帝國召喚 改訂版 短編「“帝國”の憂鬱――転移初期におけるその危機的状況――」 転移直後における“帝國”の憂鬱(フォール・ボネー著“列強の興亡”より要約抜粋) @失われた市場  当時の帝國は軽工業中心の経済構造だった。(輸出総額の8割を生糸・絹織物や綿糸・綿製品が占める!(*1))  雑貨等、輸出が大半を占める産業も少なくなく、経済は事実上輸出によって成り立っていた、と言っても過言では無い 。  ……が、転移により、全ての海外市場は失われた。  これは“帝國”経済にとり、極めて深刻な状況だった。 A巨額の公共投資と高度経済成長  当時、“帝國”は軍事費を大幅削減(対GNP比38%→20%未満)し、そのリソースを大陸開発関連に投入していた。  その割合は年々増え続け、昭和17年度に20%、昭和18年度に25%、昭和19年度には遂に30%にまで達した。(生きるた めには仕方が無い、とはいえ余りに巨額だ)  それ故、当時の“帝國”は未曾有の好景気、経済発展を遂げ、かつての失業率が嘘の様な人手不足に見舞われた――そ う、後の多くの書物に書かれている。  ……確かにマクロ的に見れば、それは真実だろう。  が、分野別に見ていけば、そんな“お気楽”な状況とは到底言えぬ、極めて深刻な実情が浮かび上がってくる。 B産業構造の変化を求める急激な圧力  上でも述べた通り、当時“帝國”が公共投資に投入した額は、大陸関連だけでもGDPの1/4にも匹敵する巨大なものだ。  ただし、これはその大半が重工業に対するものだった。  当時の経済構造の過半を占めていた軽工業には、全体から見ればほんの僅かな投資しかされなかったのである。  確かに元の巨額である以上、投資額そのものは決して少なくは無い。むしろ大きい、と言って良いだろう。  が、それは到底“失われた市場”を埋められるものでないこともまた事実だった。  何より、重工業と……当時の経済構造に比して、その投資は余りにアンバランス過ぎた。  結果、“帝國”経済はかつてない程の急激な構造変化の圧力に晒された。 Cついていけぬインフラ  重工業分野もまた、多くの問題を抱え込んでいた。  残念ながら、当時の“帝國”重工業はこの膨大な需要を満たせるだけの能力を欠いていた。  設備・人員・技術・資源……何もかもが、欠けていたのだ。  中でも欠けていたのが“人”だった。  資源は、運べばある。  技術も、ある程度は妥協できる。  設備とて、一年〜長くても数年で拡張できる。  が、“人”は……一人前の職人は、数年では育たない。  ことに当時の“帝國”工業は多かれ少なかれ職人芸に頼っており、高い技術力を要求されていた。  ……つまり、人手不足とはいえ、頭数を集めてどうこう出来る問題ではなかったのだ。(事実、止むを得ず新人を大量 採用した現場は、ほぼ全てが大混乱に陥った)  かくして、開発計画は次々と“繰り延べ”されたのである。 D人材需要の偏在――人が余っているのに人手不足?――  転移直後の“帝國”には、数百万規模の失業者が存在した。  元からの失業者に加え、大量の大陸移住者が出現したからだ。  加えて、軍が100万を超える人員を除隊させたことも大きい。(軍の動員解除は、人手不足に対応する、というよりも むしろ臣民に安堵感を抱かせる意味合いの方が大きかった)  転移直後、“帝國”は失業者で溢れていた、と言っても過言では無いだろう。  彼等は、主に以下の“産業”に吸収された。 ・企業からの募集  膨大な発注に対応すべく、重工業分野では多くの人材を必要としていた。  故に、ホワイトカラー或いは手に何らかの技術を持った労働者なら、まず間違いなく就職できる状態だった。  ――が、失業者の大半は何の技術も無い。  故に、その多くは以下の道を選ばざるを得なかった。 ・神州島入植事業  大陸移住者の大半を当てる計画だったが、その支援能力の不足(入植者の数年間の生活を丸抱えする必要がある上、数 百万規模の入植者を支援するだけの器材資材を手当できない……)から予定は大きくずれ込んでいた。  入植三年目の昭和二〇年度に入ってようやく入植100万人を突破したが、これでも予定の半分にも達していなかった。 ・大陸開発  軍属として参加することになるが、技能者は軍人或いは企業からの派遣となるため、要は単純作業者に過ぎない。  最盛期には100万とも言われる労働者が投入された。 ・国内開発  帝都開発や工場の新設・拡張等の作業に従事する単純作業者。  また国内鉱山でも多くの人員を必要としていたが、危険の多い作業だった。  失業者の大半がここに吸収された。  結論として、多くが危険かつ厳しい単純労働作業に従事せざるえなかった。  