帝國召喚 外伝「辺境警備隊隊長よもやま物語」 番外編「帝國今昔物語 『豆粥』」  今は昔、昭和帝の御世の話である。  タブリン邦王國は、一時期国権を剥奪され、帝國直轄領とされていた。  ……もっとも、タブリンが帝國直轄領であった時代は、ほんの十数年程の間に過ぎなかったが。  治安が回復し、官僚制度が有る程度整ったところで、帝國はあっさりと外交権以外の国権を手放した――旧タブリン王室に返上した――のである。  名目については、色々な理由付けがされているが、今一つはっきりとしない。  本音を言ってしまえば、『さしたる資源も無く、戦略上重要な拠点でも無い以上、持っていても無意味』と判断した――そんな所であろうか。  実はここ数年、この様な『贅肉落し』が頻繁に行われている。  不要な直轄領を邦國に格上げし、官吏と軍の大半を撤収させる。  浮いた官吏は、重要地域の直轄領の増員に回す。  浮いた兵力については、幾つかの平時編成の現役師団を、完全充足師団に格上げするための要員に。  ……まあこの様な帝國側の事情はさておき、こうしてタブリンは邦國となり、帝國諸邦の一員にその名を連ねることとなったのである。  邦國昇格に伴い、タブリン王には帝國子爵位が下賜された。 (規定通りならば、帝國伯爵位が下賜される筈であるが、直轄領から邦國に昇格したため、元からの邦國王と差をつけられたのだ) ――王都ダソレル。  王都では、タブリンの邦國昇格と國王の帝國子爵位授与を祝い、盛大な宴が繰り広げられていた。  帝國というひどく鷹揚な超大国は、直轄領時代においても決してタブリン旧貴族を蔑ろにせず、その身分と禄を保証していた。  それに加え、国政においても主要な地位――実際の政務は旧下級官僚が執り行ってはいたが――に就かせていたため、一体何が変わったのかよく分からぬ所もあったが、何れにせよ目出度いことに変わりは無い。  故に、数日に渡る王宮での式典が終わってからも、貴族達はこうして宴を繰り広げている。  彼等は、何の遠慮も無く豪華な料理を貪り、美酒を次々に飲み干す。 美食に至上の価値を見出すタブリン貴族、その健啖さは、帝國支配を経ても未だ健在の様だ。  が、如何な彼等とて、これだけの食を喰い尽すことは不可能である。  かなりの量の残飯が出ることは避けられなかった。 (そもそもタブリン貴族の宴において、『用意した食事が全て無くなる』という事態は、主催者にとってこの上ない恥辱である。  故に、残るのが『当たり前』の量が出されていたのだ)  これ等の『残飯』は、この宴、ましてや王宮の宴に招かれぬ様な軽輩の者共にとっては、格好の馳走であった。  残飯とはいえ、普段ではとても口に出来ぬ美食を、彼等は心の底から味わい尽くす。  ……そんな軽輩共の中に、『五位』と呼ばれる初老の男の姿があった。  男の名はヨハン・オウル。  これでもれっきとした、タブリン貴族の一人である。  まあ貴族といっても、この屋敷の主の様に、都の中心に1万坪を超える本邸を構える大貴族もいれば、この男の様に、都の外れの100坪程度の『東屋』に住まう下級貴族まで、実に幅が広い。  タブリンの下級貴族とは、領地どころか農園すら持てず、下級官吏として受け取る僅かばかりの俸禄を唯一の頼りに、狭い家屋敷を維持するのに汲々としている。――そんな存在であった。  このヨハンという男もそんな下級貴族の一人であり、長年の勤務の末、ようやく黒――薄黒ではあるが――の衣を着ることが許された下級役人だ。  ちなみに、タブリンの役人の階位は全部で十二あり、それぞれ着る衣の色が異なる。  上から順に、『紫』『青』『赤』『黄』『黒』『白』となっており、同じ色でも濃薄により上下の区別が付けられていた。 (当然、濃い方が薄い方より上)  『五位』という呼び名は、上記の位階を帝國風に言い表したものである。『紫』が一位、『青』が二位……といった具合で、『黒』なら五位だ。  ヨハンがわざわざ『五位』と呼ばれる理由は、『昇進を許されて『黒』の衣を下賜された際に泣くほど喜び、それをからかって』……という訳では無い。 (『白』から『黒』への昇進は、下級貴族にとって一大イベントである。泣いて喜ぶ者など珍しくも無いのだ)  この男が来ていた白の衣が、洗っても落ちぬほど薄汚れていたのが理由である。  ――衣が『黒く』薄汚れているから、『五位』  如何考えても、そこから好意的な響きは見出せない。何処となく嘲笑っている様な、そんな響きである。  このヨハンという男、決して悪人でも愚鈍という訳でも無い。  ただ、人から軽く見られる。 ……そんな風の男であったのだ。  ヨハンは、とある吸い物を堪能していた。  豆粥である。  豆粥とは、帝國産の『アズキ』という豆を水で長時間煮込み、これに高価な白砂糖――近年大分値が下がってきたとはいえ未だ貴重――を惜しみなく加えた粥のことで、タブリンでは天下の珍味として珍重されている。  ヨハンは、数年前にこの豆粥を食した――舐めた程度に過ぎぬが――その時から、この味の虜になっていたのだ。  ――この世に、かような佳味があったのか!?  それ程、ヨハンにとっては衝撃的な味だった。  以後彼は、豆粥に対して、並々ならぬ執着を示す様になる。 (この男が何かに執着するとは珍しいことである。余程気に入ったのであろう)  が、『アズキ』にしろ『白砂糖』にしろ、全て帝國から輸入された品であり、これ等を惜し気も無く使った豆粥は、非常に高価な品であった。  彼程度の俸禄では、到底手に入る代物ではない。  精々年に一度、この様な宴の際に残る余り物を一口か二口、口に出来る程度に過ぎなかった。  今回は、今までに無い大宴会だったせいもあり、豆粥が椀に半分ほども注がれている。  ヨハンは、それを一口どころか半口ずつ、愛しむ様に口に含む。  それは至福の一時であった。  が、所詮は椀に半分。終わりは直ぐにやって来た。  こんなに豆粥を口に出来たのは初めてのことではあるが、なまじ食したせいもあり、欲求は一層膨れ上がる。  ヨハンは名残惜しそうに、椀の底を眺めた。  他の者が帰っても、独り椀の底を眺め続ける。  そしてしみじみと呟いた。 「……ああ、一度で良いから、飽きるほど豆粥を食べてみたいものだ」  誰に言うでも無く呟いた、小さな小さな独り言である。  が、思いもかけずその言葉に対する返答が来たのだ。 「……ほう? 貴公は、豆粥に飽かれたことが無いのかな?」 「……ほう? 貴公は、豆粥に飽かれたことが無いのかな?」  振り返ると、いつの間にか直ぐ近くに、元服したばかりの年頃――十二〜三――の少年が座っていた。  が、その衣は役人のそれ。しかも薄青。 ……上級役人のものである。 「あ、こ、これは」  ヨハンは、まるで孫の様な年齢の少年に畏まる。 「……いやいや、そこまで畏まらないで頂きたい。  私はここでは『邪魔者』、空気の様に扱って頂いて結構」 「……しかし」  ヨハンは、突然の殿上人の襲来に、ただただ畏まることしか出来ない。 「貴殿の深い物思い、それを興醒めさせたことに対しては、内心忸怩たるものがある。 ……が、暫し匿っては貰えぬか?」 「は……?」  首を傾げるヨハンを余所目に、では頼んだぞと少年は部屋の影に隠れる。 「若様! 若様!」  それから直ぐに、この家の家令が大慌てでやって来た。  家令は、扉の近くにいたヨハンに声をかける。 「……青衣の御方を見なかったか?」  その言葉に、ヨハンは黙って首を振った。 「ええい! 何処へ行かれたのだ!?」  その返事に軽く舌打ちすると、家令は直ぐに部屋を出て行く。  後には、静寂だけが残された。 「……済まない。礼を言うぞ」  影から出てきた少年が、心底有り難そうに礼を述べ、頭を下げる。   ……その仕草は、横柄な大貴族からは想像もつかない。 「いやあ、あのまま捕まっていたら、一生が決まってしまう所であった。 ……本当に、都は怖いのう」  義兄上への祝いの言葉も述べたし、後は父上と姉上の御顔を見たらさっさと帰る積もりであったが、捕まってしまった、と笑う。  ヨハンは、少年を注視する。  少年の髪は黒、帝國人のそれだ。が、顔にはタブリン人の特徴も出ている。  帝國人とタブリン人の間の子、というだけでも珍しいが、このうえ上級役人になれる様な少年など、唯一人しかいない。  ナリマサ・ウェクスフォード。  ケネット地方の豪族であり、タブリン王臣下ながら帝國貴族――しかも譜代の帝國男爵位と帝國姓を持つ――でもあるという、タブリン唯一の『直参』だ。  