帝國召喚 改訂版 間章1「事変前夜」 【6】  在イルドーレ王国“帝國”連絡事務所は、良く言えば“王都郊外”、悪く言えば“街外れ”という、実に微妙な位置にあった。  200坪程の敷地に50坪強の平屋建て母屋、20坪強の蔵、10坪弱の竜舎が建ち並ぶ小さな屋敷で、規模としてもさして大きくない。  ……港にほど近いところが、(その職務上から)唯一手放しで褒められる点だろうか?  この様にイルドーレ王国における“帝國”の拠点は、その野望に比していささか不釣合い過ぎる程、ささやかな存在だった。 ――――在イルドーレ王国“帝國”連絡事務所、庭。  井戸の前でゴシゴシと洗濯する少女の前に、数えでも10に達したかどうか……といった風の少年少女が二人、勢い良く駆けて来た。 「「おそうじおわりました!」」 「うん、ごくろうさま。じゃあ、お姉ちゃんはがんばってお洗濯終わらせちゃうから、それまで遊んでなさい。 ……家から出たらダメだよ?」  少女の言葉に子供達は元気良く返事をする。 「「はい!」」 「いい返事だ、ご褒美にこれあげよう♪」  少女は満足気に頷くと、エプロンのポケットからドロップス缶を取り出す。  そして缶の蓋を開けて軽く振り、色鮮やかなドロップスを子供達の手に落とした。  子供達は目を輝かせ、口々にお礼を言う。 「わあ!」「ありがとう、おねえちゃん!」 「仲良く分けるんだよ?」 「「はい!」」  と、3人の前に黒い大きな影が現れた。 「……なんだ、ここにいたのか」 「あ、久治様。おかえりなさいまし。今日は竜車では無かったのですか?」 「お、おかえりなさい……」「……だんなさま、おかえりなさい」  少女は深々と、子供達は少女の背後に隠れて恐る恐る挨拶する。  が、羽場はさして気にも止めず、手にした鞄を少女に放り投げた。 「天気が良いから、途中降りて歩いてきた」 「この辺りの治安は比較的良好ですが、油断は禁物です。移動には、なるべく竜車を用いてくださいまし」 「“その時”はこいつの出番だ」  羽場はニヤリと笑い、背広の内ポケットから拳銃を取り出した。  米コルト社の傑作自動拳銃、コルト・ポケット1903だ。  暫し玩んだ後、空に向けて発射する。  ダンッ!  撃ち出された.32ACP弾は、見事庭の木になる実の一つを撃ち抜いた。実はグシャッ!と嫌な音をたて、弾け飛ぶ。  それを見て、羽場は満足そうに振り返った。 「どうだ?」 「お見事です、と申し上げたいところですが…… どうかこの子達の前で、そういった行為は控えて頂けないでしょうか? ほら可哀想に、怯えてますわ」  少女は震えている子供達の頭を優しく撫で、早くお部屋に戻りなさい、と諭す。  その言葉を合図に、子供達は一目散に家の中へと駆け出していった。  ……その後姿を見ながら、羽場は鼻で哂った。 「随分と優しいことじゃあないか、お前達にとって不倶戴天の仇敵なのだろう? ……“この世界の人間”共は?」 「……そうですね。でも、あの子達が何かした訳じゃあないですから」  羽場の言葉を、少女は曖昧な表情で返した。  ――それに、“可哀想”なのはあの餓鬼共だけじゃあないぜ? もっと可哀想な連中はゴマンといるさ!  少女が始めてみせるその表情に、羽場は口に出しかけた言葉を飲み込んだ。  そして、流石に言い過ぎたかな、と羽場は鼻を掻きつつ付け加える。 「ま、お前の勝手だ、好きにするといいさ。“使用人付きの良好物件”というお前の言葉も、満更嘘では無かったしな」 「ありがとうございます」  少女はにっこり笑い、頭を下げた。  この小さな屋敷は、つい数ヶ月前まで小規模交易商人の事務所兼自宅だった。  が、事業に失敗して破産、残された多額の借金を苦に、商人一家は心中した。  ……あの子供達はその生き残りだ。恐らく、両親は無意識の内に手加減してしまったのだろう、下の子供二人は心中後、自力で蘇生したのだ。  とはいえ、助かって運が良かった――とは素直に言えなかった。だって、二人には借金の山が残されたのだから。  何処かに売り飛ばされかけていたこの幼い兄弟を救ったのが、目の前にいるこのダークエルフの少女だった。彼女は物件を探していた羽場に頼み込み、二人の身柄ごと屋敷を買い上げたのである。 「……しかし、お前の負担が大き過ぎるのではないか?」  他人事――手伝う気は更々無い――ながら、羽場は懸念を示した。  現在、この事務所に常駐するのは官1人に雇人3人の計4人しかいない。所長兼領事の羽場、外務書記兼翻訳官補待遇の事務雇人である少女、そして現地採用の雑役雇人である兄妹二人だ。(これでは、こんな小さな小さな事務所でも広過ぎるくらいである!)  本来ならば現地採用の雇人が家事等を全て行う筈なのだが、それを望むのは些か無謀と言うべきだろう。故に、羽場の補助に加え、家事の大半を少女が請け負っていた。 ……ここに羽場の“お相手”も加わる訳だから、恐ろしい程の重労働である。羽場が懸念したのも無理からぬ話だった。 「ご心配、ありがとうございます」 「……いや、別に心配はしとらんが」  “心配”ではなく“懸念”である。辞書的には殆ど同意でも、この場合の意味の隔たりは大きい。(あくまで羽場は仕事の遅れを心配していたのだ)  が、少女はわざとか天然なのかは判らぬが、勘違いしたままだ。 「でも、大丈夫です。あの子達も一生懸命手伝ってくれてますから。結構役に立っているのですよ? それに――」 「それに?」  一瞬、年に似合わず儚げな表情を浮かべる少女の顔を、羽場は覗き込んだ。  が、それは次の瞬間には消えていた。 「お仕事は、無いよりもあった方が良いじゃあないですか! 『働かざる者喰うべからず』! いい言葉ですね♪」 「……ま、お前がいいなら別に構わんが」  羽場としては、あと一人くらいなら現地人を採用してもいいかな、と考えていたのだ。  それ故に探りを入れてみたのであるが、少女のその言葉を聞き、胸の内にしまい込むことに決めた。  ……その代わりと言っては何だが、一つ目にやることが終わったので、二つ目の行動に移ることとする。  ガシッ! 「?」  急に腕を捕まれた少女は、不思議そうに羽場を見る。 「今日の俺の仕事は終わった、“相手”しろ」 「い、今から……ですか?」  まだ日は高い。少女の目が驚愕で大きく見開かれる。 「愚問だ」 「で、でも、まだ私の仕事は終わってません!」  少女の精一杯の抗議は、だが羽場に冷たく切り捨てた。 「後でやれ」 「せ、せめてお洗濯だけは…… 明日から、お天気が崩れそうなんです……」  少女は観念し、最大限の譲歩を提示した。  ……それが儚い抵抗に過ぎないことは、重々承知していたが。 「なら、餓鬼共にやらせろ」 「む、無理ですよ! お洗濯には細心の注意が必要――」  羽場は少女を無視し、強引に担ぎ上げると早足で母屋にある自分の部屋へと向かう。 「あ……ああ…………」  ……絶好の洗濯日和を逃した少女は、明日以降暫く崩れるであろう天気を思い、羽場の肩の上から涙ながらに捨て置かれた洗濯板を見続けていた。  まだ日も高いというのに固く閉ざされた部屋の中、大小二つの影が動いていた。  ……羽場と少女だ。  ランプの灯りを唯一の光源とする薄暗い部屋の中、羽場は豪華なソファにどかりと座り込み、抱き抱えた少女を一心に責めている。  身長五尺九寸、体重二十貫という(当時としては)巨漢の羽場が、五尺にも満たぬ少女を嬲るその光景は、『まるで大人が子供を嬲っているような』――そんなありえざるべき背徳感を醸し出していた。 「う゛…… あ……ああ…………」  もはや言葉になっていない、ただ肺から吐き出された呼気が音になっただけの声を、少女が漏らす。  羽場はガウンをまとっているものの少女の方は一糸まとわぬ姿、おまけにどうやら散々に嬲られた後のようで、既に目も虚ろである。その姿は悲惨この上ない。  が、それは羽場にとって最高の姿、最高の嬌声だった。もっと見るべく、聞くべく、少女の両手首を手綱代わりに握り締め、強く何度も動かした。 「あ゛……あ゛…………」  少女の口から再び“嬌声”が発せられる。実に愉快だった。  ククク……  羽場の咽喉の奥から、愉悦の声が漏れる。  この行為は羽場が満足するまで、何度も繰り返し行われた。  …………  …………  …………  事が終った後、羽場は満ち足りた表情でパイプを吹かしていた。  が、床の汚れに気付くと顔を顰め、自分の足元で“贅沢にも”意識を手放していた少女を軽く蹴り上げる。 「おい、いつまでサボっている! さっさと起きて掃除をしろ!」 「は……はい…………」  少女はフラフラと起き上がり、常備されている雑巾で床を拭く。  綺麗になっていく床を見て、羽場は満足気に頷いた。  そしてよほど機嫌が良いのか、今度は仕事の話をし始めた。  自慢話、という奴だ。 「今日、“例の件”が合意に達したぞ」 「……めでたい?」 「? あ……ああ、これで出世も思いのまま『はいー』????」  少女の反応を不審に思い、羽場はソファから腰を上げ、少女の顔を覗き込む。  と、少女の目は虚ろで、その視線もあさっての方向を見ていた。  ……どうやら未だ“寝惚けている”様だ。羽場はもう一度、だが今度は強く蹴り上げる。  ガッ!  少女は勢い良く転がり、壁にぶつかってようやく止まった。 「あ、あ痛たたたた…… あれ?」  正気に戻ったのか、少女は不思議そうに周囲を見渡す。 「!」  そして汚れた床と雑巾に気付くと、慌てて掃除を再開する。  それを見て羽場は大きな溜息を一つ吐き、ソファに腰を下ろした。  再び、自慢話が始まった。 「今日、“例の件”が合意に達したぞ」 「それはそれは、おめでとうございます!」  少女は手を止め、頭を下げる。  それを見て羽場は、『うん、これが正しい反応だ』と内心で何度も頷く。実にご機嫌だ。 「ああ、これで出世も思いのままだ」 「はい! ですが――」  少女は口篭る。 ……そして暫し逡巡した後、『思い切って』という感じで言葉を続けた。 「――ですが、昭北島の吉田様にお知らせしないで、本当に良かったのでしょうか?」 「なに、手柄を立ててしまえばこっちのもの、さ」 「そう、でしょうか……」 「それに、な? 確かに吉田閣下には無断だが、“独断”ではないさ」  この件に関しては本国のお偉方が多数……おまけに海軍までもが噛んでいる、今更吉田大使がどうこうできる話ではないのだ、と羽場は不適に笑う。 「だから、お前如きに心配してもらう必要はない」 「も、申し訳ありませんでした」  羽場の機嫌を損ねかけていたことに気付き、少女は慌てて頭を下げた。  …………  …………  ………… 「――という訳で、何とか合意に漕ぎ着けた訳だ」 「大変でしたねえ」  羽場の自慢話に、少女は相槌を打つ。  いつの間にか手にはグラスが握られており、傍らのテーブルにはつまみが乗っている。酒もかなり入っている様だ。  加えて少女しかこの手の話を聞かせられる者がいないせいか、実に饒舌である。 「ま、後は連中の借金の証文を商人から手に入れるだけ、楽なものさ」 「? ……確か、現金支払いの筈だったのでは?」  かつて聞いた話と違うことに気付き、少女は首を傾げた。 「連中、土壇場で同額の借金の肩代わりを要求しやがったんだ。できれば押し切りたかったんだが、こっちも余り交渉に時間をかけられなかったので、な?」 「…………」 「??? どうした?」  厳しい顔で何やら考え込む少女に、羽場は不審気に聞く。 「……やられましたね」 「? ……どういうことだ?」 「彼等は、未払いの利子分をこっちに押し付けたのですよ」 「おいおい、考え過ぎじゃあないのか? 第一、今期の利子は先日払ったばかりのそうだぜ?」 「“今期”はそうかもしれませんが、それ以降の利子は未払いなのでしょう?」 「当然だ、まだ期日じゃないのだからな」 「なら、やはりその利子はこちらが払わされる、ということですよ」 「おいおいおい、そりゃあ先の利払いから数日たっているが、その分くらい大したことないだろう? 一括で返金させるのだから、まけさせるさ!」  その言葉を聞き、少女は深い深い溜息を吐いた。 「……ああ、やはり久治様は大きな勘違いをしていらっしゃいます」  そもそもアルフェイムの……少なくともその中央世界における借金の基本形式は、『決められた利子を払う代わりに決められた期間、元金を自由に使える権利を得る』というものである。  ……少々判り難い表現だが、要は『払う利子の総額は最初に決められている』ということだ。故に、どんなに早く返そうが残りの期間の利子分もきっちり払わされる。 「庶民相手の金貸しですと、元金から予め利子分を引いて渡す例も多いそうですよ」 「なんで借りてない期間の利子まで、払わねばならんのだ!?」  “騙された”形となった羽場は怒り狂い、少女を締め上げる。 「そ、そんなことを私に言われましても!? ……それにそれはあくまでこちら(借り手)の言い分であって、あちら(貸し手)にはあちらの言い分がありますし…… 貸し手のほうが借り手よりも立場が強いのは、当然のことかと……」 「くっ! なんて阿漕な世界だ」  羽場は吐き捨てる。  が、これは“帝國”でもよく聞く話であり、別に驚く程のことではない。単に羽場が世間知らず過ぎるだけだ。  どう考えても、契約を急いだ羽場のミスである。 「ということは、残り二半期分の利子を余分に払わねばならぬ、ということか……」 「やむを得ないことかと……」  少女は神妙に頷く。 「ちっ、年20%だから二半期で10%、10万リバーか」 「!?」  羽場のその言葉に、少女は先ほど以上の反応を示した。  驚きのためか、目もまん丸だ。 「……あの、そういえば一体幾らで契約なされたのでしょうか?」 「100万レムリア・リバー」  恐る恐る尋ねる少女に、羽場は何でも無いことのように軽く答えた。  クラッ  ……それを聞き、少女は軽い立ち眩みを起す。 「? どうした?」 「……久治様、それは中央世界でも『人口2〜3万程の領地から得られる歳入』に匹敵する大金です」  少女は直接には言わなかったが、明らかに『払いすぎだ』と指摘していた。  ……本来ならば、次の瞬間に少女を怒鳴りつけるところだ。  が、やはり多少は気が動転しているせいか、羽場はいい訳じみた言葉を発する。 「……時間が無かったのだ。即断即決、仕方が無いだろう」 「ですが100万レムリア・リバー、利子も付けて110万レムリア・リバーともなりますと、今お蔵にある金塊だけではとても足りません。