、数日がかり、という家出紛いの秘密旅行であってもへっちゃらだった。  ……まあ、帰った後のゲンコツは怖いがそれはそれ、今はたくさんの戦車を見れて大満足、こうして“帝國”戦車隊の 雄姿を思い出しつつ歩いている。 「うわあ……」  と、先頭の子供が突然立ち止まった。驚いたようにあんぐりと口を開け、前を凝視している。  何事かと駆け寄る後続の子供達も、その足を止めた。  そして皆が皆、目の前の光景に目を丸くし、立ち尽くす。  ……子供達の目の前の森を抜けた草原には、なんと数両の戦車が鎮座していた。  その重厚な姿と突き出た太く長い大砲は、彼等が隣村で見た戦車などよりも、遥かに『強そう』だ。それが、まるで捨 てられたかのように、無造作に置かれている。  我に返った子供達は、兵隊さんたちに知らせるべく、大急ぎで元いた道を引き返していった。 ――――昭和一九年一〇月、“帝國”富士裾野演習場。  多くの軍高官が見守る中、1両の戦車がゆっくりと動き始めた。  箱型の全面溶接車体といい、長砲身カノン砲といい、その姿は九五式や九七式とは全く異なる印象を与えている。  いや、外見だけではない。その内部機構には様々な新機軸が採用されており、従来の“帝國”戦車とは完全に一線を画 している。  が、そしてその姿は、“何か”にとても良く似ていた。  ――そう、かつて九州の山の中に鎮座していた“強そうな戦車達”に。   欧州は戦火に覆われ、太平洋も風雲急を告げていた昭和一六年初頭、“帝國”は兵器開発の参考資料として、友邦ドイ ツの最新兵器を多数購入した。  一例を挙げるだけでもBf109EやFi156といった航空機、MG151等の銃砲、戦車……兎に角多種多様な兵器が、ヒトラー総 統の好意により購入を許可されたのである。  ……尤も、実際“帝國”に到着したのはBf109Eを始めとするほんの一握りだけだったが、それでも“帝國”にとっては 欧米の最新技術に触れられる、正に宝の山とでも言うべき存在だった。  その、ドイツ国内に止められていた多数の兵器が、転移により国内に出現したのだ。(*1)  冒頭の戦車もその一つで、  三号戦車H型  四号戦車E型  突撃砲B型  ――それが、少年達が発見したものの正体である。  “帝國”陸軍はこれ等の戦車を徹底的に調べ上げ、何とか自家薬籠中にしようと試みた。  その成果の第一陣が、この試作戦車だ。  戦闘重量 20トン  最高速力 40km/h  行動距離 200km  主砲   試製六糎戦車砲×1(ただし試製六糎戦車砲は未だ開発中のため、同寸法同重量のダミー砲を搭載)  機銃   九七式車載機関銃×2(車体前部・砲塔主砲同軸)   装甲   圧延均質鋼を全面溶接した。       砲塔前面50o/側面25o/後面20o       車体前面50o/側面25o/後面20o  機関   統制型一〇〇式発動機(240馬力)  乗員   5名(車長、砲手、装填手、操縦手、無線手兼前方機銃手)  こうしてみると、結局量産されることのなかった一式中戦車の拡大発展型に、ドイツ戦車技術を可能な限り取り入れた ――といった感じの戦車である。  要するに『未だ思想的にも技術的にも消化しきれていなかった』ということであり、習作的な意味合いの濃いもの、と いうことだ。が、それでも文句なしに“帝國”最強の、そして唯一の対戦車戦闘が可能な戦車だった。  故に、陸軍の期待を一身に背負っていたのは想像に難くないだろう。それは、見学する高官達の数からも容易に推察さ れた。  ……さて、ここで当時の“帝國”機甲戦力について少し見てみよう。  昭和一八年八月末、陸軍改編計画の第一段階が完了した。  この一連の改編により、転移後の軍縮の影響を逃れるどころか僅かとはいえ増強を許された機甲戦力は、その姿を大き く変えていた。転移直後に多数存在した師団戦車隊や独立軽装甲車中隊等の小部隊は統合再編されて姿を消し、代わりに 戦車師団を始めとする強力な機甲部隊が整備された。これ等の部隊はやはり新編された機甲軍隷下に配属され、“帝國” 陸軍の切り札的存在として例外的に戦時編成を維持、日夜猛訓練に明け暮れていた。(機甲戦力の集中配備――それこそ が“帝國”陸軍がドイツの電撃作戦から学んだ戦訓だったのだ)  戦車保有数も2000両の大台に達し、これに“帝國”機甲兵の士気と練度が加われば『独ソにも対抗できる』とすら見做 されていた。  ……が、これはあくまで表面的な話であり、その内実は少々……いやかなり『お寒い』状態だった、と言える。  まず集中配備されたは良いが、各車両の無線装備率の低さと能力・信頼性の欠如から命令伝達と状況把握に時間がかか り、1分を争う“機動戦”を行う上では不十分、との烙印が押されていた。