新興貴族ではあるが、父は『帝國タブリン駐留軍司令兼タブリン領事長』、姉は『現タブリン王正室』であり、毛並みの良さも折り紙付きである。 (付け加えて言えば、王太子の叔父でもある)  ……成る程、この方がウェクスフォード卿ならば、この御年で上級役人ということも説明がつく。 「……ああ、名乗るのが遅れたな。私は、ナリマサ・ウェクスフォードだ」  少年の名乗りが、ヨハンの推察を肯定する。 「私は、ヨハン・オウルというものです。治部省の一部局で、事務を務めております」 「私は侍従……らしい。実際に務めたことが無いので、良くわからぬが」  侍従とは、国王や皇后などの側近役である。ヨハンなど足元にも及ばぬ高位高官の職だ。 (帝國風に例えれば、ナリマサが正四位上で参議、ヨハンが従七位下で治部少録といった所だろうか?) 「そうだ! 匿ってもらった礼をせねばならないな」 「いえ、その様な……」  ヨハンの遠慮を気にするなと切って捨て、ナリマサは何か真剣に考え続ける。 「……ヨハン殿は、確か『一度で良いから、飽きるほど豆粥を食べてみたい』と申していたな? その望み、私が叶えよう」 「いえ、それは……」 「何を申す! あれ程深刻な表情、私は見たことがないぞ?   では善は急げ、早速行こう!」 「…………」  黙り込んでしまったヨハンに気付いたナリマサは、心配そうに顔を覗き込む。 「お嫌かな? 無理強いはせぬが……」  嫌では無い。  が、降って湧いた幸運――まるで御伽話の様な――に、対応が出来ぬのだ。   今まで、幸運とは無縁の生活を送っていたが故に。  ……とはいえ、何時までもそうしてはいられない。  ヨハンは暫くの間、椀の底とナリマサを見比べて――普通の大貴族ならそれだけで怒り出すだろうが、ナリマサはさして気にしていない様だった――いたが、やがて振り絞る様な声で答えた。 「いえ…… かたじけのう御座います」 「任せて頂きたい!」  ナリマサはにっこりと笑った。  ナリマサとヨハンは、裏門からこっそりと抜け出すと、待たせていた自動車に乗り込む。 (まだ邸内に竜車があることから考えても、どうやら最初から抜け出す積もりだった様だ) 「やれやれ、やっと一心地ついた」 「……何故、逃げ出されたのですか? 貴方は、宴の主賓だった筈」  如何にも『やれやれ』といった表情のナリマサに、ヨハンは先程からの疑問をぶつける。 (ヨハンは、初めて乗る自動車――大貴族のステータスの一つ――に落ち着けず、何か話さずにはいられなかったのだ) 「公の娘御に、合わされそうになった」  だから逃げてきた、とナリマサはあっけらかんと答えた。 「……この年で、将来を決めたくは無い。王宮でも、女官共や令嬢方相手に、大変だったのだぞ?  義兄上も姉上も、笑って助けては下さらぬ。父上もだ!」  姉上方の時は、求婚者共をシロに追っ払わせた癖に、と憤慨する。 「……それはそれは」  確かに、その年で下心丸見えの女共を相手にするのは、些か辛かろう。 「やっと逃げたと思ったら、一難去ってまた一難!  それを、ヨハン殿が助けてくれたのだ。改めて礼を言うぞ」 「いえ、そのような……」  些か過ぎる感謝に、ヨハンも苦笑する。 「……所で、一体何処に行きなさる? もう都も外れですが?」  ナリマサの都の屋敷はとうに過ぎてしまった。 ……『六波羅』だろうか? 「いやいや、違いますな。『六波羅』ではありませぬ」  が、ヨハンの考えを察したナリマサが、首を振る。 「では?」 「ケネット。我が領地、ケネットです」 「ケネット!? ここから竜でも何日かかりますか!」 「……何、自動車ならば半日です」  ヨハンの驚きに、ナリマサは澄ました顔で答える。 「しかし、私には仕事も」  家人の心配もある。 「義兄上に一報を入れておく、『義兄上、貴方の官ヨハン・オウルを、義弟が暫く御借り致します』と! 家人には使者を出そう」 「……御願いです、それだけは止めて下さい」  というか、陛下まで巻き込まないで欲しい。  陛下→治部卿→局長→課長→室長と、話がカスケード状に広がってしまう!  ……今度、一体どんな顔をして職場にいけと?  そんな不安で心を痛めているうちに、もうかなりの距離までやってきた様だ。  周囲は一面、広い野原である。 