急いで残りの分を送って頂かないと……」  少女は指折りで残された日にちを勘定し、深刻な面持ちで呟いた。やることは山とある、急がねば……  が、そこへ更なる爆弾発言が投下された。 「いや、あれで全部だが?」 「はい?」 「だから、渡された予算はあれで全部だ」  少女は我が耳を疑った。  ……この人は何を言っているのだ? まさか、まさか――  その危惧は現実のものとなり、羽場は少女が最も恐れていた可能性を、平然と口にした。 「1レムリア・リバーは純銀2gだろう? なら100万リバーは純銀2t、金は銀の15〜16倍だからだいたい純金130s、110万でも140sと少しだ。蔵にある金塊は160s、純金換算で144s……まあ“余裕で”とは言えんが何とかなる」  へたり  その止めの一撃で、少女は腰を抜かしてしまった。 (……ダークエルフが腰を抜かす光景などレア中のレアだが、残念ながらその希少性を理解出来る者はこの場にいない。羽場は怪訝そうに見るのみだ) 「……どうした?」 「あ、あああああ……」 「お、おい! いきなり頭を抱えてどうした!? これ以上、一体何があるっていうのだ!!」  少女の様子に羽場も蒼くなり、肩を掴んで何度も揺さぶった。  少女は、何処か虚ろな目で語り始めた。  100万リバーに含まれる銀の総量は、確かに約2000sである。  が、100万リバーと純銀2000sはイコールではない。通貨には含有されている貴金属の価値に加え、“通貨そのもの”に対する信用も上乗せされているからだ。  その価値は信用にもよるが、だいたい含まれる貴金属の3倍前後、多ければ4〜5倍といったところだろうか? まあ、“最低補償額(含有されている貴金属)付の国債”と考えた方が判り易いだろう。  ……尤も中央世界の経済規模はそれ以上で、もはや流通する全ての通貨の“貴金属の価値”どころか“信用を上乗せした価値”すらもはるかに超えていたのだが。 (このため手形等、様々な信用取引が日常的に行われていた。それ故、イルドーレは借金を焦げ付かせて“信用を失う”ことを恐れたのである)  故に100万リバーに匹敵する純銀量は、2000sでは到底足りない。8000s……いや、少なくとも10000sは必要だろう。  純銀10000sは純金に換算すれば650s前後、これがミニマムであることを考えれば、出来れば700s以上欲しいところだった。  ――この話を聞き、流石の羽場もへたりこんだ。  必要とする純金700sに対し、予算は150s以下……  今まで二重三重のミスを犯していたが、今度という今度は決定的だ。彼は“帝國”に莫大な損害を与えてしまったのである。  それは、愛國者である彼には耐え難い苦痛、余りに重すぎる十字架であった。  当然、その責任も。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【7】  未だ金本位制の呪縛から抜け出せないでいた当時、金(ゴールド)は現在の我々には実感できぬ程の価値と影響力を持っていた。  国家においては――  平時には通貨の安定(信用)を維持する最も重要な指標の一つとして、  有事には中立国から物資を調達する最後の手段として、  民においては――  平時には最も堅実かつ確実な貯蓄・投資法として、  有事にはその生活を保障する最も有効な“通貨”として、  気の遠くなる程長い間、機能してきたのである。(*1)  それ故、その信用はもはや信仰の域にまで達していた。  この近い将来、“帝國”が大内海沿岸で金銀の大量採掘に乗り出すまで、金はまさに“絶対の存在”だったのだ。(*2)  では、“帝國”における金の価値は一体どの程度だったのだろう?  昭和一八年当時、金は他の重要物資同様に政府の統制を受けており、その価格決定にも大蔵大臣の認可を必要としていた。  その額、4圓61銭/g。これ程の激動を経ているというのに、昭和一五年の改定額からピクリとも動いていない。自由価格では考えられぬ話――そもそも物価自体が当時と比べて二〜三割上昇しているのだ!――だった。  無論、これはあくまで政府に必要と認められた者が、認められた量を買う時に支払う価格であり、当然のことながら一般人がこの価格で手に入れることは不可能である。  故に、実勢価格(闇レート)は公定価格の数倍にもなっていた。  ――ということで、羽場が払う羽目になった金700kgも、公定価格ではなく実勢価格で示す必要があるだろう。  公定価格(4圓61銭/g)では、金700kgは322万7000圓。  実勢価格を仮に3倍とすれば、約1000万圓。  1000万圓とは大金も大金、目も眩むような大金である。  何せ、昭和18年度における都市勤労世帯の平均年収は2000圓強だから、5000世帯弱――実に“帝國”庶民20000人が1年間暮らせる額なのだ。 (ちなみに零戦が1機約8万圓、九七式中戦車が1両約16万圓、高い高いと言われた九〇式野砲が1門約20万圓)  この事実を考えれば、羽場が如何にとんでもないことをしたかが判るだろう。  その責任は重大だった。 ――――在イルドーレ王国“帝國”連絡事務所、所長室。  羽場は机に向かい、“手紙”を書いていた。  その手は震え、一体何度書き直したか判らない。  が、長い長い時間をかけ、ようやく一枚の手紙を書き上げた。  書き終えると机の引き出しを開け、愛銃であるコルト・ポケット1903を取り出した。  そして、ゆっくりとこめかみに当て……ようとしたが、手が極度に振るえ、位置を維持できない。  ガシャッ!  とうとう把持すらできなくなり、銃を取り落とす。  暫し必死に考えた後、銃を両手で持ち、口の中へと突っ込んだ。  そして何度も逡巡した後、引き金を引……こうとしたが、今度は指に力が入らない。  それでも指に力を入れようと、何とか試みる。意識を指先に集中した。  そして―― 「何をやっていらっしゃるのですか!?」  カチャリ  その声に驚き、思わず引き金を引いた。その瞬間、心臓が凍る。  ……が、何事も起こらない。まだ、生きている。  開放感の余り羽場は脱力し、床に這いつくばった。  ゼエ、ゼエ……  荒く、息をする。顔に血の気は無く、体全体が汗でびっしょりだ。 「嫌な予感がしましたので、申し訳ありませんが弾は抜いておきました。予備の弾丸も全部隠してあります」  羽場の背中を優しく擦りながら、少女は穏やかに自分の犯行を述べた。  が、次の瞬間、厳しい口調で諭す。 「あと残念ですが、あの角度では死ねませんよ。 ……まあ運が良ければ散々苦しんだ後死ねますが、十中八九残りの人生を“かたわ”で生きる羽目になります」 「あ……ああ…………」  聞いているのかいないのか、羽場は床に這い蹲ったまま呻く。  少女は軽く溜息を吐くと、持ってきた盆から湯のみを手にとり、羽場の口元に近づけた。 「さあ、お薬です。飲んで下さい」  30分後、羽場は眠りの国へと旅立った。  少女は羽場をベットに運ぶと、入ってきた時と同様に物音一つたてずに退出した。 「……ふう」  広間――といっても食堂と居間を兼ねたささやかなものだが――に戻ると、少女は大きな溜息を一つ吐いた。  実のところ、今回の件では彼女自身ももかなり参っていたのである。  奇妙な話、と言うほか無い。  彼女には何の関係も無い……どころか、今まで受けていた仕打ちを考えれば、むしろ喝采を上げても不思議ではないくらいなのだ。それが一緒に悩んでいる、とは!  ……同情、だろうか?  確かに羽場は大失敗を起こした、責任を問われることは避けられないだろう。  が、それで受ける罰といえば――  最も可能性が高いのが懲戒免職(いわゆる“馘首”)、  運悪く刑事罰を問われたとしても、執行猶予かせいぜい数年の懲役刑、  ――である、(責任の波及を恐れて)『なかったこと』にされる可能性すら否定できない。これが他国ならば『本人死罪の上、改易絶家』が相場、ということを考えれば、心配するのも馬鹿らしい話だった。 (事実、上の事実を知った時、少女は驚きを隠せなかった。同時に、『こんな信賞必罰を無視した人事制度で今までやってこれたのだから、“帝國”は余程結束が強いのだろう、大したものだ』と妙に感心したものだ)  が、羽場のしょぼくれ具合を見ていると、胸が痛んだ。何とかしてあげたかった。  驚くべきことに、彼女は本気で羽場のことを心配していたのである。  ……とはいえ、如何にせん話が大き過ぎた。 「……これが1万リバーなら、話は早いのですけどねえ」  1万リバー程度なら自分一人で“現地調達”できるのに、と少女は嘆息する。  が、現実は1万ではなく100万である、ハルダー中の富家を回ってもなお足りない額だ。王城の金蔵にもあるかどうかどうか…… 「ふう……」  再び嘆息。いけないとは思っているが、このところ溜息ばかりだ。 「ふう……」  三度嘆息。が、今度は少しばかり意味合いが違った。  やるべきか、それともやらざるべきか、迷っていたのである。  ……本当は、100万リバーを調達する策が無くも無いのだ。  が、迷っていた、躊躇していた。今の今まで他の手段を必死に模索していた。  何故ならば、その行為はありえざるべき“大罪”だったから。  しかし、しかし―― 「……仕方がありませんよね、どうせ私は“半端者”ですから」  時間は限られている、もはやこれ以上迷うことは許されない。  少女は覚悟を決めて立ち上がった。  羽場のため、そして“自分のため”に。  そう、これは自分のためでもあった。  仮にこの件が『なかったこと』とされても、羽場は左遷か依願退職となるだろう。要するに、『自分との縁が切れる』ということだ。  少女としては、それだけは何としても避けたかった。  ……驚くべきことに、少女はあれ程の虐待を受けて尚、羽場に愛情を抱いていたのだ。  どんな理由があるにせよ、まともな精神ではない。羽場同様……いや、それ以上に少女は“壊れて”いたのである。 ――――港、ゴード商会。  ゴード商会は、イルドーレ王国で最も力のある商会の一つである。  本業は海外交易だが、問屋や小売は無論、両替や質・金貸しといった金融業にまで手を広げているほど間口が広い。  ……そんな大商会の本店、その店先に一人の若者がぼんやりと腰を下ろしていた。 「はあ、つまらねえな……」  欠伸をしつつ、若者はごろりと横になる。  本来ならばとうに叩き出されているであろう行為だが、従業員達は見て見ぬ振りをしている。実に不思議なことだ。 「早く帰りてえ…… 来るんじゃなかった……」  もう一度欠伸をすると、若者は目を閉じた。  若者の名はジャン・フォンタック、自由都市フォルトーの大富豪フォンタック家(*3)の惣領である。  その才は一目置かれているものの、ご覧の通り無作法かつ怠け者。今回も父親の叱責から逃れるべく、イルドーレ訪問の任を(無理矢理)買って出た、という訳だ。  当然真面目に仕事をする気などさらさら無く、全て同行した者達に丸投げし、こうしてダラダラした毎日を送っている。  ……とはいえ、こんなド田舎ではやることがない。大陸大都市の洗練された遊びに慣れた彼にとり、この地での滞在は甚だ苦痛であった。 「……?」  自分を覗き込む影を感じ取り、ジャンは面倒臭そうに目を開ける。  と、一人の少女が自分を心配そうに覗き込んでいた。 「あの、ご気分が悪いのですか?」  鈴を転がすような、心地良い声。  小柄だが、年の頃17、8……といったところだろうか? 大陸でも十二分通用する、こんな田舎には勿体無い位の可愛い少女だ。何より田舎臭くなく、垢抜けているところが良い。  ジャンは慌てて立ち上がった。  そして、さり気なく手を握る。 「これはこれはお嬢さん、心配させてしまって申し訳ない。 ……そして有難う、お陰ですっかり良くなりましたよ」 「……はあ」  少女はごく自然に手を振り切る。  が、ジャンはめげない。 「ここでお会いできたのも何かの縁、どうです、お茶など一杯?」 「でも私、お仕事の途中ですので」 「ならばその後でも!」  久しぶりに出会った上玉を逃すまい、とジャンは必死に食い下がる。  その執拗さに手を焼いたのか、少女は話題を変えた。 「えっと、あなたはこのお店の関係者ですか?」 「はい、関係者です!」  正確に言えば客人だが、嘘も方便、とばかりにジャンは大きく頷いた。 「では、これを換金して頂きたいのですが」  少女はにっこり笑い、包みを渡した。 「えっと、質草?」 「いえ、両替です。御主人様の命で、換金に参りました」  御主人様…… 「……ちなみに、“御主人様”って男?」 「? お若い殿方ですが、何か?」 「いや……」  内心で彼女の“御主人様”とやらをサンドバックにしつつ、ジャンは包みを受け取った。  その言葉と包みの重さ、大きさから考えて金塊だろう、とあたりをつける。  少女を店内に招き入れると、ジャンは包みを抱えて奥に入った。 「主人、客を一人貰ったぞ! 後、計量部屋も借りる!」 「それは構いませぬが…… 一体、どうなされました?」  ジャンの言葉に、主人は不思議そうに尋ねる。  フォンタック商会とゴード商会では“竜と蟻”ほども規模が違う。加えてゴード商会はフォンタック商会の流通を借りて交易している、となれば『生殺与奪の権を握られている』といっても過言では無いだろう。  それ故か、孫ほども年が離れたジャン相手に、主人は丁重そのものだ。 「ここでの生活を薔薇色にするため、だ」 「……なるほど、がんばって下さいまし」  その言葉に暫し不思議そうな表情を浮かべていた主人であったが、店の者に耳打ちされるとニヤリと笑って頷いた。  …………  …………  ………… 「おいおいおい…… なんだよ、これは……」  半刻ほど後、ジャンは頭を抱えていた。  少女から預かった金塊の品位を調べていたのだが、何度測定してもトンでもない結果になるのだ。  測定不能。推定品位99.9%超、限りなく純金に近い超高品位――  ありえない、ありえるはずがなかった。  確かに金は銀と違い、純金に近い形で存在している場合が多い。  が、だからといってこれ程の高純度は存在し得ない。無論、それを可能とする精錬技術も。 「ドワーフ共なら、あるいは……」  が、確証はない。第一、やたらプライドの高い彼等がインゴットなどという“単純なもの”を売却することなど、考え難い。  ……これは知っているかどうかは判らぬが、少女に聞いてみる必要があるだろう。うん、手取り足取り教えてもらおう、そうしよう。逆でも可。 