それでも政府の指導もあり、多くの工場や企業で新人が登用されたが、これも若年者のみの話だった。  多数の、若くない、単純労働者は取り残されたのだ。  必然的に、彼等は日雇い労働に従事した。  幸い、好景気の恩恵で職に困ることはなかったが、到底安定した状況ではない。  確かに、彼等は食事と寝床に困らなくなったばかりか、ささやかな楽しみすら享受できる余裕をも持てる様になった。  これはかつてより遥かにマシな状況ではあったが、それがずっと保証される筈も無いことは明白である。  “帝國”にとり、彼等はある種“時限爆弾”とも言える存在だった。  また、生活が安定している筈の社員達も、決して恵まれた環境とは言えなかった。  労働時間が延長した割に、収入は伸びていないのだ。(一見大きく伸びている様に見えるが、これは残業代とインフレ によるもの)  これは政府が待遇指針を設け、かつての好景気(第一次大戦時)の様な極端な待遇向上を抑えていたからである。  社会が統制下だった、何より物資が不足していた、ということもあるだろう。  が、政府の目が企業・資本家に向いていたことも、また否定のできない事実だった。  当時の社会主義者達は、この状況を評して以下の様に述べている。  “労働者に恩恵無き好景気”と。 E作られた“夢”  確かに、当時の生活環境は転移直前と比べて好転していた。  失業者は消え、(長時間労働の産物ではあるが)収入も増えた。庶民の生活は明らかに向上したのだ。  が、その一方で“重い空気”が生じていたこともまた、確かなことだった。  転移という得体の知れない状況に対する不安、  日常生活に対する不満、  覚悟していた対英米戦が消え、日支事変すら終った、という一種の虚脱感……  これ等のはけ口として、政府は夢を作った。 『“帝國”は、八百万の神々のお導きによりこの世に顕現した』 『“帝國”は大内海全域を支配した!これは環太平洋全域にも匹敵する!』  “聨合帝國”“帝國一千諸侯”なる見出しも新聞に踊る。  臣民は、これに熱狂した。 『“帝國”の支配領域はどんどん広がっていく、今日より明日、明日より明後日……生活はどんどん良くなっていくに違 いない』 『我々は支配民族だ!』 『明日には世界を!』  ――それは、政府の思惑を超える熱狂振りだった。  この熱狂は、やがて“帝國”を抜き差しならぬ状況に追い込むこととなる。 E歪な成長――自転車操業の“帝國”経済――  当時の“帝國”経済を一言で言い表すならば、以下の様に言い表せるだろう。  “自転車操業”――と。  GNPの三割近い投資により、確かに“帝國”経済は急成長を続けていた。  が、これは極めて異常な状態であり、長期間続けられるものでないことは明白だった。  ……とはいえ、重工業の発展に比し、民需は全くと言って良い程育っていなかった。  もしこの状態で投資を止めれば、その瞬間に成長は止まるどころか停まりきれず転げ落ちるだろう。大恐慌の再現だ。  かつての主力である軽工業企業は人員を大幅に縮小しており、中小の企業では倒産したところも少なくない――その状 況が……いや、それ以上のショックが重工業に起こるのだ。  当然日雇い労働者も職を失い、真の意味での失業者が数百万単位で出現することとなる。  不満は噴出し、社会は不安定化するだろう。  故に、“帝國”は投資を止める訳にはいかなかった。  企業は大陸からの資源で製品を造り、  政府はその製品を用いて大陸を開発する。  このサイクルを、延々と続けていかねばならぬのである。  しかも、政府はこれを維持する為に膨大な金を借り続けねばならない。  資金調達、資源調達、製品生産……どれか一つでも躓けば、大惨事となる。  “帝國”は血反吐を吐きつつ、ひたすら走り続けなければならなかったのである。  このため、“帝國”は市場を必要としていた。  徐々に大陸開発から手を引いていく分を、代替できるだけの市場を。 F必然だった中央世界進出  この様な状況下で昭和一八年八月、“帝國”はロッシェル王国との間に戦端を開いた。  それは、中央世界進出への幕開けだった。  軍の野望?  外務省の思惑?  ……ああ、確かに直接的な原因はそうだろう。  が、そんなことは所詮大した問題ではない。  大内海の制圧が完了した時点で、“帝國”は遅かれ早かれ中央世界に進出せざるを得なかったのだ。  そしてその種は、“帝國”が転移した時から撒かれ続けていたのである。  “帝國”は、常に拡大し続けねばならなかったのだ。  民に、夢を与え続けるために  企業に、市場を与え続けるために  何より、“帝國”の安寧の為に。 *1 ――――『輸出総額の8割を生糸・絹織物や綿糸・綿製品が占める!』――――  ただし、ここ数年は制裁の影響もあり、三割程に落ち込んでいた。