「……この辺りに、夜盗は出ぬでしょうか?」 「何、来ても返り討ちよ」  そう嘯くナリマサ。  この自動車の前後には、護衛を載せた自動貨車が走っている。三八式歩兵銃で武装した彼等を相手に出来る夜盗など、タブリンには存在しないのだ。  更に進む。  やがて、見慣れぬ山々が辺りを囲み始める。 「……この辺りに、山賊は出ぬでしょうか?」 「夜盗は出ませぬな。 ……魔獣ならば出ますが」 「まっ魔獣!?」  その言葉に、ヨハンは腰を抜かす。 「ええ、ほら」  いつの間にか、周囲を黒い獣に囲まれている。  皆、体長は3メートル、体重も1トンはありそうだ。 「ひ、ひいっ」 「何、驚きますな。ただ挨拶に来ただけですよ」 「……あ、挨拶!?」  ナリマサが外に出ると、巨大な獣達が忽ち這い蹲る。 「御苦労、客人を連れて帰る所だ。 ……誰か使いに行ってくれぬか?」  ナリマサの言葉に、一頭の獣が咆哮すると忽ち姿を消した。 「これで良し。近道する分、使いの方が早く着くでしょう」 「いっ、一体!?」  訳が分からぬ事態に、ヨハンは混乱する。 「あの者達は、我が家の郎党です。  いざという時には、彼等も我が城に駆け参じ、鎧兜に身を包んで戦います」  この山々も、当家が彼等に与えたのですよ? と笑うナリマサ。  が、ヨハンは笑って済ませない。  ……ウェクスフォード家が、魔獣使いだという噂は本当だったのか!  あれ一頭で、一体どの位の戦力となるだろう?  つくづく敵に回したくない一族である。  こうして、ナリマサの居城に着くまで、ヨハンは驚愕の連続であった。  彼の常識は、ここ半日で音を立てて崩れようとしていたのだ。  ヨハンは、豪華な客間に案内されると、供された寝酒を震える手つきで飲み干し、無理矢理眠りに陥った。  目が覚めたら、『全てが夢だった』ということを半分望みながら。  朝が来た。  目が覚めると全てが夢であった――ということを期待していたが、残念ながら昨日の出来事は現実だった様だ。  ……その証拠に、背中が痛い。  余りにも柔らかなベット――体が埋まる――で寝たため、変な体勢で寝てしまったせいだ。  ベットから起き上がると、まるで監視でもしていたかの様にノックの音が響いた。  返事をすると侍女達が入室、礼儀を守りながらも手早く部屋を整えていく。  朝食を如何なさいますか? との問いに食べると答え、何処でなさいますか? との問いに『ここで』と答える。  侍女達は手早く部屋を整えると、一礼して退室していった。  しばらくすると再びノック。  今度は朝食だ。  午後の宴がありますので軽くしました、とのことではあるが、ヨハンにとっては贅沢極まりない食事である。  肉と卵がたっぷり入った麦粥に白パン、それに様々な種類の生野菜。 ……後は、何やら得たいの知れぬ液体の入った小さな深皿。  尋ねると、生野菜にかける汁らしい。  ははあ、御偉方が生野菜の味付けに使うという、あれか。  聞いたことはあるが、見たことは無かった。 (貴族の宴の際には、残っても料理人達が下げてしまう)  指につけて恐る恐る舐めてみると、想像以上に旨い。  故に、ありったけかける。  ……その一連の動作を見た侍女が、その時一瞬だけではあるが、僅かに表情を変えたのは御愛嬌であろう。  幸か不幸か、ヨハンは気付かなかったが。  さて朝食を終えて一息つくと、ようやく部屋の中を見回す余裕が出来た。  昨晩はとてもそんな余裕がなかったが、あらためてよく見ると、恐ろしく立派な部屋である。  ……さすが帝國貴族、金かけてるなあ。  そんなことをぼんやりと考える。  別に部屋が純金とか、そういう訳ではない。  一見簡素な部屋ではあるが、いかにも高価そうな材質がふんだんに使われており、目立たない所にさり気無く見事な彫刻が施されているのだ。 (もしかしたら、純金とは言わないまでも、純銀の部屋並に金をかけているかもしれない)  窓から外を見下ろせば、多くの使用人達が庭の手入れをしたり荷物の出し入れをしている。  偶に何やら小脇に抱えて歩いているのは、ウェクスフォード家の事務官だろう。  朝も早くから仕事か、御苦労なことで……  そこまで考え、ふと気付く。  ……そういえば、今日の私の仕事は!?  