「謎の金塊を携えるミステリアスな少女! く〜〜っ、たまらないねえ!」  先ほどまでのシリアスさはどこへやら、ジャンはにやけた顔で部屋を後にする。  彼が置いていった謎の金塊には、燦然と輝くスリーダイヤが刻み込まれていた。 「やあやあ、お待たせ」 「あっ」  ジャンの顔を見て、少女はあからさまにホッとした顔をする。  今までの彼の苦労が実った……訳ではない。  少女が待たされていた部屋は、ゴード商会が上客中の上客をもてなすためのものだった。  無論、たかだか数枚の小金塊を換金に来た一見の客、それも使い走り風情が通される部屋では断じてない。ジャンの客、ということで主人が気を利かせた、というのが真相だ。  が、少女にとっては実に有難迷惑な話であり、居心地が悪くて仕方が無かったことだろう。彼女が一刻も早く用を済ませて帰りたがっているであろうことは、想像に難くなかった。 「いや、ごめん。鑑定までもう少し、時間がかかりそうなんだよ」 「……そうですか」  少女は露骨にがっかりした表情を浮べ、腰を下ろす。  ……そんな少女の様子に付け込み、ジャンは右手でテーブル中央の大皿に盛られた林檎を取り、手渡しつつ左手で彼女の肩に手を回す。 「ははは。まあ終るまで、自分の部屋だと思って寛いでよ」 「…………」  メキョッ! 「……うぞ」  信じ難い光景を前に、ジャンは目を点にした。  少女は左手で林檎を受け取ると、いとも簡単に握り潰したのだ!  ……確かに力自慢の男共がやるのは何度か目にしたことはある。  が、こんな小柄な少女が、しかも何の前動作も無く、というのは……  ――うん、きっとあの林檎は腐ってたのさ!そうに違いない!  そんなことが有り得る筈もない――仮にも王国有数の商会の貴賓室だ――が、ジャンは必死で自分にそう言い聞かせる。  が、しかし―― 「手、どけていただけますか?」 「は……はははは…………はい」  いい笑顔を浮べつつも額に青筋を浮べる少女の言葉に、ジャンは大人しく従った。  …………  …………  ………… 「申し訳ないが、お嬢さんが持ってきた金の品位を正確に測定することはできなかった」 「そう、ですか……」 「が、限りなく純金に近いことは間違いない。レムリア・フロル金貨で4倍……いや、3倍でどうだろう?」  そう言うと、ジャンは指を3本たてる。  以前にも書いたが、この世界の金銀貨は含有する貴金属の3倍前後の価値がある。数ある貨幣の中でも最高峰のレムリア貨幣ともなれば、5倍にもなるのだ。  そのレムリア・フロル金貨を3倍、つまり金3/16オース(約6g)あたり1フロル(金含有量1/16オース)で交換する、と言っているのである。  少女が持参した金塊は100匁板4枚(1500g)だから、250フロルとなる計算だ。 「手数料はお幾らでしょう?」 「金塊を金貨に変えるだけだから、1/200」  つまり1と1/4フロル、ということだ。 「……随分、気前が良いですね」  換金レートもそうだが、1/200というのは『金貨を銅貨に変えた場合』に適用される最も安い手数料だ。  少女は不審の声を上げた。 「勿論、条件がある。これは慈善じゃあなくて商売だからね」 「条件?」  少女はもしや、と身構える。  それを見て、ジャンは慌てて手を振った。 「や、そっちじゃあない。まあ僕としてはそっちの方が……ってごめん、冗談だよ冗談!? 『あの金塊の出所を教えて欲しい』ってこと!」 「? あれは、御主人様からお預かりしたものですが?」 「そうじゃなくてね…… あの金塊を何処で手に入れたかってこと、その情報代込みの値段だよ」 「情報、ですか?」 「知らないなら、君の御主人様に聞いてきて欲しい」 「知ってますよ」 「そうか!」 「……けど、そう簡単に教えては、御主人様に叱られてしまいます」  どうやら少女は“御主人様”に褒めて貰おうと必死なようで、更なる上積みを要求する。  ……個人的にはかなりしゃくだったが、ジャンは要求に応じることとした。 「じゃあ、更に手数料なしとしよう」 「情報って、お金になるんですねー」  少女は感心した様に呟いた。  その様子から納得したと判断し、ジャンはもったいぶった口調で教えてやる。 「ああ、商人にとって情報は命だからね。重要な情報を得るために、時には目玉が飛び出るほどの大金が飛び交うことがある」 「100万リバー、とか?」 「はははっ、そりゃあ凄い! けどそこまでいくと、ちょっとやそっとの情報じゃあないな。それこそ最低でも『この北東ガルムがどうこう〜』ってレベルだよ、夢物語さ!  ……けど、一度はそんな情報に巡り合ってみたいものだね」  100万リバーは、俗に“物凄い大金”として用いられる。故にジャンはその類、と考え軽口で応じた。  ……が、その言葉を口にしたとたん、少女の様子が変わった。醸し出す雰囲気が一変した。 「――では、情報を100万リバーで買ってください」 「!? き、君……は一体……」  ジャンの額から、一筋の汗が流れ落ちる。  もし自分の考えが、いや目が正しければ、この少女は―― 「ダーク、エルフ……」  バチッ!  首に下げていた護身用の呪具が、一瞬で砕け散った。  ……並々ならぬ魔力。これ程の力は、一流と言われる魔導師達ですら持っていないだろう。もはや疑いようがなかった。  が、しかし―― 「君達は、雲隠れした筈では?」  湧き上がる恐怖を必死で抑えつつ、ジャンは尋ねる。 「私達自身は、逃げたつもりなどさらさらありませんよ? ある国に全世界の一族をあげて、臣従しただけです」 「……契約中の、全ての仕事を放り出して?」 「ええ」  少女はあっさりと首肯するが、それは並々ならぬ話だった。  “あの”ダークエルフが、全てを放り投げて……それも臣従するとは! 「その国の名は?」 「“帝國”」 「!?」 「これ以上の質問には答えません、後は自分でお考えなさい」  もう十分ヒントは与えたでしょう?と目の前のダークエルフは笑う。  ……ジャンは、今の今まで自分がこの女の手のひらで踊らされていたことに気付き、胸の奥に熱いものを感じた。  こいつは、端から自分を目当てに近づいてきたのだ! (煩わしさを避けるために身分を偽って入国したのだが、そんなものは連中からすれば子供騙しに過ぎないのだろう)  が、確かにその情報にはとてつもない価値があった。  フォンタック家は、“帝國”に対する評価を全面的に見直さねばならなくなるだろう。(*4)  そして、彼等がイルドーレ如き小国を煽てあげている意味も。  ジャンが自分の言葉の意味と重みを理解したのを見て取ると、ダークエルフの少女は鈴を転がす様な心地良い響きで尋ねた。 「100万リバー、いただけますか?」 「……ああ、実にしゃくだが、確かにそれだけの価値はあった」 「よかった! 本当は心配してたのですよ? これって、もしかして“恐喝”なんじゃないかなって。 ……あ、あの金塊は護符を壊しちゃったお詫びに置いていきますね?」  ――畜生、何言ってやがる!  そう思いつつも、ジャンにはどうしても聞かねばならぬことがあった。  意を決し、口を開く。 「最後に一つだけ聞きたいことがある。 ……なに、情報とは直接関係ないことだ」 「なんですか?」  ダークエルフは小首を傾げる。可愛いのが一層、ジャンのしゃくに障った。 「何故、俺に話した? まさか、本当に100万リバー稼ぐためでもあるまい?」 「先ほども言いましたでしょう? お金を稼がないと、御主人様に叱られてしまうのですよ。稼ぎが悪いと鞭で打たれるのです」  ……成程。言う気はない、ということか。最初から最後まで、舐められっ放しだ。  少女の言葉は『当たらずも遠からず』だったが、そんなことをジャンが知る由も無い。  彼の口元が、自嘲気味に歪んだ。 *1 ――――『気の遠くなる程長い間、機能してきたのである。』――――  転移前、“帝國”が608tもの金塊と引き換えに米国より軍事物資を調達(昭和一二〜一六年)したことは有名であるし、友邦ドイツもやはり中立国との取引で金(ゴールド)決済を行っていた。この様に世界大戦の最中ですら、金はその価値を維持し続けて――それどころか大きく上昇すらしていた!――いたのである。  これはアルフェイムにおいても同様で、ことに中央世界の中小諸国では普段金貨になど縁の無いような貧しい民ですら金貨――それが無理なら銀貨――の貯蓄に努めた。これは彼等が戦争を初めとする災害に遭う可能性が高く、そしてその場合、属する国家はまずあてにならないからである。何時いかなる状況でも決済手段となりうる金貨のみが唯一、彼等の生活を保証すると考えられていたのだ。(ちなみにより過酷な筈の辺境では、民に金貨を貯蓄する経済力がないせいか、このような習慣は一般的でない) *2 ――――『この近い将来、“帝國”が大内海沿岸で金銀の大量採掘に乗り出すまで、金はまさに“絶対の存在”だったのだ。』――――  以前にも述べた様に、“帝國”が鉱山開発に本格的に乗り出すと大量の金銀がアルフェイム世界に流れ込み、貨幣の価値が一気に半減する程の大暴落が起こった。しかもこれは一過性のものではなく、その後もジリジリと下がり続け、深刻なインフレを発生させた。金神話の崩壊である。 (とはいえ絶対的な地位こそ失ったものの、金はその後も依然として重要な地位を保ち続け、現在に至っている) *3 ――――『自由都市フォルトーの大富豪フォンタック家』――――  自由都市フォルトー有数の、大陸同盟でもその名を知られた大富豪一族。一族が運営するフォンタック商会は海運を中心としたあらゆる分野に進出しており、総資産2億リバー超を誇る。 *4 ――――『フォンタック家は、“帝國”に対する評価を全面的に見直さねばならなくなるだろう。』――――  この時期、既に“帝國”は大内海沿岸全域をほぼ手中に収めていた。  ――にも関わらず、その知名度は中央世界はおろか、お膝元である筈の大内海沿岸ですら『今ひとつ』といった具合だった。  この原因は、幾つも挙げられる。中央世界の辺境に対する無関心さ、辺境における広域通信網の未発達ぶり、帝國の外交的不手際等々……  が、何といっても筆頭に挙げられるのは、その統治法故、ということだろう。  ご存知のとおり、大内海沿岸における“帝國”直轄領は極めて小さく、間接統治を基本としている。加えて現地政権に対する縛りも殆ど無く『君臨すれども統治せず』といった具合だ。  これは低コストで広大な大陸を支配できる唯一の方法だったが、『多くの場合、上層部のみしか“帝國”を意識していない』という弊害も同時に現れた。平民はおろか、中央の中下級役人……地方では上級役人ですら“帝國”を意識していないのである。そして意識している者でさえ『他文明圏を“帝國”が支配している』と知っている者は少なく、知っていてもせいぜい『近隣文明圏も支配されている』といった程度の認識でしかない。(中央世界とは異なり、辺境では“己の属する文明圏”或いはせいぜい“近隣文明圏”こそが『世界の全て』だった)  ……そんな彼等に『大内海の統一』などと誇っても、白髪三千丈としか見られなかったのである。  これを解決できるのは唯一、時間のみであろう。“帝國”は、余りに急速に手を広げすぎたのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【8】  夜もだいぶ深けた頃、少女は独り屋敷近くの小さな森を歩いていた。  ホー、ホー  何処かで、梟が鳴いていた。  空には満月が輝いていたが、森の中は木々の間から洩れる月光のみで、辺りは深い闇に包まれている。  が、ランプ一つ持っていないにも関わらず、少女はしっかりとした足取りで獣道を歩く。  ガサ、ガサガサ  静寂な、それも深い闇の中では、音はより大きく聞こえるものなのだろうか。木々が風で揺れる音が、やけに大きく聞こえる。  ……そういえば今気付いたのだが、少女は『まったく足音を立てていない』。  土を、枯れ木や落ち葉を踏む音を、幾ら耳を澄ませても聞くことができないのだ。  聞こえてくるのは、ただ風の音とそれに揺れる木々の音、それに梟の鳴き声のみだった。  と、突然少女が立ち止まった。  同時に周囲の空気が一変する。  そして、何処からともなく地を這うような声が響いてきた。 『……遅かったではないか』 「申し訳ありません」  そう頭を下げつつも、少女は必死で周囲の気配を探る。  が、幾らやっても声の主が潜む場所を探り出すことは適わない。  ……それどころか、相手が何人潜んでいるかすら判らなかった。  ――五…六人……いえ、それ以上?  そんな自分の直感に、少女は首を振る。  ただでさえ人員不足に悩む現在、こんな優先度の低い地域に、第一線級の人員を複数投入する余裕などある筈も無い。自分達が……何より自分が投入されたのがその証拠、監視役はこの島に一人しかいない筈だ。  故に、この場に潜むのは一人。  が、彼女のあらゆる感覚は、本能はその判断を否定する。少女は格の違いを改めて思い知らされた。  ――いったい、何用だろうか?  定時連絡ではない突然の呼び出しに、少女は内心動揺を抑えきれない。  もしや……もしや、“露見”したのだろうか?  いやそんな筈は無い、と少女は必死に自分に言い聞かせる。  たった一人で個人個人を常時監視することなど、如何に手練れとはいえ不可能な話だ、今回も何か他の用事に違いない。だから、不審を買う様な態度は極力避けねば―― 『何か、言う事はあるか?』 「特に何も? 月は東に日は西に、犬が西向きゃ尾は東、なべて世はこともなし、です。  ――そう“筑摩”の姫様にお伝え下さい」  内心の動揺を抑えつつ、少女はいつもの口調で報告する。 『茶化すな』 「ですが、姫様はこの様な物言いを好まれます」 『……あの方なら、もう“筑摩”にはおられん』  “影”は、どこか苦々しげな口調で答えた。 「と、言いますと?」 『用がお済になったのか、はたまた単に飽きられたのか、お帰りになったわ。 ……ご自分が強引に入り込んだというのに、まったく困ったものよ。まるで猫のように気紛れなお方だ』  それどころかあの姫様は、自分が離任するに当たって配下の者達に『後は任せた』と伝える様に“影”に命じたのである。それ故の非常呼集だった。  ……まったく最後まで型破りなお人である。  が、これで例の件が露見していない――少なくとも現在は――ということが判った。少女にとっては姫様さまさま、弾む心を抑えて質問を重ねる。 「では、後任は?」 