(士気や練度でどうこうなるのは、せいぜい 中隊レベルまでの話に過ぎぬのだ)  また2000両という保有数も曲者で、あくまで教育用や予備も含めた数字……どころか軽装甲車まで足した数――おおよ そ中戦車600両/軽戦車700両/軽装甲車600両――に過ぎない。(ちなみに『対抗可能』とされたドイツは、2年以上前の 独ソ開戦時ですら既に3000両を超える戦車を保有していた)  だが上で挙げた以上に問題だったのは、その“質”だろう。何と“帝國”は、九五式九七式といった旧式戦車群の生産 を、昭和も一九年になった今でも後生大事に続けていたのである。  ……或いは、ここでドイツとて事情は同じだ、とご指摘される読者も少なくないであろう。ことに実際に九五式や九七 式に搭乗された方々は、声を大にして仰るかもしれない、『我々はこの戦車で戦い抜き、勝利したのだ』と。  いや、確かにその通りである。確かに“帝國”陸軍の主力戦車は転移後長い間、九五式や九七式であったし、大ドイツ の主力戦車たる三号/四号戦車とてこれとほぼ同時期の戦車だ。が、三号/四号が戦訓により様々な改良を施され、既に 転移時の時点で『登場時とは別物』と言われる程の大改造を施されていたのに比し、九五式や九七式はその登場時から… …そしてその最後に至るまで、(九七式中戦車改を唯一の例外として)大きな改良を施されることは遂になかった。  この事実を考えれば、やはりドイツ戦車を同列に扱うことは出来ぬであろう。九五式や九七式で戦い抜けたのは、単に 運が良かっただけに過ぎないのだ。(昭和二〇年末、長砲身88mm砲搭載の四式重戦車の登場――その実態は量産不可能な ただの試作車両に過ぎなかったが――に合わせ、ようやく明らかにされたソヴィエトのT34中戦車やKV重戦車の存在を考 えれば尚更だ)  無論、陸軍当局とてこれでよし、としていた訳ではなかった(*2)。独ソ戦の戦訓から、そう遠くない将来英米独ソの中 戦車が中〜長砲身75ミリ砲搭載の30t級戦車に移行するであろうことは必至であったし、そうなれば九五式や九七式は勿 論、現在開発中の一式ですら到底太刀打ち出来ないであろうこと位、重々承知していた。  が、これは多かれ少なかれ全ての分野で言えることであり、何も戦車――確かに最も深刻な分野ではあるが――に限っ た話では無かった。  限られたリソースに対し、投資すべき多数の分野……  検討に検討を重ね陸軍が出した結論は、選択による資源の集中――最も重要な分野であるは航空戦力に対し、許す限り のリソースを投入することだった。  故に、比較的優遇されている機甲分野とはいえ、頻繁に新型戦車を導入する余裕などある筈も無かったのである。  それどころか、限られた予算を有効に使うため、大ナタが振るわれた。  まず維持費を少しでも減らすために部隊が統廃合され、機甲戦力は集中配備された。(何も戦訓ばかりが理由ではない のだ)  九五式軽戦車の後継たる九八式軽戦車、同じく九七式中戦車の後継たる一式中戦車は割高のため、制式化こそされたも のの量産を見送られた。(装甲材に問題があったということもあるが、一番の原因はやはりこれだろう)  当然生産量も減られ、昭和一六年時には年間1000両以上生産された戦車・軽装甲車が、昭和一七年以降は年300両を大 きく割り込む、という有様だった。(*3)  唯一の明るい材料として、昭和一七年も後半に入ってようやく長砲身47mm砲を装備した、対戦車戦闘の可能な九七式中 戦車改の生産が開始されたが、年80両ほどの生産量では当分の間“無印九七式”を使わざるを得ない、というのが現実だ 。  ……要するに、当時の“帝國”陸軍の機甲戦力は、非常に問題がある分野だったのである。(何度も言うようだが、だ からこそこの状況を打破する存在として、今回お目見えした試製戦車は大いに期待されていたのだ)  試作戦車は、軽快に……とはいかないまでもまあ順調に課題をクリアしていく。車体長こそ変わらぬものの、車体幅に 関しては従来よりも優に一回り以上巨大化し、それに伴い履帯も大幅に拡張されただけあって、安定性と走行性は良好だ 。  従来の硬さ一辺倒でなく、適度に粘りを持たせた装甲も見事な性能を発揮した。その前面装甲に見立てた装甲板が、 300mという至近距離からのラ式37mm対戦車砲の攻撃を受け止め、拍手喝采を浴びる。その半分の厚さしかない側面装甲が 、九四式速射砲の至近距離からの攻撃を受け止めた時など、皆――特に歩兵系の将校達が――拍手も忘れて呆気にとられ たほどだ。  主砲は未だ完成していなかったが、一式機動47mm速射砲よりも倍近く重い砲弾を、同速以上で撃ち出す――と聞いて誰 もが満足気に頷いた。  参謀総長も笑みを浮かべ、上機嫌で尋ねる。 「よろしい、出来る限り予算を手当てしようじゃあないか! ……で、幾らかね?」 