下手をすれば無断欠勤である。  まあ、ウェクスフォード家の方から何らかのフォローがあるだろう――念のために確認する必要がある――が、それはそれで別の意味で拙い。  あの少年のことである。冗談抜きで直接国王陛下に伝えている可能性があるのだ。  侍従長『陛下、ウェクスフォード卿より通信です。“義兄上、貴方の家臣のヨハンを少々御借りします”とのことですが』  国王『……誰だ、それは?』  国王の疑問に、控える文武百官が一様に首を捻る。  侍従長『ヨハン・オウルという名の、治部省の官らしいのですが……』  治部大臣『……聞いたこともありませぬな? 至急確認しましょう』  各局の長達を集めて問うが、矢張り判明せず、更にその下の長達を呼ぶ……  その場面を想像して、ヨハンは頭を抱え込んだ。  確かに仕事は休めるだろうが、どんな顔をして職場に戻れば良いというのだろう?  元来気の小さいヨハンにとっては、とても耐えられない状況である。  その後暫く、ヨハンは己の想像上の出来事にのたうち回った。  宴の用意が整ったことを告げに来た侍女が見たものは、一人のたうち回るヨハンの姿であった。  が、彼女はその様子を完全に無視し、あくまで丁重にヨハンに宴の用意が整ったことを告げる。  ……それはもう、ヨハンが居た堪れなくなる程に。  宴は盛大だった。  まず、魚と肉の燻製の薄切り、魚卵の塩漬けや酒蒸し、魚や肉の練り物等の前菜。  次いで、数種類のスープと、『汁』を添えた生野菜。  魚を数種類の方法――フライ、シチュー、ムニエル、グラタン、クロケット――で調理したもの。  肉を数種類の方法――カツレツ、シチュー、ステーキ、ハンブルグステーキ、クロケット――で調理したもの。  そして卵をふんだんに使った卵料理(オムレツ)。  贅沢にもこれ等を少量ずつ、最も上等な所だけ分けて食すのだ。もっと食べたいが、小心なヨハンにはとてもそれを口に出せない。 (残りを如何するのかも、気になって仕方がない)  白パンも、ナッツや香草を練りこんだ、恐ろしく手間をかけたシロモノである。  酒が高価なのは、言うまでも無いだろう。  正直、それがどんな料理か分からないが、『それぞれが恐ろしく手間暇と材料をかけたものである』ということだけは分かる。 (そして料理とは、手間と材料をかけるほど、金がかかるものなのだ。一体幾らかけた――それも自分一人のために――か、想像するだに恐ろしい)  味も美味い。  今まで食べたことのある御馳走――宴の冷え切った残り物――など、比べることすらおこがましい程だ。 (緊張していなければ、もっと美味かっただろうが)  それにしても、これだけの種類の料理を、自分一人のために提供するとは!  ウェクスフォード家の財、恐るべしである。   ……自分如きに馳走するその感覚は、更に恐ろしかったが。  そして最後に、本来のメインである豆粥が出された。  豆の姿が分からぬ程磨り潰された豆粥、豆が完全に汁に溶け込んだ豆粥、豆の姿がごろごろしている豆粥……  本来ならば餅などを加えるのだが、豆粥本来の味を味わって貰うため、他に何も加えていないそうだ。  夢にまで見た豆粥、それが湯気をたてて並んでいる。  豆粥が小皿に盛られ、恭しくヨハンの前に運ばれる。  自分のために作られた豆粥。勿論、好きなだけ食べて良いのだ。  ……が、 「いや、もう、十分です。 ……大変申し訳ないが、十分です」  ヨハンは泣きそうな声で小さく呟いた。  今までの食事で、もういっぱいいっぱいだったのである。  穴があったら入りたい、とは正にこのことであろう。  ――腹の配分も考えず、肝心の豆粥の前に腹一杯になるとは!  その情けなさといったら、例えようも無い。  ナリマサは気の毒がったが、それが一層情けなさを煽った。  ……その様な訳で、こうして肩を落として帰宅している。  あれから都まで送って貰った後、流石に家まで送って貰う訳にはいかぬ――隣近所の注目の的だ――ので、そこで断ったのだ。  が、代わりにこの竜をくれた。 (騎乗用の小型地竜で、通常100s程度、無理しても150s程度しか載せられないが、『燃費』は良いし、大人しくて扱いやすい種の竜だ)  自分と御土産を載せているだけなので、自分の気分と比して、竜の足取りは軽い。  ……家人に、一体なんと説明したら良いものか。  きっと呆れられるだろうが、まあそれも仕方が無い。  何しろ何の断りも無く、数日間も家を空けたのだから。  職場でも、噂の的だろうな。  それを考えると、正直頭が痛い。  が、それでも何とかやっていかねばならないのだ。  生きるために。  夢の様な非現実的な出来事は終わりを告げ、直ぐに現実がやって来る。  御土産に豆汁の材料(小豆と白砂糖)も貰ったが、これはヨハンの口には入らない。  もう直ぐ下の娘の嫁入りで、何かと物入りの時期だ。売られて幾ばくかの銭になるであろうことは、間違いが無いだろう。  この竜も、持参金代わりになる可能性が高い。  ……つまる所、夢の産物は全て消えてしまうのだ。  まあ良いさ。あんな夢の様な出来事など、直ぐに忘れてしまうに限る。  職場はともかく、家人には『急な仕事でケネットに行った』と、誤魔化す必要があるだろう。  土産はその礼だ。  ウェクスフォード家での出来事を、根掘り葉掘り聞かれたら敵わないからな。  苦笑する。  そう、あれは忘れるべき夢なのだ。  自分には縁も縁も無い世界、その一端を偶然覗いてしまった――ただそれだけだ。  そう固く心に決めると、ヨハンは屋敷の門をくぐった。  さてその後のヨハンであるが、ケネットから帰って暫くの間、原因不明の下痢に悩まされたという。  ……粗食に慣れたヨハンの胃腸にとって、ケネットで食した高栄養の料理は、かなりの打撃だった様だ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『豆粥 秘話』  ――ケネット。  ウェクスフォード家の本拠地として、現在急発展中の町である。  帝國の建築家を招き計画的に建設されたこの町は、他地方の雑多な町々の中で異彩を放っており、その殷賑振りと合わせて『小王都』とすら評される程だ。  ウェクスフォード家の本邸はケネットの町の中心、その小高い丘にある。  丘全体を広く深い堀で囲んだ総石垣造りのそれは、本邸と言うよりも『城』そのものだ。  丘の周辺はウェクスフォード家家臣団の居住区や直営の畑、森林で囲まれている。  更にその外周を一般市民の居住区や商業、工業区が囲んでいた。  それは正に、城下町の姿であった。  さて、客のヨハンは直ぐに寝てしまったが、当主たるナリマサはそうはいかない。  留守を預かるサーナにヨハンのことを説明する必要があるし、王都での活動を報告――遊びにいった訳ではない――しなければならないのだ。  サーナはことの次第を息子から聞くと、頷いて尋ねた。 「では、どうなさる御積りです?」 「はい、折角来て頂いたのです。  我が家が恩には礼をもって報いることを国中に示すためにも、そして我が家の力を見せ付けるためにも、盛大にもてなそうかと」 「……具体的には?」 「客人の目の前で高価とされる豆汁を大釜一杯に作り、作りたてをお食べいただきます」  その言葉を聞いたサーナは、いかにも『頭が痛い』とばかりに額に手を当てながら、息子を諭す。 「……ナリマサ。貴方は少し、いえ大きな考え違いをしています」 「というと?」 「貴方の考えは鄙者のそれです。  それでは成り上がり者丸出しではありませんか」  品が無さ過ぎます、と嘆く。 「これは母上の御言葉とは思えませぬな!  力を見せるには、圧倒的な物量を見せ付けるのが第一かと愚考いたしますが?」  が、流石に母に『鄙者』などと言われては黙っていられない。すかさず反論する。  少年には、元服を済ませて名実共にウェクスフォード家の当主になったという意気込みがあるのだ。  母はそんな血気盛んな息子の様子を見て、内心で大きな溜息を吐いた。  生まれた時から多くの家臣に囲まれ、日の出の勢いで急成長するウェクスフォード家しか知らない息子にとって、その力を喧伝するのは当然であり義務だとでも考えているのだろう。  (その点、放浪時代を知っている二人の姉は違う。彼女達は実に慎ましいものだ)  加えてタブリンにおける『帝國の代理人』を実父に持ち、自らもタブリンにたった二人しかいない『帝國直参』――もう一人はタブリン王――の一人。  ――ウェクスフォード家こそ、タブリン第一の家なり!  