『お前の知るべきことではない』 「……そうですね」  確かに“影”の言う通りだ、と少女は頷いた。  人手不足のため末端にもある程度の裁量が必要なこと、そして何より姫様の気紛れにより与えられているが、本来自分がこの様な情報を知っていること自体が異常なのである。故に原因の大元の一つである姫様が去られた以上、与えられる情報が大きく制限されるのは言わば当然の成り行きだった。 「わかりました。では、ご用はそれだけですね?」 『……いや、もう一つある。むしろ“できた”と言うべきか』 「何でしょう?」  “影”の言葉に、少女は内心で身構える。 『――が、デヴルー侯爵に討たれた。あの馬鹿者、よりによって魔術合戦で後れをとったらしい』 「え? 人間に、一対一で負けた!?」  信じられない、と少女は内心で叫ぶ。  確かに彼はお世辞にも優秀とは言えなかった。魔術、武術、隠形術……全ての分野で水準を下回り、“二線級以下”というのが正直なところだろう。が、外見こそよく似ているものの、人間とダークエルフでは虎と猫程の違いがある。虎が猫に負けないように、如何に無能でもダークエルフが人間に敗れることなど有り得ないのだ。(*1)  無論、人間は猫ではない。戦うとなれば武器を持ち、組織だってやって来る。そうなれば如何なダークエルフといえども敵わない、そして何より数が違い過ぎる。だからこそダークエルフは人間の風下に甘んじ、苦汁を舐めてきたのである、あるのだが……一対一で敗れるとは、一体何があったのだろうか? 『人間如きと慢心していたか、はたまた別のことに気をとられていたか――何れにせよ、だから奴は何時までたっても見習いだったのよ。最も大切な"平常心”も保てぬのだからな』  この様な無能共を投入せねばならぬこと、それ以上にそれを監督せねばならぬ己を嘆いているのだろうか?“姫様”の時以上の苦々しげな声で、“影”は吐き捨てる。  が、少女にとっては素晴らしくいい知らせと言えた。彼の死により空いた空白は、“影”が埋めているに違いない。ならば、監視の目は更に緩くなっている筈だ。ならば―― 『お前も、ゆめゆめ油断はするなよ。無論、“出すぎた真似”も許さん』 「わかりました」  少女は涌き上がる安堵と喜びを抑えつつ、頭を下げた。 ――――在イルドーレ王国“帝國”連絡事務所。  翌朝帰宅した羽場は、昨日までとは打って変わって満面の笑みを浮べていた。  そして、如何にも自慢気に証文を掲げる。 「ははは、どうだ!」 「おめでとうございます!」  少女はにっこり笑い、頭を下げる。  ボカッ!  ……その上に、羽場の拳が振り下ろされた。  堪らず、少女は頭を抱えて蹲る。 「い…痛い……」 「まったく! お前の言葉を真剣に聞いて損をしたではないか!」  ボカッ!  再び拳が振り下ろされる。  少女は体を丸くしされるがまま、羽場の暴力を無抵抗で受け入れた。 「も、申し訳ありません……お許しを……」 「いいや、許さん! 来い!」  少女は髪を引きづられ、羽場の部屋へと連行される。  数日ぶりの“おしおき”が始まった。  …………  …………  …………  実のところ、少女は羽場の“おしおき”が嫌いではなかった。むしろ、“好んでいた”と言ってよい。  何故なら、それは温もりを感じる瞬間だったから。  それは、愛情を感じる瞬間だったから。  何より、自分が必要とされている瞬間だったから。  長い間孤独だった彼女にとり、歪んだものとはいえ羽場が少女に向けるそれは、蕩けるほどに心地良いものだったのである。  少女は、自分の両親が誰なのかを知らない。  が、おそらく何か大罪を犯した犯罪者なのだろう、とは自分の待遇から想像がついた。  半ば監禁同様の生活を送る――それが物心ついた時からの、少女の生活だったのだから。  当然、自分が任務を賜るなんて想像すらしていなかった。  だから、任務を賜わった時には心底驚いたものだ。  ……が、任務先での生活は、それ以上に驚きの連続だった。  今まで空気の様に――教育役も自由行動時に偶に外で会う人々も完全な無視を決め込んでいた――扱われてきた少女にとり、特定人物との濃密な交流は、頭がクラクラする程衝撃的なものだった。  特に初めて羽場の“行為”を受け入れた時など、そのあまりの“濃密な感情”と“温もり”に本気で失神してしまったものである。  が、肉欲のためとはいえ抱きしめられ、歪んでいるとはいえ強い愛情をぶつけられる――この行為に、やがて少女は溺れていった。  今の少女は、この温もりを守るためならば何でもするだろう。彼女の精神は、羽場によって完全に壊されていたのである。 「ああ、お前に言っておかねばならんことがあった」  行為後、羽場は煙草を吹かせながら思いだした様に呟く。  それを聞き、羽場の腕の中でまるで胎児の様に丸くなっていた少女は、その胸に顔を埋めながら甘えるように訊ねた。 「何でしょうか?」 「実は今度、女を一人買うことにした」 「……え?」  呆然と……本当に呆然とした表情で、少女は顔を上げる。  が、羽場はそんな少女の様子に気付かない。顔も見ずに言葉を続ける。 「いや何、これでお前も雑用をしないで済む様になるぞ。ああ、夜の相手も半分……いや2/3くらいに減るだろうな」  だからその分公務に専念しろ、と羽場。  が、それを聞いているのかいないのか、少女はポツリと訊ねた。 「あの、どのような方でしょう?」 「ああ、年は二十、長い真っ直ぐな黒髪に黒い目の大柄な女だ。少々気が強そうで、“教育”のしがいもあるな」  ……少女は、髪こそ長いもののややウエーブのかかった金髪、眼も碧眼だった。小柄で性格も従順といって良い。 「そう……ですか…………」  それっきり、少女は沈黙した。  羽場が買う筈だった女が、心臓の発作で急死したのは、それから僅か二日後のことだった。 ――――“帝國”領昭北諸島本島(昭北島)沖、一等巡洋艦“筑摩”。  ……吉田が羽場の“行為”を知ったのは、実に仮調印が終ってからのことだった。  それも帝都経由で知らされたのだから堪らない、面目丸潰れである。この頭越しの行為に吉田の怒りは爆発した。 「あの大馬鹿野郎!」  罵声と共に、吉田はテーブル上の灰皿を床に叩きつける。  ガッシャーン!  欧州製の硝子灰皿が、甲高い音を上げて砕け散った。  が、この程度では到底怒りは収まらなず、手にしたステッキで辺りを殴りつける。棚の硝子戸は無論、中に保管してあるウイスキーやワインの瓶、グラスが次々と破壊されていき、たちまち絨毯の上には水(酒)溜りと無数の硝子片が散らばっていく。  これ程までに吉田が怒り狂うのは、若造如きに舐められたから……ではない、いや無論それもあるだろうが、それ以上に深刻な問題を内包していたからである。  大使を無視して現地の一外交官が勝手に条約を結ぶ――これは極めて重大な越権行為であり、かつ外交秩序を根底から揺るがす行為に等しい。この様な真似をされては外交が成り立たず、今後のことを考えれば厳罰に処すべきであった。 ……もしもこれが、一外交官の暴走だけの話であるのなら。  が、現実は更に深刻だった。信じ難いことに、この件には本省高官も複数噛んでいる、というのである。  これは外務省内部で深刻なモラルハザードが起きている証拠であった。(なまじかつての栄耀栄華を知るだけに落胆も大きいのだろうか? 何れにせよ僅か一年半足らずの、だが先の見えぬ冷や飯生活により省内がガタガタになっている、ということを痛感せざるを得ない事件だ)  と同時に、もしもこの問題を追求するとすれば羽場本人は無論、関係した非主流派の本省高官達……そして主流派の代表格である吉田自身の責任問題に発展することをも意味していた。下手に追求すれば、責任の所在を巡り外務省は真っ二つに割れかねない、そして今この状況で割れることは自殺行為にも等しかった。  ……故に、長老連が仲介に入ったのだ。この件は有耶無耶にしろ、と。羽場の行為を伝えた“帝都”からの連絡は、その長老達からのものだった。  流石の吉田も大先輩達に『外務省のため』と拝み伏せられては、矛を収めるしかなかった。そのやり場のない怒りを、先の行為で発散していたのである。  ズー  そんな狂乱を気にも留めず、ソファには白髪豊かな老いたダークエルフが“帝國”茶を啜っていた。  そして吉田が息切れしたところを見計らい、口を開く。 「気は、すみましたかな?」 「済むはずがないだろう」  憤懣やるかたなし、といった口調で答える吉田。  条約を結ぶ過程が問題なら、条約そのものも問題だった。  今回買い取った島々は、確かに拠点として最適の位置にある。  が、だからこそ中央世界進出派は勢いづくだろう。  それこそ彼等が拙速な行動に出かねない、“危険な玩具”と言えた。  ……要するに、羽場は二重に『やってくれた』のである。怒って済む問題ではないが、怒らずにはいられなかった。 (実際は更に問題を起こしていたのだが、この時の吉田には知る由も無い) 「が、あの大馬鹿野郎は小役人だ。 ……いや、『だった』というべきか」  そう言うと、ギロリ、と老ダークエルフを睨み付ける。  吉田が見るところ、羽場は『下には強く上には弱い』という典型的な小役人だった。加えて全くの無能、という訳でもない。  だから、とても思えないのだ。こんな大それたことをしでかす男には。 「ほう?」 「あいつに付けられた助手は、女だそうだな?」 「……仕方がありませぬよ。何しろ現在の我々は始まって以来の人手不足、女も動員しなければやっていけません。そうなると必然的に後方任務には女が回される、という訳です」  何しろ女一人が産める数など限られていますが、男は一人でも何十人と孕ませられますからなあ、と首を振る老ダークエルフ。  が、吉田は厳しい顔つきを変えようとしない。 「今までお前達は我々(“帝國”人)を誑し込んでも、政策には介入してこなかった。だからその行為にも目を瞑っていた。  が、此度の一件……返答次第によっては、俺も腹を決めるぞ」 「……閣下は、何か勘違いしていらっしゃる」  吉田の本気の怒りを読み取り、老ダークエルフも真剣な口調で応える。 「今回の件では私は……いや、“我々”は彼女に何の指示も下していません。“我々”が与えた命令はただ一つ、『しっかりと仕えよ』これだけです」 「その言葉に、嘘偽りはないな?」 「勿論」  暫し、緊迫した空気が流れる。 「ならば、今回は退こう。が、納得した訳ではないからな」 「ありがとうございます、この件に関しては我々の方でも調査しましょう」  吉田は鼻で哂った。  ――参ったな、本気で怒っておられる。  吉田の様子に、老ダークエルフは内心、大きな溜息を吐いた。  ……そもそも彼自身、あの少女を送り込むのに反対だったのだ。  何をしでかすか想像もつかない――彼はそう強硬に主張したが、あの“姫君”に押し切られてしまった。せめて監視は密にしようと考えたが、それも彼女が割って入って潰された。その結果がこのざまだ。  彼には、おおよその見当(あらまし)がついていた。  少女を支配したことにより、気が大きくなった異常性癖の小役人  初めての男、初めての幸福に舞い上がっていた世間知らずの孤独な少女  この両者の相乗効果により、今回の事件は引き起こされたのだろう。  男のために女は浅知恵を持ち出し、のぼせ上がった男は深く考えずに実行した――考えるだに馬鹿馬鹿しい話だ。  ――まったく、姫様は何を考えておられるのか、こうなることくらい判っていただろうに……  老ダークエルフには、彼女の考えがさっぱり判らなかった。  吉田の危惧は、直ぐに現実のものとなった。ピグニス諸島の編入を睨み、海軍が北方方面艦隊が新設したのである。  同艦隊は昭北諸島以北の海域及び沿岸地域での作戦を担当する、(その規模は兎も角として)連合艦隊と同格の組織だ。加えてその司令長官は全権大使たる吉田とも“同格”とされ、制限付きとはいえ独自の外交判断すら容認されている。 ……おまけに初代長官は及川古志郎海軍大将。いわずと知れた海軍右派であり、かつ外務省に非好意的で有名な人物だった。  ちなみに海軍右派とは、具体的にはかつて“艦隊派”とされた面々を中心とした勢力である。彼等は現在の海軍整備計画(*2)に対する強い不満を持っている、という点で共通していた。 『このままでは英米に大きな差をつけられる! 対抗できなくなってしまう!!』  それ故に、彼等は戦争を望んでいた。かつて日支事変により軍事予算の制約が取り払われた様に、その再現を狙っていたのである。  彼等が望むは“海軍を主役とした戦争”。好きな時に好きな場所で始め、好きな時に望んだ結果で終らせられる、戦争をコントロール出来る、という自信がある故の望みであった。  ――とはいえ、彼等は決して一枚岩ではない。その実態はただ艦隊増強の点で一致しているだけの、同床異夢の集団に過ぎない。  その良い証拠が、今回の“北方方面艦隊の新設”だ。同艦隊の新設により、結果として連合艦隊は蚊帳の外に置かれることとなった。権限と武功を立てる機会を奪われたのである、さぞかし怒り心頭であろう。右派が両艦隊に存在することを考えれば、とてもではないが“一枚岩”などと言えないことが判る。(蛇足だが“武功を立てる機会”といえば、北方方面艦隊司令長官職は『元帥位を得るに最適』とも見做されており、この椅子を巡って一悶着も二悶着もあった様だ。嘘か真かは判らぬが『司令長官職を巡って海軍大将同士が殴り合いを演じた』という噂が立つ程だから、頭が痛い)  意外なことに、この海軍の状況とは真逆に、陸軍の反応は冷淡を通り越して全くの無関心だった。大内海沿岸地域だけで『お腹いっぱいご馳走様』な彼等にとり、中央世界進出など何ら食指の動くものではなかったのである。(*3)  転移後、陸軍と海軍の立場は完全に入れ替わっていたのだ。  ……まあ何れにせよ、吉田が実に難しい立場に立たされていることに、変わりは無かったが。 *1 ――――『(中略)虎が猫に負けないように、如何に無能でもダークエルフが人間に敗れることなど有り得ないのだ。』――――  魔力はもとより肉体的能力、そして知力すらもダークエルフと人間とでは圧倒的な差があった。が、にも関わらず、ダークエルフは人間の風下に甘んじてきた。  人間はその圧倒的な“数の優位”とそれを極限まで活かした組織力で世界中にその勢力を広げ、貪欲なまでの向上心と他種族では思いつきもしない発想で高度な文明を築き上げ、事実上世界の覇者となっていたのである。 *2 ――――『現在の海軍整備計画』――――  転移以来、“帝國”海軍は巡洋艦以上の大型戦闘艦の新規建造を凍結していた。