「は! あくまで予想でありますが、30万圓であります!」  が、予想調達価格が1両30万圓と聞き、参謀総長は顔色を変えた。(*4)  そして真っ赤になり、担当者を怒鳴りつける。 「いくら何でも高すぎる! 臣民の血税を一体何と心得るか!」  ……参謀総長の一喝により、試製戦車は大幅な装備変更を余儀なくされた。  まずキューポラを始めとするドイツ式装備も多くが九七式のものに変更され、他にも無線機どころか整備パネルのバネ まで廃止――おかげで整備時には数人がかりでこじ開けねばならなくなった――する、という徹底的な簡易化が行われた 。  ばかりか、最大のセールスポイントである六糎戦車砲(長砲身57mm砲)にまでメスが入れられ、一式47mm戦車砲へと変 更されることとなった。  が、ここで更なる悲劇が襲う。  一式機動47mm速射砲が制式化こそされたものの、他の多くの一式シリーズ同様に結局量産化を見送られたのである。  結果、速射砲と戦車砲の弾薬共通化も頓挫した。  結局、一層のコストダウンの圧力もあり、既に第一線を退いていた保管中の三八式野砲を主砲に選定せざるを得なくな った。(戦車兵側は九〇式野砲を希望したが砲兵側から拒絶された)  三八式野砲を無理矢理戦車砲に転用したため、砲塔は巨大化し、重量増を招いた。  また同砲は貫通力こそ一式機動47mm速射砲に準じたものの、発射速度は大きく低下し、総合的な対戦車能力では明らか に見劣りがした。  反対に制圧力は大きく増加し、帝國軍初の対戦車戦闘を想定した戦車は歩兵支援戦車 この結果予想価格は24万圓にまで低下し、これと合わせ保有戦車数を一割削減(2000両→1800両)するという条件により 、何とか参謀総長の怒りを解くことが出来た。  そして昭和一九年一二月、試製戦車は三式中戦車として制式化され、翌一月より量産が開始される。生産数は年80両弱 。おおよそ8年で更新完了する計算だった。  こうして様々な紆余曲折を経て誕生した三式中戦車だったが、その潜在的なキャパシティの高さから後に様々な改良が 施され――といっても大半が簡素化された装備を元に戻しただけだが――、昭和二〇年代の機甲戦力の中核を担ったこと を考えれば、まあ成功作と評して良いだろう。  が、同時に当時の“帝國”の技術力の限界を示す存在、ともいえた。 ……当時の“帝國”の技術力では、三号四号レ ベルの戦車を満足に造ることが出来なかった、という証拠に。(信頼性の高いエンジンどころか、満足な剛性をもったバ ネ一つ造れない有様では、三号戦車のモンキーモデルがやっとだった)  ……そして、その三式戦車ですらやはり問題が続出した。  信頼性の低いエンジン、脆い足回り……全ては基礎工業力の不足故のことである。  結局、“帝國”が真の意味で満足な戦車を持つためには、各部品の製造技術――即ち基礎技術力――の向上なしにはあ り得なかった。  そしてそれが実現するには、まだ少なからぬ時間を必要としていたのだった。 *1 ――――『その、ドイツ国内に止められていた多数の兵器が、転移により国内に出現した。』――――  この他にもやはり輸送不能となり、留め置かれていた工作機械が多数出現した。これ等の出現は“帝國”全体の生産量 からすれば微々たるものだったが、“帝國”の最先端技術を支える上で無視できぬ出来事だった。  ……というのも、当時の“帝國”の工作機械製造技術は非常に貧弱であり、到底輸入製品を代替できる存在では無かっ たからだ。 *2 ――――『無論、陸軍当局とてこれでよし、としていた訳ではなかった』――――  昭和も終わりになってようやく公開された各種の記録からは、当時の陸軍が己の戦力……ことに戦車の能力に関して深 刻な懸念を示していたことがはっきりと伺える。  陸軍が量産も出来ないような各種重戦車の研究開発を行っていたのは、せめて技術だけでも、という危機感の裏返しだ ったのだ。 *3 ――――『当然生産量も減らされた。昭和一六年時には年間1000両以上生産された戦車・軽装甲車が、昭和一七年以 降は年300両を大きく割り込む、という有様だ。』――――  とはいえ各工場は代わりに各種土木トラクターを大量受注しており、フル稼動状態だった。このように転移後の“帝國 ”のトラクター生産数の上昇は凄まじく、オペレーターの養成が追いつかなかったほどである。(このため初期において はかなりの数の戦車乗りが教官に回され、各部隊は定員を大きく割り込んでいたようだ) *4 ――――『……が、予想価格が1両30万圓と聞き、参謀総長は顔色を変えた。』――――  ちなみに九七式中戦車改が約18万圓、九七式中戦車が約16万圓、九五式軽戦車が約8万圓である。これを考えれば如何 に30万圓という価格が法外かが判るだろう。(付け加えて言えば零戦が約8万圓だ)