そう気炎を上げるのも、ある意味仕方ないのかもしれない。  ……が、それでは困るのだ。  所詮ウェクスフォード家は新興勢力であり、その足元は未だ不安定。  当主たる者はもう少し冷静になる必要があるとサーナは考えていたし、何よりも増長した息子を見たくなかったのである。 「……それにヨハン殿のことも考えて御覧なさい」  サーナは搦め手から攻めることにした。 「?」 「貴方の御話によれば、ヨハン殿は豆汁に格別の思い入れがある御様子」 「私もそう見えました」 「ならば、見せ付けるような卑しい真似は慎むべきではないですか?  貴方がしようとなさっていたことは、ヨハン殿が大切にしていた思いを壊し、侮辱するも同然のことですよ?」 「! それは……」  ナリマサは指摘された事実に愕然とする。  ……違う、そんな積もりじゃあなかったのだ。 「ナリマサ、殿方の面目を潰すような真似をしてはいけませんよ」 「はい……」  項垂れて返事をするナリマサ、その様はサーナに叱られて項垂れるシロそっくりだ。  (いや、どちらかといえばナリマサが似たのだろう。シロはナリマサの傳役でもあったのだから) 「では、母上は如何なされば良いと御考えですか?」 「……そうですね。豆汁にも様々な種類があります。  それらを一椀ずつ丁寧に作り上げ、お出ししなさい。無論、他の御料理もです」  料理は帝國式が良いでしょう、と付け加える。  つまり、通常の貴人に対するもてなし方で良いということだ。 「成る程、分かりました」  自分の考えを理解してくれたナリマサを見て、サーナは穏やかに微笑むと本題に入った。 「ではこの話はここまでにしましょう。次は都でのことを御聞きしたいのですが?」  サーナは王都でのナリマサの『公務』を途中まで黙って聞いていたが、やがてドニゴール公の屋敷から抜け出した件まで来ると、サーナは頭を抱えて蹲ってしまった。 「……では貴方はドニゴール公の招待を受けておきながら、途中無断で抜け出したというのですか!?」 「はて? 先のヨハン殿の際に既に御話したと……」 「聞いてはいませんよ。ただ『大変世話になった御人』としか」 「そうでしたか?」 「……ナリマサ、そこに御座りなさい」  どうやら長い御説教になりそうな雰囲気である。 「貴方はドニゴール公の招待を受けたのですよ?  しかも話によれば、貴方は主賓らしいではないですか!」  主賓に逃げられたドニゴール公は、さぞや面目を潰されたことであろう。  ……しかも他の客人達の眼前で、だ。 「貴方が元服前ならば、或いは笑って済んだやもしれません。  が、貴方は既に元服を済ませた大人、しかもウェクスフォード家の当主なのですよ?」  ことはウェクスフォード家とドニゴール家の問題でもあるのだ。 「しかし、あのままでは公の娘御にまで会わされそうになったのですよ!?」 「……ならば貴方は、その姫君の面目まで潰したのですね」  お気の毒に、と顔を顰める。  ドニゴール家の受けた屈辱は相当なものだろう。  宴が気に入らぬと主賓に逃げられた上、娘まで『会いたくない』と侮辱されたも同然――結果的にそうなる――なのだから。  流石のナリマサも拙かったかと思い始めるが、やはり結婚は嫌なので尚も反論を試みる。 「しかし…… あのままでは……」 「良いではないですか、婚約なり結婚なりなされば」  ドニゴール家の姫君が御相手なら目出度いことです、と言う。  無論、本音ではない。  彼女は『ナリマサの正妻には帝國人貴族の娘を』と考えている。  帝國との繋がりが売りである以上、帝國人の血は濃いに越したことが無いからだ。  が、ナリマサにそこら辺の機微は分からないだろうと、当たり障りの無い言葉を選ぶ。 「母上!」 「……ナリマサ、貴方は一体誰ですか?」 「は?」 「貴方はウェクスフォード家の当主ですよ?」  一家の当主たる者、家の利益になる行動をとらねばならない。  そこに個人の好き嫌いなど関係無いのだ。  無論結婚も、である。  そうやって家を繁栄させ、その果実を家臣にも分け与えるこそ、家臣達も付いてくるのだ。  ましてウェクスフォード家は新興勢力である。積極的に既存勢力と結びつかねばならないだろう。 「……どうやら、少し自由にさせ過ぎた様ですね」  未だ納得出来ない様子のナリマサを見て、サーナは軽く溜息をついた。 