また転移時に計画・建艦中だった艦についても多くが白紙或いは解体されていた。  具体的には――  戦艦は竣工間近の“武蔵”を除き解体、他の全ての建造計画を凍結。  航空母艦は全ての建造計画を凍結、増勢は短期間で達成できる商船からの改装で賄う。  巡洋艦は緊急を要する“大淀”及び“阿賀野”型4隻のみを建造とし、それ以外は凍結する。  ――こととされた。これにより建造される(予定の)大型艦は以下の通り。  戦艦:“武蔵”  航空母艦:“隼鷹”“飛鷹”“祥鳳”“龍鳳”“大鷹”“雲鷹”“冲鷹”“瑞鷹”“祥鷹”“神鷹”“海鷹”“天鷹”  巡洋艦:“大淀”“阿賀野”“能代”“矢矧(建造中)”“酒匂(建造中)” (ただし航空母艦は全艦商船からの改装)  転移以降、“帝國”海軍が建造した或いはしつつあるフネの大半は1000tに満たぬ小型特務艦船――それも漁船形式の――だったのである。これでは英米に対抗することは絶望的だった。 *3 ――――『この海軍の状況とは真逆に(省略)中央世界進出など何ら食指の動くものではなかったのである。』――――  ……だからといって、陸軍が道義的に海軍よりも優れていた訳ではない。彼等が無関心だったのは「海軍ほどには軍縮に危機感を抱いていなかった」「動かそうにも動かす兵が無かった」こともあるが、それ以上に「大内海沿岸で膨大な権益を手に入れていた」からであろう。その分配と消化に忙しい彼等にとり、中央世界進出など画餅に過ぎなかったのである。(逆に見れば「大内海での権益に乏しい海軍が、権益を求めて打って出た」という見方もある) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【9】 ――――イルドーレ王国、王城。  いつもの様に昼過ぎに起きた王は、やはりいつものように朝食と昼食を兼ねた軽食を摂っていた。  メニューは蜂蜜漬の果物にビスケット――全て大陸から取り寄せたものばかりだ。王は侍女の膝枕の上で、気だるそうに果物片を乗せたビスケットを口に入れ、よく冷えたワインで喉の奥へと流し込む。  と、突然喉を押さえ、苦しみ出した。 「ぐ、ぐふっ!」  大量の吐血により、床が朱に染まる。  侍女は慌てて人を呼ぶが、手遅れだった。  典医が駆けつけた時には王は喉を掻き毟り、凄まじい形相で事切れていた。 ――――デヴルー侯爵邸。  現デヴルー侯爵エドゥ・デヴルー・デ・ソリア(当時はエドゥ・デヴルー)は、前デヴルー侯爵エリアス・デヴルー・デ・ソリアとその“孫娘”アマイア・デヴルーとの間に生を受けた。  祖父と孫娘――人間は元より、およそ知性のあるアルフェイムの全種族において禁忌とされる婚姻である。が、これはかつて、人間の魔導師間で広く行われてきたことだった。  よく誤解されることだが、魔力というものは特別なものではなく、アルフェイム世界に生きとし生けるもの全てが持つものである。  が、『魔力を持つ』ことと『魔法・魔術が使える』こととはイコールではない。一定以上の魔力が無ければ、魔法・魔術は発動しないからだ。故にこの“一定以上の魔力を持つ者”を人間は“魔導師”と呼び、古来から重んじてきた。  ……とはいえ、この魔導師という存在は、自然界におよそ『5〜7万人に1人』しか存在しない。このため、歴代の為政者達は人工的に魔導師を増やすことに努めてきた。  具体的には魔導師或いはそれに準ずる魔力を持つ者、そしてその近親者達――彼等彼女等を保護・優遇すると共に内部での婚姻を強制し、組織的な近親婚で血を濃縮させたのである。様々な弊害をもたらしたもののこの政策は功を奏し、現在の中央世界では『1万家族あたり魔導師1家族、それに準ずる者(魔導士)数家族』と言われる程に増加(ただし頭打ち状態)していた。加えて国の規模は大きくなり、他国との交流も密となっている。故に、辺境は知らぬが中央世界では魔導師(士)間でも近親婚は過去のものとなり、いつしかタブーと見做される様になっていた。  が、大陸から遠く離れた小国のイルドーレでは、未だに近親婚が健在だった。『魔導師5家、それに準ずる家(魔導士)20家』と小規模の上に他国の魔導師(士)との婚姻も望めぬ以上、それは止むを得ない選択だったのである。故に現在でも従兄妹・従姉弟どころか“叔父と姪”“叔母と甥”の婚姻が義務とされ、“祖父と孫”“父と娘”――或いはその逆――すら頻繁に行われていた。必然的に血は極限まで濃縮され、同時に濁っていく。現デヴルー侯爵エドゥ・デヴルー・デ・ソリアは、その正と負の側面が如実に現れた悲劇的な例だった、といえよう。  強大な魔力と重度の肉体的障害を併せ持ったエドゥは、だが幸か不幸か知能は並以上だった。父デヴルー侯爵は息子を人目のつかぬ王都郊外の別邸に隠し、『お前には魔道こそ全て』と幼少から苛烈なまでに魔道を叩き込んだ、と伝えられている。(その体に魔石すら埋め込んだ、というのだから常軌を逸している!)  が、不幸とまでは言い切れなかった。この時期のエドゥは、両親の愛を確信していたからである。 ……弟エドゥアルドが誕生するまでは。  弟の誕生以降、両親の対応は目に見えて変化した。  まず、別邸を訪れる回数が減った。次に、あれほど熱心だった魔道教育も影を潜めた。それでも魔道に血道を上げる彼に、久しぶりに……本当に久しぶりに訪れた父はこう言った『家はエドゥアルドに継がす。もう魔道を学ばずとも良い、お前はここで自由に生きろ』と。 ……それは、魔道こそが全てだったエドゥへの全否定だった。  エドゥは、自分が『切り捨てられた』ことを、今までの愛情が全て『跡取りが自分しかいなかった故の止むを得ない選択』だったことを思い知らされた。  彼の世界が、音をたてて崩れた瞬間だった。  ……それから間もなく、両親と弟が相次いで死去、エドゥ・デヴルーはデヴルー侯爵家を継いでエドゥ・デヴルー・デ・ソリアとなった。  世間の人々は、誰もが『デヴルー侯は両親と弟を呪い殺した』と噂したという。 『……夢、か。未だ引きづるとは、我も女々しいものよ』  ……いつの間にやら眠っていたらしい。デヴルー侯は自嘲気味に哂った。  “あの時”以来、彼は狂気の虜となっていた。自分が憎む全てを破滅に導くことこそが、生きる目的と化していたのである。  その究極の目標は、この様な忌まわしい体となった元凶、永遠の近親婚を強制するイルドーレ王国。王国の滅亡が彼の最終的な望みだった。  が、小なりとはいえ国相手では如何ともし難い。  彼個人の魔力が如何に人間離れしていようが、国家が持つ軍事力には対抗できない。  兵を挙げようにも彼の所領は10ヵ村2000人と、(他を圧しているものの)1町300余ヵ村70000人の国家からみれば微々たるものだ。(*1)  王国三大臣の一人とはいえ(この様な身であるため)他の重臣との積極的な交流が望めぬ。である以上、恐れられてはいてもその権力は限られている。  確かに彼の力で王の一人や二人、貴族の十人や二十人、士の百人や二百人、民の千人や二千人を殺すことはできよう。が、それでも王国は続くだろう。 ……だめなのだ、それでは。  彼の望むは“完全なる滅亡”。『王統は絶え、貴族士族はその富と地位と名誉を剥奪され、平民共は地を這い蹲る』――そうでなければならぬのだ。  それ故に、今まで王国の屋台骨が傾くのを黙って見てきた、影で手を貸してきた。その甲斐もあり、士族は困窮し平民は飢えている。が、まだだ、まだ足りない。第一、貴族共は未だ富んでいるではないか!  そう考えた瞬間、デヴルー侯の魔力が爆発的に膨れ上がった。憎悪でその身が焼かれる。  が、狂っていながらも彼はなお、冷静だった。その精神力を総動員し、怒りを押さえつける。 『あと少し、あと少しの辛抱だ』  そう、自分に言い聞かせる。  時勢は、確実に自分に傾きつつあった。  ――“帝國”こそ、我の望みを叶える存在となるに違いない。  だからこそ、稚速は禁物だ。慎重に、慎重に行動せねばならないだろう。  焦る事は無い、自分は長い長い間待ったのだから――と、そこまで考えた時である。 『! むう……』  何かに気づいた様に、デヴルー侯は窓を見た。そして何を思ったのか、窓を大きく開け放つ。  次の瞬間、鳥が飛び込んで来た。鳥は部屋の中を何度か旋回すると侯の手に停まり、一枚の紙切れに姿を変えた。  紙には、何やら文字が書き連ねられている。 『ほう?』  それを読んだデヴルー侯の、その仮面の下の表情が愉快気に歪んだ。  ヴィィィィィ――  直後に水晶球が光り、家人の声を送り出す。 <御館様申し訳ありません、王城から緊急通信です。至急登城を願う、とのことですが……>  仮にも大臣位、侯爵位にあるデヴルー侯を、通信一本で呼び出すとは……一体何事だろうか?余程のことに違いない。  が、侯の機嫌が悪くなることもやはり間違いない。故に家人はいかにも恐る恐る、といった風に切り出す。  が―― 『わかった。直ぐ行く、と伝えよ』 <は!? かっ、かしこまりました!>  主の思ってもみぬ反応に、家人は一瞬対応が遅れる。  気付き慌てて取り繕うが、お咎めは無い。うむ、のみである。  ……信じられぬことだが、主はかなり機嫌が良いらしい。  家人はまとまった量の運を使い果たした様な気がし、当分賭博への参加を見合わせることにした。  ――時、来たれり。  王の死は暫くの間伏せられ、新王の即位と共に発表された。(無論、その真実が発表される筈も無く、『急な病のため』とされた)  新王は前王の異母弟。 ……が、実際は“遠い縁戚”に過ぎないことを誰もが承知していた。事実上、王統はここに絶えたのである。  尤も、朝野は新王即位を祝福する声で溢れ、これを問題とする者はほとんど存在しなかった。  即位の祝いとして、来年度の税が1/10軽減されたことも大きいだろう、士族に対してまとまった額の一時金が与えられたことも無視できない。  が、新しい王に対する期待が……いや、それ以上に前王に対する不満が大きかったのだ。  ――前の王様は、お食事中に喉に物を詰まらせて亡くなった。  だからこそ、真実を覆い隠す嘘として重臣達が流したこの噂を、人々は積極的に信じたのだ。 「なんでも、美姫の膝枕で寝転びながらお食べになっていたそうな」 「朝に寝て夜起きる、なんてことをずっとなさっているから、喉が弱りきっていたのだろうさ」(*2)  この様な会話が半ば公然となされ、人々は口々に笑いあったという。  ……が、上は下級士族や都の正規の住民、或いは中小の自作農といったまだ余裕のある、一部の恵まれた人々に限られた話に過ぎない。  喰うや喰わずの生活である大多数の国民にとっては、そんな遠い世界の話よりも、目に見える現実の方が遥かに重要だった。 ――――王都ハルダー、波止場。 「よーし、今日はここまで!」  人足頭の号令に、人足達は皆ホッとした表情を浮かべた。  そして、重い足取りで支給所へと向かう。  大陸で見られる様な、今日の労働から開放された喜び、日当を貰う喜びやざわめきは一切無い。無口、ただ無口、だ。  ……そんな中に、その男はいた。  男の名など、どうでもよいだろう。彼に……いや周りにとって、名など単なる“識別記号”でしかないのだから。 「ほらよ」  支給所に行くと、給与掛から銅貨の束を放り投げられる。本日の日当だ。  その額、80ソルヒム――ロッシェル銅貨80枚。(*3)  日がまだ昇りきっていない早朝から、日が半ば沈みかけている夕方まで働いて、僅か銅貨80枚である。途中、菱麦(ソバ)と魚のあらを煮込んだ薄い塩粥を昼食として支給されるとはいえ、大陸では考えられない労働条件だ。  ……が、イルドーレではこれが“当たり前”だった。農村部の状況を考えれば、むしろ恵まれている、とさえ言える。  男は無言で金を受け取り、職場を後にした。  がや…… がや……  途中、仕事帰りの人足目当ての食堂――といっても青空天井だが――で、夕食を摂る。  魚醤を採った残りの、大陸人ならば“生ゴミ”と見做すであろう魚片を煮込んだスープと蒸かしたイモ、しめて銅貨15枚。倍盛ならば25枚。  男は散々悩んだ後、倍盛と明日の朝食用に蒸かしイモを数個、頼む。しめて銅貨30枚。  が、見ると大半が倍盛の飯に加えて酒を選択していた。  ――馬鹿が!  男は内心で罵倒する。  酒は柄杓1杯(約1合)10枚する。小樽(柄杓100杯分)で銅貨800枚の安酒が、水で薄めて10枚だ。  飯とさして変わりが無い……どころか高い、高すぎる。酒杯を満たすのに3杯必要なことを考えれば、尚更だ。 (その証拠に、彼等は2杯3杯と酒を進めている。金が無くなるまで飲み続ける者も少なくないだろう)  ――馬鹿が、救いようの無い大馬鹿が! いつまでもこんな暮らしを続ける気かっ!  そう、せせら笑う。  飯倍盛で25、明日の朝食に5、そして雑魚寝の木賃宿が1晩10……ただその日一日生きるだけで、銅貨を40枚も必要とする。  が、逆に考えれば40枚「も」余るのだ。週(6日)1日休むとしても銅貨160枚が残る。月(30日)なら800枚……800枚だ!   ――3ヶ月、3ヶ月耐えれば定住できる! この泥沼から抜け出せる、第一歩を踏み出せる!  最も安価な裏長屋なら家賃は月500枚。3月分の入居料と1月分の先払い家賃、合わせて2000枚払えば入居できる。  住所が持て、定住の身となるのだ。そうなれば信用ができ、優先して日雇職を得ることができる、定職に就くことだって不可能ではない。  ――それを、その可能性を、たかが一日杯1杯の酒で失うとはっ! つくづく救い難い馬鹿共だ!  自分は違う、と男は考えていた。自分はついこの間まで、人員削減により職を失うまで、使い走りとはいえ役所の雇人だったのだから。  ……が、男の考えは甚だ甘い、と言わざるを得ない。  『月800枚』と言うが、遊興費を抜きにしてもそれだけ貯めるのは大変なことだ。  職にあぶれることだって少なくないし、日用品の出費もある。 ……半分も貯められれば御の字、ではないだろうか?  それに、仮に定住できたとしてもそれは第一歩、最初の関門を超えたに過ぎない。定職には就けず結局日雇い暮らし、になる可能性の方が大きいのだ。そうなれば優先的に仕事を貰えたとしても、重い家賃負担――年に一度1月分の更新料を必要とするので実際は年13ヶ月必要だ――に耐え切れないだろう。  男は最低限とはいえ衣食住が保障されている官の雇人であったため、まだ現実が見えていなかった。日当を、生活費ではなく小遣いの延長と考えていたのだ。  ……無論、当人にそんな気はさらさらなかったが。  さて決意したはいいが、食事を終えると男の決心は揺らぎ始めた。  酒の匂いが、その胃を、喉をいたく刺激する。  ――くっ!  席を立とうとするが、足が動かない。  酒の魅力に、とり憑かれたのだ。  ――考えてみれば、まったく酒を飲まずに3ヶ月は無理な話だ……  そう、思い直す。  必要なのは2000枚だから、3ヶ月で最低400枚、月133枚は『使える』のだ。予定を4ヶ月に伸ばせば1400枚超、月350枚、日12枚。  ならば、労働した日くらい自分への“ご褒美”としていいだろう。そう、柄杓1杯の酒くらいは……  男はふらふらと立ち上がり、販売所へ向かった。  …………  …………  …………  闇の中、とぼとぼと肩を落として歩く者がいた。 ……先ほどの男だ。  現在、一文無しである。案の定1杯では止められず杯を重ね、気が付けば今日の宿代どころか、明日の朝飯まで“つまみ”に喰ってしまったのだ。  毎日同じのことの繰り返しである、激しい後悔が男を苛んでいた。 「はっはっはっ!」  と、何人もの馬鹿笑いが響いてきた。  見ると、十数人の男女の一団がこっちに向かって歩いてくる。  女はイルドーレ人だが、男は外国人のようだ。  軍服らしきものを着ていることから、連中が今話題の“帝國”人であることに男は気付く。  ……が、その姿は彼が思い浮かべる蛮族とは程遠かった。  小奇麗な、立派な軍服――少なくとも彼から見れば――を身に纏い、上等な酒と料理の匂いを漂わせている。しかも、その全員が女連れだ。 ……それも自分達が稀に抱くような、“1回銅貨20枚”の夜鷹(*4)ではない。見目麗しい、女達である。  しかも洩れ聞こえる話を聞くに、連中はただの水兵に過ぎぬらしい。男の胸に、暗い感情が灯った。  ――そんな、そんな連中がっ!  男からすれば、“帝國”人など所詮蛮族に過ぎなかった。  ……或いは、それでも相手が将校ならば、そうでなくともせめて交易商人ならば、まだ我慢できたかもしれない。  が、“水兵”である。  アルフェイムにおいて水兵などというものは、職業とは言えぬ最低の仕事だ。(*5)  だというのに、我が身と比してどうだろう! 「? ほら、よ!」  チャリーン!  男に気付いたのか、水兵の一人が銅貨を投げた。銅貨5枚分の価値がある、5ソルヒム大銅貨だ。(*6)  一人が投げると、他の男達も次々と投げる。男の足元に、たちまち半日分の日当にも匹敵する額の銅貨が落ちた。  ……男は、その姿から乞食と思われたのである。  ――蛮族がっ! 調子に乗りやがって!  これが他の者ならば、暗い夜道に這い蹲って必死に銅貨を探し求めただろう。その間に、“帝國”人の集団は過ぎ去ったに違いない。  が、男にはまだ官雇人生活の残滓が、僅かばかりの意地が残っていた。  男は我を忘れ、通り過ぎようとする集団に飛び掛った。 ――――在イルドーレ王国“帝國”連絡事務所。 「頭が痛いな……」  報告書を書きつつ、羽場は溜息を吐いた。  この所、寄航する“帝國”海軍将兵と現地人との間で、いざこざが続発している。  蛮族が景気よく振舞うことに……何より娼館で見目良いイルドーレの女達を多数買いあげ、あまつさえ連れ回すことに、イルドーレの民が嫉妬と反感を抱いたのだ。  ……確かに、『イルドーレの主要輸出品は女』などと大陸で陰口を叩かれる程に、イルドーレは女を他国人に“売って”いる。  が、今まではその様を間近で見ることはなかった。ましてやその相手は蛮族と侮る相手である、正当か不当かは別としてその心中が穏やかでないことは無理も無いだろう。  かくして衝突が頻発し、羽場は奔走する羽目となる。  まず激怒する海軍の将兵を宥め、  娼館の主達と共に役人に取り締まり強化を要請――むろん賄賂は必須だ――し、  最後に事後報告、だ。  これ以外にも様々な折衝やら事務手続きがある。最近では週に二度も寄航するので、目の回る忙しさだった。 「海軍の連中も、もう少し地味にしてくれれば良いものを……」  そう天を仰ぐが、彼等には彼等で言い分がある。  幾らたっぷり加俸されているとはいえ、使い道も碌に無い昭北島暮らしを余儀なくされているのだ、偶の外出時位は派手にやりたいのが人情というものだろう。(用も無いのに海軍が寄航数を増やしたのもこのためである、月に一度ではいつまでたっても順番が回らないのだ) 「久治様も、外出時はお気をつけ下さいね」  カチャリ  茶を机に置きつつ、少女は羽場を案じる。  が、羽場は五月蝿そうに手を振り、一顧だにしない。 「判っている。が、俺にはコルトがあるさ」 「一人や二人の平民相手なら、役に立つでしょうが……」 「狭い町だ、群れたら役人共がすっ飛んでくるさ。竜車にも乗っていることだし、問題は無い」 「ですが――」  尚も言葉を続けようとした少女だったが、羽場に睨まれて忽ち口を閉ざす。  そんな様子を鼻で哂い、羽場は書類に目を戻す。  ――が、ふと思い出した様に口を開いた。 「お前、“呪いの魔法”を知っているか?」 「?」 「いや何、前王の死因についてだが、『デヴルー侯爵が呪い殺した可能性もあるのでは?』と思ってな……」  前王の死因が暗殺であることは羽場も掴んでいたが、その下手人については依然闇の中だった。  故に幾つもの可能性を考えていたのだが、その過程でふと『もしやデヴルー侯爵が呪い殺したのでは?』と思いついたのだ。(侯が“呪いの達人”とされていること、最近改革派の中でも過激な連中の頭目に祭り上げていることからも、全く故無きことではないだろう) 「私は呪術は詳しく無いので断言はできませんが、たぶん違うと……少なくとも呪殺の可能性は非常に低いと思います」  が、少女はう〜んと唸り、慎重に言葉を選びつつもそれを否定した。 「詳しくない? お前達は魔法の専門家だろう?」 「呪術は非常に特殊な分野なのですよ。 ……それに私、魔術は基礎しか学んでませんし」 「ああ、そういえばお前はみそっかすだったな」 「……そうですね。でも、やっぱり呪殺は無いと思います。仮に侯がやったにせよ、方法は別でしょう」 「何故だ?」 「呪術は、非常に不安定で不確実なものなのですよ」  様々な方法はあれど、呪いとは簡単に言ってしまえば負の感情を対象にぶつける行為である。乱暴な言い方をすれば、相手を陰湿ないじめで病気や自殺に追い込むことと変わらない。  それ故に時間がかかり、効果も不確実だ、相手を苦しめるには悪くないかもしれぬが、如何考えても暗殺向きではない。相手を一瞬の内にショックさせるには、余程の至近距離から、余程強烈なものをぶつける必要があるだろう。 ……それを考えれば、傍の椅子で殴りかかった方が遥かに手っ取り早い。 「いじめ、ねえ…… 呪いというには随分とスケールが小さいな?」 「……久治様、いじめは恐ろしいものですよ? 人の精神くらい、簡単に壊してしまいますから……」 「大げさな」  兵役生活も経験せず、今まで何不自由なく暮らしてきた羽場は、少女の言葉を笑い飛ばした。  大内海と中央世界の境に位置し、後に“帝國の表玄関”とも“函谷関”とも謳われる昭北諸島。  ――が、この当時は他の大内海に浮かぶ島々同様、まったくの未開地であった。  というのも、当時は拠点としての機能の大半を病院船(病院)・油槽船(燃料貯蔵)・運送艦(物資貯蔵)・工作艦(整備/機械工場)・給糧艦(食糧工場)等々……といったフネ(海上)に依存しており、陸地にあるものといえば丸太造りの宿舎か大半、後はやはり丸太造り――それも申し訳程度に天井だけ付けた様な――の指揮所か作業所くらいのものであり、その規模は別として『原住民の集落とさしたる変わりがない』という惨憺たる有様だったからである。 ……尤も、これは上で述べた通り、各地でよく見られる光景であったのだが。(むしろ比較的充実した数のフネが手当てされている分、昭北諸島の将兵は恵まれていたとも言える)  故に、軍民問わず上級者は沖に停泊する艦船に宿泊することを常としていた。 ――――“帝國”領昭北諸島、北方方面艦隊旗艦“香取”。 「馬鹿が!何時まで“外交ごっこ”をやっているつもりだ? ……もうお遊びは終わりなのだよ」  北方方面艦隊司令長官 及川古志郎海軍大将は、在イルドーレ領事館(連絡事務所)からの要請――いま少しの海軍将兵の自重を願う――を、鼻で哂って握り潰した。  そして、傍らに控えるダークエルフを見る。 「準備は?」 「整えております、閣下。御命令ならば直ぐにでも」  陸軍大佐の軍服を身に纏ったダークエルフは、恭しく一礼して答えた。  その言葉に、長官は満足そうに頷く。 「よろしい、大いによろしい! ――では外務省の無能共に、『外交とは力だ』ということを教育してやろうではないか!」 「御意」  深々と頭を下げ、ダークエルフの大佐は退出する。  ……計画を発動させるために。  平和を謳歌していた海に、今まさに謀略の矢が放たれようとしていたのだ。 *1 ――――『兵を挙げようにも彼の所領は10ヵ村2000人と、(他を圧しているものの)1町300余ヵ村70000人超の国家からみれば微々たるものだ。』――――  デヴルー侯爵家は10ヵ村(領民2000人余)を賜っているが、これは貴族中最大の規模である。 ……とはいえ、これはあくまで魔導師(士)一門25家全体に与えられたものであり、宗家たるデヴルー侯爵家が代表して一括管理しているに過ぎない。(尤もこれはあくまで名目に過ぎず、実質的には他の24家は宗家の家臣と化しているのだが……)  分割割合は宗家が25%、魔導師4家が計25%(各6.25%)、魔導士20家が計50%(各2.5%)。それぞれの収入を判り易く江戸時代風に表現すれば、宗家が500俵取の中級上位の旗本、魔導師4家が各100俵5人扶持の下級旗本、魔導士20家が各50俵取の上級下位〜中級上位御家人、といったところか。或いはイルドーレ王国が江戸時代の中堅藩レベル――規模は7〜8万石級だが国力は5万石程――なので、宗家が家老格、魔導師4家が上士格、魔導士20家が中士とした方が妥当かもしれない。 *2 ――――『「朝に寝て夜起きる、なんてことをずっとなさっているから、喉が弱りきっていたのだろうさ」』――――  照明が未発達だったこの時代、魔道によるものは元より効果の低かった一般の照明ですら非常に高価なものだった。故に、朝に寝て夜起きる、などという行為は“最大の悪徳行為の一つ”と考えられていた。 *3 ――――『その額、100ソルヒム――ロッシェル銅貨100枚。』――――  その国力から、ロッシェル王国の通貨は大陸同盟で広く流通している。加えてイルドーレ王国は、経済的にロッシェル王国の強い影響下にあった。(このため国内向けで「〜フロル」「〜リバー」といえば通常ロッシェル通貨を指す)  <ロッシェル王国の通貨>  16フロル貨(大金貨):重量1オース(約32g)    金含有率80〜90%   4フロル貨(正金貨):重量1/4オース(約8g)  金含有率80〜90%   1フロル貨(小金貨):重量1/16オース(約2g) 金含有率80〜90%  16リバー貨(大銀貨):重量1オース(約32g)    銀含有率80〜90%   4リバー貨(正銀貨):重量1/4オース(約8g)  銀含有率80〜90%   1リバー貨(小銀貨):重量1/16オース(約2g) 銀含有率80〜90%   5ソルヒム貨(大銅貨)   1ソルヒム貨(正銅貨)  1フロル≒16リバー≒1600〜1800ソルヒム *4 ――――『“1回銅貨20枚”の夜鷹』――――  いわゆる“街娼”。  イルドーレの“女の格と値”はおおよそ以下の通り。  街娼が1回ロッシェル銅貨20枚+α(交渉分、マイナスとなる場合も有り)。客層は定職を持たぬ日雇い労働者や中小自作農といった下層階級。  娼館の女(並)が1回ロッシェル銀貨1〜2枚、銅貨に直せば110〜220枚前後。客層は店を持たぬ行商人や職人、中堅以上の自作農といった庶民階級や中堅以下の士族。  娼館の女(上)が1回ロッシェル銀貨3〜4枚、銅貨に直せば330〜440枚前後。客層は中小の店持の商人や職人、大商会の幹部、地主といった中産階級や上級士族、中下級貴族。  娼館の女(特上)が一晩銀貨5枚〜、ただし他に部屋代・料理代・サービス料等々が加わり、実際は軽くこの数倍かかる。客層は富商や上級貴族。  *この場合の1回は「90分〜」とか「120分〜」といった意。  なお、本文中のように娼館の女(上、銀貨3枚)を一晩借り切るには、銀貨13枚(店に12枚、女にチップ1枚)ほど必要。  加えて、二人で上等な料理屋へ行けば、   酒2本(1本5合ほど) 銀貨2枚   つまみ2皿       銀貨1枚   料理4皿        銀貨4枚   席料(2人分)     銀貨2枚   チップ(2人分)     銀貨2枚   計銀貨11枚  ――しめて銀貨24枚(銅貨約2600〜2700枚)は“最低”必要である。  王都庶民の日収が銀貨にして2枚分ほど、“男”が官雇人だった頃の年俸が銀貨100枚(他に最低限の衣食住が支給)であることを考えれば、その贅沢振りが判るだろう。 *5 ――――『アルフェイムにおいて水兵などというものは、職業とは言えぬ最低の仕事だ。』――――  海を厭うことからも判る様に、船乗りという職はあまり良い職とは言えない。が、だからこそ船乗りは結構な高給取りである。大陸間交易の船乗りともなれば、10年も働けば一財産になる――些か大袈裟だが――と言われる程だ。故に、なり手は少なくない。  ……逆を言えば、安月給の上に待遇が悪く、危険も大きい水兵などになり手がいないのも頷けるだろう。特に、長期航海の艦隊乗組員は忌み嫌われている、と言ってよい。  これは海……特に遠洋への恐怖と蔑視に加え、近世英国海軍並みかそれ以下の待遇、空中戦力に対する異常なまでの脆弱性等、挙げればきりがない悪条件故のことだ。このため基地の地上要員や沿岸警備艇の乗組員は「現地漁師が交代でパート勤務」や「地上勤務のみの約束で志願」等により充足可能だが、本格的な艦隊乗組員となると「税金払えない民が文字通り血税払う(州兵の場合より滞納額大きい場合)」「浮浪者(住所不定の不良民)を狩り立てる」「中等度以下の犯罪者が志願(懲役の一環扱い)」等々の強硬手段にでねば充足は不可能に近い。(当然質も推して知るべし、である) *6 ――――『男に気付いたのか、水兵の一人が銅貨を投げた。銅貨5枚分の価値がある、5ソルヒム大銅貨だ。』――――  兵達は入港に先立ち、ロッシェル銀貨と兌換可能な軍票を、必要枚数分だけ両替することを特別に許可されているが、その他にも小銭として、銅貨100枚分ほどを支給されていた。 <ロッシェル銀貨兌換軍票>  海軍が少量発行した特別軍票。1枚につきロッシェル銀貨1枚と兌換可能。  イルドーレに入港した兵達はこれを契約した店で使用する訳だが、信用が無いため当初契約するまでにはかなりの苦労があったようだ。  なお――  軍票使用契約、  契約店との打ち合わせ(入港前には女や料理人、食材を前もって用意しなければとても足りない)、  軍票の精算(とにかく数が多い上、レムリア通貨に換算して支払わねばならぬので大変だ)、  とどめは立つ鳥が後を濁しまくったものの後始末……  ――これ等は全て現地の外務省領事館に業務を委託されている。羽場の慨嘆も頷ける話だった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【10】  ……そして、“帝國”がピグニス諸島を得てから、早くも一月以上の月日が流れた。 ――――昭和18年8月、ロッシェル王国南東海域。 「畜生! 奴等好き勝手やりやがって!」  ロッシェル王国海軍スループ艦(*1)“ラ・クロット”艦長ジャン・ヴァロア二等海佐(*2)は、そう忌々しげに吐き捨てた。  彼の目の前には、2隻の大型動力船が並行して疾走している。  海上からは見えないが、この2隻は化け物の様に巨大な網を曳航しており、それで魚を根こそぎ獲っているのだ。  ……こんな真似を毎日の様に行なわれては、王国の漁師達は堪らない。かくして漁師達は代官に泣きつき、泣きつかれた代官は所轄の王国海軍第三艦隊に対処を要請、要請を受けた第三艦隊は“ラ・クロット”を派遣した――という訳だ。  “ラ・クロット”は300総トン程の帆船で、対水上戦闘用に軽砲14門、対水上/対水中戦闘用に臼砲1門、対水上/対空近接防御用に機械式バリスタ4基、対空戦闘用に魔道式バリスタ1基等を装備する王国海軍の新鋭スループ艦である。戦列艦を保有しないロッシェル王国海軍では、スループ艦は艦隊のワークホースに位置付けられており、『王国海軍のある所スループ艦トあり』と言われる程の“なんでも屋”だった。  が、だからといってこの様な漁民保護にまで駆り出されるのは本来の任務では無い。只の『漁民同士の争い』ならば、武装カッターで十分だ。 ……ならば、何故?  簡単なこと、これがただの『漁民同士の争い』では無かったからである。  ロッシェル王国本土南東200海里の海域に、イルドーレ王国という島国が存在する。総面積2500ku、人口7万人程で、特に資源がある訳でも海上交易の中継地という訳でもない、所謂“貧乏国”“弱小国”といった類の国だ。(まあそんな辺鄙な場所にある零細国家だからこそ、ロッシェル王国を始めとする本土の大国からお目こぼしされ、その命脈を保ってきた訳であるのだが)  とはいえ、イルドーレ王国は曲がりなりにも『大文明圏の一つである北東ガルム文明圏に属する』と認められた“文明国家”であり、“大陸同盟”にも参加するれっきとした“独立国家”なのだ。あながち馬鹿にも出来ないだろう。故に隣接する大国、ロッシェル王国とも『大小の差はあれど同じ“大陸同盟”に属する国同士』として対等――少なくとも形式上は――の友好関係を保ってきた。  が、一ヶ月程前に当時のイルドーレ王が急死したことにより、情勢は急変する。  新王は“帝國”を名乗る辺境の国家と結び、こともあろうにその軍勢を国内に招き入れたのである。  ……これは大陸同盟諸国、中でも隣国ロッシェル王国に対する重大な背信行為であった。(*3) 「信号旗を上げろ!」  もう何度目になるかもわからない命令が、直ちに実行される。 『タダチニ漁ヲ止メ、帰還セヨ』  命令も同じなら、抗議内容も同じ。  だがそれのみが、“ラ・クロット”に許された唯一の抗議法だった。  ……そして、返ってくる返事もやはり同じ 『ソノ必要ヲ認メズ。我等ハ“イルドーレ王国漁民”ナリ』    姑息にも、あの2隻の動力船はイルドーレ王国籍とされていた。  イルドーレ王国公認の下で“帝國”が同国に水産商会を設立、“帝國”船をイルドーレ王国籍に転籍させる、という手法だ。  これは限りなく悪質ではあるが合法――同海域の漁業権はロッシェル王国とイルドーレ王国の共同――だった。   「何が“イルドーレ王国漁民”だ!」 「……艦長、いっそ拿捕しましょう」  副長のダルトア一等海尉が耳元で囁く。  彼が目配せする先には、“帝國”船に罵声を浴びせる水兵達。  その多くが漁村出身である彼等にとり、“帝國”の遣り口は憎悪の的でしかなかったのだ。 「……しかし、命令では武力行為は禁止されているぞ?」  水兵出身――士官としては異例と言って良い――であるダルトア一等海尉は経験も豊富であり、下士官兵達の気持ちを代弁できる貴重な人材である。  故に、ヴァロアも日頃から彼の助言を重視していたが、流石にこればかりは聞き入れる訳にはいかなかった。 「とはいえ、兵共もそろそろ限界です。このままでは――」 「…………」  ヴァロアは暫し沈黙する。  確かに、これ以上兵共の不満が溜まれば、“面倒なこと”になる可能性が高い。  只でさえ気性が荒い連中である。流石に叛乱は起こらないだろうが、一寸した混乱は避けられないだろう。最悪、艦乗り込みの海兵隊の手を煩わせる羽目になるかもしれない。  ……尤も、ヴァロアの考える『面倒なこと』は、この“混乱”ではなかった。  “混乱”が起こった場合、当然兵共を処罰する必要がある。  が、それは“艦で起こった混乱”を司令部に知らせることをも同時に意味する。これが大きな減点対象となることは言うまでもないだろう。  だからといって、兵共を処罰せねば規律は保てない。これは所謂“内緒処罰”――公式記録には残さない処罰――だろうが同じことだ。(それに万が一ばれた場合、減点どころの騒ぎではない)  要するに、どう転んだところで自分にとって好ましくないことには変わりが無いのだ。  ならば―― 「副長、物資の在庫状況はどうかね? ……そういえば、そろそろ艦の補修もそろそろ必要だと思うのだが?」  ヴァロアの意味ありげな言葉、その意味をダルトアは即座に理解した。  そして、ヴァロアの望む答えを提示する。 「はい、艦長。物資は十分ですが、“風の魔石”の調子が少々気になります」  無論、嘘だ。が、帰港時には“真実”になっているだろう。 「おお! それは大変ではないかね!」  ヴァロアは大袈裟に首を振る。 「“風の魔石”は戦闘時には無くてはならぬもの、あれが無ければ本艦の戦闘力は半減どころの騒ぎではない! 直ちに帰還せねば!」 「了解です。本艦は直ちに帰還します」 「うむ、後は任せた」  鷹揚に頷き、艦内へと下りていくヴァロア。  ダルトアはそれを敬礼しつつ見送る。そして完全に見えなくなると、直ちに行動を開始した。  先ず下士官達に緊急帰還を伝えると共に、兵共を手隙にさせない様にそれとなく匂わす。  ……何、どんな仕事でも良いのだ。“帝國”の漁船のことなど考える暇も無い位、忙しいのであるならば。  下士官達にはそれだけで十分だし、それ以上は自分の出る幕では無い。  自分はもはや下士官ではなく一等海尉、“水兵の提督”なのだから。  兵共を怒鳴りつける下士官達の罵声を背に、ダルトアは艦内へと下りていった。  通信室で艦隊司令部に緊急帰還報告を送るように命じると、その足で戦闘用動力室へと向かう。  動力長と一言二言会話すると、動力長は頷いて部下達に仕事を命じ退室させた。  そして二人だけになると、動力長は“風の魔石”を繋ぐ動力パイプに一時的な過負荷を与え、破損させる。手馴れたもので、“風の魔石”本体は全くの無傷である。もし必要とあれば、予備のパイプと交換するだけで復旧できるだろう。恐らく10分もかからない筈だ。  ……が、『規則では』修理は出来ない。故に、帰還して専門の魔道士に修理して貰わなければならなかった。  実は魔道士ギルドとの協定により、魔道関連の機器は全てブラックボックス扱い――魔道士以外には直すことは出来ない(許されない)――とされている。  魔道士ギルドは縄張り意識と権利意識が恐ろしく強く、自分達の領域(権益)が僅かでも侵されれば激しい抵抗を示す。それ故出来た規則だった。 ……ああ、彼等は選民思想の塊でもあるから、『自分たち以外は直せない』とも考えているかもしれない。下等な機械技術者如きに、偉大なる魔法技術は理解できないとでも考えているのだろう。(魔法技術を理解することと、壊れたパイプの交換は関係が無いと思うのだが)  こうして全ての仕事を終えた後、ダルトアは甲板上の喫煙所で紙巻煙草を吹かしていた。  後は交代を待ち、帰還するだけである。どうやら“最悪の事態”は見ずに済みそうだった。  ――ま、これでようやく一安心だ。  思わず安堵の溜息を漏らす。  艦長には『兵共もそろそろ限界』と言ったが、それ以上に漁師達は限界――彼等は生活がかかっているのだから当然だ――だろう。  海軍(王国)が頼りにならぬと判った以上、とうていこのまま黙っているとは思えなかった。  ――次の連中には悪いが、ね?  彼の見る所、漁師達は近日中にも行動に出る筈だ。 ……だから、ぼんぼんの艦長をたきつけた。  直接言わなかったのは、『艦長に変な気を起こさせない』ため。ああ見えて艦長は忠義者だ。王の方針に従わぬ漁師共を止めようとしかねない。  そうなれば最悪だ。怒り狂った漁師を止めるのは困難だし、仮に止められた所で流血沙汰は避けられないだろう。何れの場合にせよ、自分の評価も下がってしまう。下手をすれば、次の人事移動で艦を降ろされてしまうかもしれない。  ……まあ艦長はそれでも『忠義を貫いた』と自己満足出来るかもしれないが、自分はそんな未来は御免被る。自分は艦長とは違い軍の俸給だけが収入なのだから、水上勤務手当や副長手当が無くなり、基本俸だけになったらとてもやっていけない。ましてや自宅待機などになったらその基本俸すら半減だ。そうなれば家族で首を括るしかない。  だから、これは当然の選択だった。  次の交代仲間は、自分達の不運を呪いながらも漁師達の決起を抑えようと四苦八苦するだろう。  漁師達は、生きるために何としても『帝國』船を追い返そうとするだろう。(そのついでに、今までの鬱憤も晴らそうとするだろう)  襲われる“帝國”船の連中も、捕まったら命は無いだろうから必死になって逃げるだろう。  ……尤も漁師達の船で“帝國”の動力船に追いつけるとは思えないが、それでも“ちょっとした問題”となるだろうことは想像に難くない。 「ま、せいぜい頑張ってくれ」  次の交代仲間にか、それとも漁師達にか、はたまた“帝國”船に乗り組む連中にか、或いはこれから起こるであろう災難に関わる全ての者にか――それが誰に対して言ったものか、自分すらも判らぬ嘲笑混じりの言葉を吐く。  次の交代仲間の苦労も、漁師達の怒りも、“帝國”船の連中に起こるであろう災難も、全て自分とは関係の無い、まったくの他人事と考えていたのだ。  その判断は、大いに間違っていた。  レスト島は、クローゼ列島――ロッシェル王国本土南東海域を北北西から南南東にかけて横断する島々の集まり――の最南端に位置する島であると同時に、王国最南端の領土でもある。  ……そして、その目と鼻先にあるアプト島はイルドーレ王国嶺だ。レスト島は“国境の島”でもあった。 ――――ロッシェル王国、レスト島南海岸。  未だ夜明けには程遠い深夜だというのに、海岸は異様な光景に包まれている。  多くの島民達が銛や棍棒、鉈といった“武器”を手に集結し、物々しいことこの上ない。  ……そして何よりも異様なことは、幾ら勝手知ったる島内とはいえ、この集団は深夜に灯り一つ持参していないということだった。(彼等は土地勘と天空に輝く月や星々を頼りに、家からここまで歩いてきたのだ!)  彼等は全員が集まったことを確認――狭い島内で皆顔見知りだ――すると、幾つかの集団に分かれてそれぞれ船に乗り込み、沖に消えていった。  彼等は島内に出るまでの間、言葉一つ発しなかった。  だから、島の高台に住む代官はこのことに全く気付かなかった。  一方その頃、“大洋丸”は“明神丸”と共にアプト島の波止場に仮停泊し、ひと時の休息をとっていた。  ……まあ“波止場”と言ってもアプト島は無人島――何しろ1kuにも満たぬ岩礁だ――なので、天然の波止に多少の手を加えた“天然の港”に過ぎない。  が、それでも風除け波除けが出来ることは有り難かったし、陸地に上がれるのはそれ以上に有り難かった。(作業能率が全然違う!)  故に、彼等は毎回ここを利用していたのである。 ――――アプト島、“大洋丸”。  船員達の多くはこの休息を利用し、ひと時の眠りに就いている。  そんな中、“大洋丸”の監督室では、船長と監督官が酒を酌み交わしながら世間話をしていた。 「今まで近代漁法とは無縁だった、言わば“手付かずの漁場”ということもありますが、それにしても大したものですね!」  “大洋丸”船長、大谷満は感嘆した様に言った。(かつて世界屈指――あくまで“元の世界”の話だが――の漁場“北洋”での操業経験がある彼にとっても、この海域での漁獲量は驚嘆すべきものだった)  話し相手を務める監督官の海軍大尉も、“帝國”酒の入った茶碗を軽く振りながら返す。 「『ここはお国の何百里』じゃあないが、わざわざこんな所まで来た甲斐があったというものだろう?」 「全くですな! ……とはいえ、正直“何百里”じゃあききませんけどね」  ここは本国から三千海里も離れた大内海と小内海の狭間ですよ、と指摘する。 「ははは! 違いない!」  二人の笑い声が監督室中に響いた。  “大洋丸”は僚船の“明神丸”と同様、農林省標準型の160トン型鋼製漁船である。  両船とも某遠洋漁業会社に所属し、現在は政府――この場合は軍――の委託を受け、同海域での漁を行っていた。  本国から遠く離れた遠洋漁業とはいえ、漁場そのものは水深の浅い沖合漁場だ。それ故、トロール漁法ではなく二艘曳漁法が採用された。  2隻の船で巨大な網を曳くこの漁法は、海底付近に生棲する魚を根こそぎ捕獲出来る為、その効率は極めて高い。  ほぼ連日の漁――1航海(2日)後1日の休養があるから3日に1回――にも関わらず、2隻の船は毎回大漁旗を掲げていた。  獲れた魚は母港で待機している加工船に送られる。  