「まだ早いと考えていましたが、貴方に妾をつけましょう。  が、妾とはいえ豪族の娘です。大切になさい?」  そして子をもうけるのです、という。 「母上!」  堪りかねたナリマサが叫ぶが、サーナは厳しい声で抑え付ける。 「これは誓約、義務なのです」  豪族は、ウェクスフォード家に臣従する代わりに実の娘を当主の妾とする。  ウェクスフォード家の当主は豪族の娘を妾とし、子を為す。  子は長じて豪族の当主となり、豪族はウェクスフォードの一門となる。  只の臣下になるのではない。御一門、親族となるのだ。  これは最も平和的な臣従の形態であろう。 「…………」  それが分からぬナリマサではない。  が、理解は出来ても納得は出来ない。 「……母上、その様なことが許されるのですか?  相手の娘も気の毒ではないでしょうか?」  ナリマサの搾り出す様な質問に、サーナは軽く微笑んだ。 「貴方がそう思うのならば、その娘を愛しておやりなさい。  いえ、これからも同じ様なことが何度もあるでしょう。  皆同じ様に愛し、慈しんでおあげなさい」  そうすればその誠意は必ず伝わるでしょう、とサーナは言う。 「未だウェクスフォード家は磐石ではありません。足元を固める必要があるのです。  家臣に領民……貴方の双肩には、多くの人達の生活が懸かっているのですよ? それを忘れてはいけません」 「……はい」 「宜しい」  その言葉を聞き、サーナはにっこり笑って答えた。 「ですが、ドニゴール公の件は……」 「ドニゴール公には、御父様が御詫びするそうです」 「!?」 「貴方が帰る前、御父様から連絡がありました」 「……では、母上は全て……」  絶句するナリマサ。  母は全てを最初から把握していたのだ。  『帝國の代理人』たるナリマサの父が公衆の面前で公に頭を下げることにより、この件は『済んだこと』とする。   ……覆水盆に返らずで、さすがに無かったことにはできないが。  そして、あらためて此方から公の娘を所望するのだ。  公が如何出るかは分からぬ――十中八九受けるだろう――が、少なくともこれで公の面目は立つ筈だ。  が、代償は大きい。  タブリン人である公の娘を正妻にする以上、帝國人の娘は第二夫人格とならざるをえない。  当初の想定よりも、かなり格下の家の娘を娶る羽目になるだろう。  今後の発展に大きな支障が出かねないし、後継者問題も起こりかねない。  ……今更言っても詮の無い話ではあるが。 「父上が頭を下げられるのですか!? 公衆の面前で!!」 「全ては貴方の過ちを償う為にですよ?」 「父上……」  自分のしでかしたことの重大さに、愕然とする。  (最も父の方は、『何、息子のためさ』と笑っていたが) 「……夜も遅くなりました。もう部屋に戻りなさい」  そんな様子を見かねたサーナは、ナリマサを促して部屋に帰す。  後には、静寂だけが残った。 「……御免なさい」  ナリマサがいなくなり、一人だけになった部屋でサーナは呟く。  僅か十三で、一家の責務を負うのはさぞ辛いだろう。  全ては自分のせい、自分がウェクスフォード家の出でなければ……  今頃は気楽に暮らしていただろう。  今の夫と再婚――厳密には結婚はしていないが――した後、それを知った多くの旧ウェクスフォード家の郎党が自分を頼ってやって来た。  ウェクスフォード家の者として、そんな彼等を見捨ててはおけなかったのだ。  彼等の窮状を救うため、サーナはウェクスフォード家の再興を決意する。  サーナにとって、それは何よりも優先すべき義務だったのだ。  ……自分の感情よりも。  幸い今の夫は笑ってそれを許し、積極的に協力してくれたが、申し訳ないことをしたとも思う。  結果、ウェクスフォード家は以前とは比べ物にならない程大きくなった。  が、その代償として自分はとうとう正規の結婚ができなかったし、今も夫と離れて暮らしている。  ……自分はいい。自分はかつてのウェクスフォード家、その最後の義務を背負った世代なのだから。  痛恨の極みは、その義務を子供に継承させてしまったこと。  ナリマサを筆頭に、子供達はそれぞれ義務を遂行しなければならない。子々孫々に至るまで。  それが何よりも痛かった。