加工船内部はちょっとした水産加工工場となっており、運ばれた様々な水産品を乾燥肉(魚肉)や缶詰に加工し、大陸各地に展開している軍に納入する。(ちなみに缶詰は鋼材節約の観点から、一号缶や二号缶といった大型缶詰のみだ)  直接的には軍の兵站を軽減し、間接的には本国の食糧事情を緩和する重要な任務だった。  ……とはいえ、2隻だけの操業とは不思議な限りだ。  この海域に進出した漁船は大小合わせて10隻に上る。ならば10隻で行動すれば効率は更に上がるだろう。(事実、他の8隻は集団で行動している)  が、にも関わらず“大洋丸”と“明神丸”の2隻は、独立して操業していた。“大洋丸”も“明神丸”も、他の漁船から孤立した存在だったのである。  その理由は、『船員に問題があるから』。  両船の乗組員は幹部を始めとする基幹要員のみ“帝國”人で、主な労働力を現地雇用者に頼っている――ここまでは良い。よくあること……とまでは行かないが、大陸沿岸では少なからず見られる構成だ。  が、船長以下の帝國人が所属会社の社員ではない、というのは珍しい。 ……ましてや全員が“元受刑囚”というのは。  両船の“帝國”人は、“囚人労働者”だったのだ。  そしてその経歴故か、現在一時的に属している会社――当然以前の会社とは無関係――から煙たがれ、こうして2隻だけ、それもロッシェル・イルドーレ国境海域という言わば危険地帯での操業を強いられていた、という訳である。 ……少なくとも表向きは。  無論、この船長も囚人である。が、この船長はまるでそんなことを感じさせないくらい監督官と仲が良く、とても“囚人と刑務官”の関係には見えない。  ……苦労を分かち合うことで、友情でも生まれたのだろうか?  ビイイイイ…… 「!」 「……!!」  と、部屋に置かれた石が、突然妖しい音を立てて紅く光った。  それを確認すると、今まで談笑していた二人の顔が途端に険しくなる。 「予定より少し……いや、かなり早いな」  大尉は顔を顰めた。  予定では、まだ当分先の筈なのだが…… 「もしや“連中”、“監視”がいるのを承知の上で強行する積りでは?」  大谷が顔を青ざめて大尉に聞く。  ……もしそうだとすれば、効果は半減どころか“任務失敗”の恐れすらある。 「……いや、流石にそれはないだろう。何らかの理由で“交代”が早まったのだろうよ」  幾らなんでもそこまで愚かじゃあないだろう、と大尉。  が、その内心は穏やかではいられなかった。 「どうします?」 「どうもこうも、実行するしかないだろうさ!」  大尉はそう吐き捨てると、監督室内に備えてあった据付型の金庫から小さな箱を取り出した。  箱を開けると、中にスイッチが収められているのが見える。  大尉は、無造作にそのスイッチを動かした。 「……さて、後は結果待ちだ。船長、準備しておけよ」 「はい、大尉殿」 「……だから、海軍じゃあ“殿”はいらんのさ」  大尉は苦笑しつつ、何度目になるか判らない船長の癖を訂正した。  ――――およそ10分後――――  ドンドン!  突然、船長室をノックする音が聞こえた。 「どうした!」  大谷がドアを開け、尋ねる。 「船長、本部より通信です! “明朝天候悪化ノ恐レアリ、大至急帰還セヨ”!」 「判った、直ぐ行く! 出港準備だ!」 「はい!」  大谷と大尉は頷き合うと立ち上がった。 「船長、“明神丸”より通信です! 『ワレ機関ヲ故障セリ、航行不能』!」  二人が船橋に到着すると、待っていたかの様に通信士が叫ぶ。 「何? ……不味いなあ、曳航しながらじゃあ時化にぶつかっちまうぞ?」 「仕方ない、本船だけで出航する。“明神丸”乗組員は総員島に上陸し、避難所に待機せよ」  獲れた魚が半分無駄になっちまうが仕方無い、と大尉は忌々しそうに舌打ちする。 「本船に乗せれば、そんなことをしないで済むのでは無いのですか?」  大尉の言葉に反発した航海士が具申する。  が、大尉は鼻で哂って退けた。 「貴様は阿呆か? 只でさえ過積載なのに、この上人など乗せえられるか!  子供じゃあ無いのだから、二〜三日位この島で過ごさせろ!」  大尉の言葉は確かに一理も二理もあった。  島には天然の洞窟を利用した避難所があり、そこには幾ばくかの食料や水が置かれているのだ。  船の物資も考えれば、二〜三日位どうってことも無いだろう。  ……が、『人より魚の方が大切』という考えがあからさまな言葉に、その場の誰もが反発を覚えた。  それを察し、慌てて船長が口添えする。 「目と鼻の先は有人のレスト島だから、何も心配することはないだろう?  何かあったら『直ぐに駆けつけてくれる』さ。直ぐに……ね?」  ……こうして“大洋丸”のみが出航し、“明神丸”は島に残ることとなった。 「永久の別れ……か」  監督室に戻ると、大谷は煙草を吹かしながら呟いた。  時計を見ると、出航してから既に一時間以上が経過している。  アプト島とレスト島は目と鼻の先だ。手漕ぎでもそろそろ――  彼は、彼等は、今頃“明神丸”乗組員に降りかかっているであろう災難を承知していた。  ……いや、むしろそうなる様に仕向けたのだ。例え直接実行したのでは無くとも、それは何の言い訳にもならないだろう。  彼は、まさしく“共犯”だった。 「……心配かね?」  九四式拳銃の手入れをしながら、大尉が尋ねる。 「いえ、別に」 「それは結構! ……まあ、どうせ現地人と“主義者”だ。気にする必要もない、か」  “明神丸”に乗り込んでいる乗員は、帝國人は“主義者の囚人”、原住民も“島流しにされていた囚人”に過ぎない――そう大尉は指摘し、『“主義者”は癌と同じだからな』と嘯く。 「全くです」  阿諛追従でなく、本気で返す大谷。  それを聞き、大尉は満足そうに頷いた。 「ああ、貴様には今回良く働いてもらったな。  今直ぐは無理だが、一〜二ヶ月後には恩赦が出る筈だ。本国に帰れるぞ?」 「有難うございます!」  大谷は深々と頭を下げた。 「次の職場は軍が世話してやる。何か希望はあるか?」 「……出きれば陸上でお願いします。家族の傍にいたいので」 「判った、伝えておこう」  大尉は鷹揚に頷いた。 「では、私はこれで」  大谷は辞を低くし、監督官室を後にした。  ――これでやっと、やっと家族に苦労をかけずに済む!  船長室に戻った大谷は胸を撫で下ろした。  “職場の世話”が監視を意味すること位は判っている。が、それでもようやく人並みの生活に戻る事が出来る、家族を守ることが出来るのだ――そう思うと、今まで家族にかけてきた苦労に一人涙した。  大谷は北洋漁業に従事する幹部級船員だった。  が、一般労働者達の過酷な労働条件や頻発する虐待に義憤し、何時しか主義者達が労働者達を感化・組織することを手助けする様になっていった。  そのため、大谷は大規模争議を引き起こした関係者として逮捕・投獄されたのである。(勿論、会社は解雇だ)  その後、数年に及ぶ獄中生活を経たある日、見知らぬ軍人が面会に訪れた。  ――君、悔い改めて御国に尽くす気はないかね?  なんでも現在、帝國は船舶の大増産を行っており、船員――特に中堅以上の――が極度に不足している状態なのだそうだ。  それ故、大谷に白羽の矢が立った、という訳である。船にのらないか、と。  危険な遠隔地での任務だったが、大谷は承諾した。それなりの給金が支払われる上、三年働けば残りの十年以上の刑期を帳消しにしてくれるという好条件だったが、何よりも出航までの三日間、家族の元に帰れる、という条件に心を動かされたのだ。  ……が、家族と再会した大谷は愕然とした。  久し振りに遭う妻はやつれ果てていた。  子供は一人欠けていた。  『夫が共産党に入党した』などというデマのため、妻は実家にすら身を寄せることが出来なかった。  ……ただでさえ女一人で暮らすには辛い世の中、子供まで抱えて一体今までどんなに苦労をかけただろう?  だが、妻の口からは一切の恨みつらみは聞く事が出来なかった。代わりに聞けたのは、娘を助けられなかった謝罪の言葉。  その時初めて、大谷は自分がしたことの“愚かさ”に気付き、号泣した。  それは、大谷が“今までの自分”と完全に決別した瞬間だった。 『たとえ如何程の悪名を受けようとも、自分は自分と家族の為だけに生きる』  以後、彼は軍の命令に忠実な実行者として、身を粉にして働く事となる。  そしてその働きは認められ、“今回の計画”への参加すら打診された。  大谷は一も二も無くこれに飛びついた。あらゆる意味で危険な任務だったが、自分と家族が浮き上がるにはそれしか方法が無かったからだ。  そして現在、今までの苦労がようやく報われようとしていたのである。 ……他者を犠牲にして、ではあるが。  が、彼には些かの後悔も、“明神丸”乗組員に対する哀れみも存在しなかった。  誓いを立てたその時から、彼は良心など捨て去っていたのだから。 ――――翌朝、アプト島。  “明神丸”乗組員救出の為にアプト島を訪れたのは、“大洋丸”では無く特設砲艦“第三千代田丸”だった。  “第三千代田丸”は800総トンの民間船を徴用、武装化したもので、『同型の“大洋丸”で曳航は大変だろう』と考えての措置である。 ……表向きは。  だが“第三千代田丸”の将兵が見たものは、“明神丸”の残骸と“明神丸”乗組員の遺体の山だった。 「……酷え」  その凄惨な光景に、誰もが息を呑んだ。  “明神丸”船員の遺体はどれもまるで私刑(リンチ)にでも遭ったかの様で、“綺麗な”遺体は一つとして見られない。  未だ燻る船の炎が、一層陰鬱な空気を創り出している。 「駄目です! 全乗組員の死体を発見しました! ……生存者ゼロです」  一縷の望みを託し、探し回っていた将校が首を振った。 「畜生! 一体どこのどいつだ!」  副長が吐き捨てる。  その表情は怒りに燃えていた。  と、船内を調べていた兵が手に何かを持って駆けてきた。 「艦長! 航海日誌を見つけました!」 「でかした!」  艦長と副長は、早速日誌を広げた。  ……日誌には、“大洋丸”と別れて直ぐに通信機も故障したこと、そしてその30分後に100人以上のレスト島住民に襲われたことが書かれていた。  必死に抵抗するも武器一つ無い上に多勢に無勢、不意を突かれたこともあり呆気なくやられたらしい。 「艦長! 報復しましょう!」 「まあ待て、副長」  艦長は怒りの余り暴走する副長を抑えた。 「しかし!」 「我が国が承認していないとはいえ、レスト島はれっきとした独立国家の領土だ。  である以上、我々現場の判断のみで行動することは許されん」 「…………」 「判ったな?」 「……はい」  副長は、如何にも渋々といった表情で引き下がった。 「よろしい、では遺体と証拠品を収容後帰還する! 急げ!」  ……こうして、“第三千代田丸”は何ら具体的な行動を起こさず去っていった。  が、それは決して『泣き寝入り』を意味するものではなく、ただ準備期間を置いた――それだけのことに過ぎなかったのだ。  この事件は後に“明神丸”事件と呼ばれ、歴史を大きく動かす大事件の一つに数えられることとなる。 *1 ――――スループ艦――――  アルフェイム世界における海軍艦艇を地球世界のそれに当てはめれば、おおよそ以下のようになる。  大型戦列艦  :1500総トン級。地球世界の“超弩級戦艦”(クラスの巨大戦艦)に相当。  戦列艦     :1000総トン級。地球世界の“弩級戦艦”に相当。  小型戦列艦  :700総トン級。地球世界の“海防戦艦”或いは“旧式戦艦”に相当。  大型フリゲート:700総トン級。地球世界の“重巡洋艦”に相当。  フリゲート   :500総トン級。地球世界の“軽巡洋艦”に相当。  スループ    :200〜300総トン級。地球世界の“駆逐艦”に相当。  ただし戦列艦及び大型戦列艦を保有するのは列強……或いは海軍を比較的重視する一部大国くらいのもの、それ以外は大型フリゲートですら希少で、警備用のフリゲートやスループが圧倒的多数という沿岸海軍振りである。(ちなみにロッシェル王国は、人口800万超を誇る大国にも関わらず戦列艦を保有していないが、別に“アルフェイム”世界ではなんの不思議もない) *2 ――――二等海佐――――  ロッシェル海軍の階級制度は、その保有技能と密接な関係にある。(例えば海尉は『正規の海軍士官』であり、海佐は『艦長資格を持つ海軍士官』)  その詳細は以下の通り。  <提督>   中将 海軍の最高位で海軍総司令官。艦隊司令官筆頭に与えられる。  少将 艦隊司令官。  提督は海佐から功績を重ねて昇進する場合と、素人の大貴族が任命される場合がある。  <将校>  一等海佐 フリゲート艦艦長或いは戦隊司令  二等海佐 スループ艦艦長  准海佐  艦長資格を持つ士官(*艦長資格を持つ海軍士官は、軍艦艦長になることが出来る)  一等海尉 副長資格を持つ士官(*副長資格を持つ海軍士官は、軍艦副長、武装カッター艇長になることが出来る)  二等海尉   准海尉  士官待遇の専門職者(主計長、軍医、船匠など)或いは上級下士官から選抜された者。  士官候補生が海軍士官資格を習得すると、二等海尉に任官する。  二等海尉が副長資格を習得すれば、一等海尉に任官する。  一等海尉が艦長資格を習得すれば、准海佐に任官する。  (上記以外の方法で昇進は出来ない)  なお、准海佐はスループ艦艦長に任命されれば二等海佐、フリゲート艦艦長やスループ艦の隊司令に任命されれば一等海佐となる。それ以外の者は全て准海佐であり、艦長でなくなれば一等海佐だろうが二等海佐だろうが准海佐に戻る。  ……とはいえ皆が皆艦長(副長)になれる筈もなく、多くは地上勤務か船に乗れても司令部要員等で、職すらない自宅待機も少なくない、というのが現実である。(正規の乗員でも、准海佐で軍艦副長や一等海尉で平士官もザラ)  蛇足ではあるが、フネに乗れねば各種手当――合わせれば基本給よりも多い――も加俸されず基本給のみ、自宅待機ともなればその基本給すら半額払いとなるため、皆必死で猟官運動をしているようだ。  <下士官>  何らかの専門特技を習得した者。 *3 ――――『……これは大陸同盟諸国、中でも隣国ロッシェル王国に対する重大な背信行為であった。』――――  ……実に暢気なことであったが、ロッシェル王国はこの時期になってもまだ領土の売却情報を掴んでいなかった。これは流石に恥を覚えたイルドーレ王国が売却を秘密としたこともあるが、それ以上に同王国に対するロッシェル王国の評価を如実に表していた。