帝國召喚 外伝「辺境警備隊隊長よもやま物語」 【21】 『皇室儀制令 第四章 宮中席次  第二十九条 文武高官有爵者優遇者ノ宮中ニ於ケル席次ハ特旨ニ由ルモノヲ除クノ外左ノ順位ニ依ル    第一階 第一  大勲位              一 菊花章頸飾               二 菊花大綬章        第二  内閣総理大臣        第三  枢密院議長        第四  元勲優遇ノ為大臣ノ礼遇ヲ賜ハリタル者        第五  元帥国務大臣宮内大臣内大臣……………………』  え〜と……  陸海軍大将が第10、公爵が第16で第一階、  陸海軍中将が第19、侯爵が第22で第二階、  陸海軍少将が第24、伯爵が第28、子爵が第31、男爵が第36で第三階、  陸海軍大佐が第41で第四階、  陸海軍中佐が第46、大騎士爵が第50で第五階、  陸海軍少佐が第52で第六階、  陸海軍大尉が第56、騎士爵が第58で第七階、  陸海軍中尉が第60で第八階……か。  つまり、大将>公爵>>中将>侯爵>>少将>伯爵>子爵>男爵>>大佐>>中佐>大騎士爵>>少佐>>大尉>騎士爵>>中尉……ってことだよな。  男爵は少将より下、大佐より上か。けど、少将と同じ第三階だから『陸海軍少将ニ準ズル』とする。  げっ、タブリンの総督や地区司令より上だよ……参ったなあ……  ――長野県軽井沢。  風流な避暑地。連なる富豪達の別邸。  その中でも一際巨大な邸宅に、黒部大尉はいた。  だらしなくソフアーに座りながら、何やら分厚い本を読んでいる。 「あ〜」  が、直ぐにソフアー前の台に放り、大きな欠伸を一つ。  本の表紙には、『帝國貴族心得 宮中関連法編』という題名が印刷されていた。  現在、この大邸宅は新男爵家当主達の『学び舎』となっている。  彼等の集中教育――『詰め込み』とも言う――を行うため、政府が借り上げたのだ。 (無論、ここでなく軽井沢周辺の邸宅が複数借り上げられている)  その教育内容は、『一般教養』『貴族としての一般知識』『貴族としての礼儀作法』『貴族としての心構え』等、多岐にわたる。  『最低限の』との枕詞が付くはいえ、これ等全てを短期間の内に叩き込まれるのだ。  ……尤も同じ『最低限』とはいえ、男爵のそれと大騎士爵、ましてや騎士爵のそれとは次元が異なる。  求められているレベルが違い過ぎるからだ。  男爵に対するそれは、はっきり言ってスパルタである。  まあその男爵様だからこそ、軽井沢の豪邸――他はもっと簡素だ――で集中教育が行われているのだが…… (ちなみに軽井沢に集められたのは、関東甲信越に本籍があった新男爵のみ。  他地域の新男爵には、他の場所で同様の詰め込み教育が行われている) 「あ〜 こんなに頭を使ったのは、一体どれ位振りだろう?」  故に、黒部大尉も根を上げている。  ……しかし、とても将校とは思えない台詞である。  タブリンでどんなに堕落した生活を送っていたかが、よく分かるというものだ。  とはいえ、黒部大尉はまだ恵まれている。  大学出であることから『一般教養』については免除されているし、曲がりなりにも現役の帝國陸軍将校であることから、『貴族としての心構え』や『貴族としての礼儀作法』についても大分簡略化されているからだ。  まともに学ぶのは、『貴族としての一般知識』位であろう。  が、『貴族としての一般知識』は膨大だ。  自家の歴史から始まり、帝國主要氏族や貴族の歴史を学び、  宮中の歴史やしきたり等を学び、  皇族や貴族に関する諸法制度を学ばねばならない。  口で言えば簡単だが、その内容は膨大でとても一朝一夕で学べるものでは無い。  ……ましてや、こんな最大でも半年程度の集中講義では。   帝國とて、それ位は理解していた。  が残念ながら、教育を担当する宮内省は『お役所』である。  故に、些かの手も抜かず――彼等に言わせればこれでも大分削ったのだろうが――に、『最低限必要と思われる』男爵用教育課程を作成した。  無論、これに対する異議は少なからず存在した。  が、『最初が肝心』『男爵になって浮かれている連中に、冷や水を浴びせる』という意見に押し切られ、結局そのまま沙汰止みとなってしまったのである。  新男爵達は、この教育課程を見て唖然とした。  彼等の中には、学問などとは無縁の生活を送っていた者も少なからず存在する。  ……そんな彼等に対し、この教育課程は明らかに無謀だった。 「……申し訳ない。これはどう解くのでしょう?」  先程まで向こうのテーブルで勉強していた、如何にも腰の低そうな中年の男性が、如何にも申し訳なさそうに黒部大尉に尋ねる。 「ああ、ここは……」  この中年男性、やはり新男爵の一人であり、名を巨勢信道という。  巨勢家も黒部家同様、元旗本の出である。  幕臣二万三千六百余家で旗本は凡そ五千二百家、うち三千石以上の家は僅か二百五十余家に過ぎない。  しかもこの二万三千六百余家という数は、あくまで幕臣――つまり士のみの数であり、士以外の者を含めれば総数は更に膨れ上がるのだ。  この様に、三千石以上の大旗本なぞ数える程度なので、もしかしたら御先祖(曽祖父あたりか?)同士は良く見知った仲なのかもしれない。  いや、縁戚関係すらあった可能性も充分にあり得る。  ――以上は、ここに来て初めて知った知識ではあるが、そうと知ると不思議と親しみが湧く。  江戸時代といえば遥か昔のように思っていたが、良く考えてみれば御一新から未だ七十七年足らずで、江戸時代に生まれた人々は未だ健在なのだ。  当時を覚えている老人――九十前後――すら、僅かながらも存在する。  故に、この巨勢とも直ぐに親しくなった。 「いやあ、有難う御座います。流石、大学出の秀才さんは違いますねえ」 「ええ、まあ……」 曖昧に笑う。  巨勢の尋ねた問題は、中学(旧制中学)でも初年度レベルの問題だった。 (彼は尋常小学校しか出ていなかったのだ) 「いやしかし、それにしても黒部さんが羨ましい。  御本人は大学出の上、金鵄勲章を頂く様な立派な将校様。  御実家も地主様だ。今直ぐ男爵様になられても通用しますよ。  ……それに引き換え」  巨勢はそう言うと、溜息を吐いた。  現在の巨勢家は、一家で小売業(個人商店)を営んでいる。結構流行っているそうだ。  ……いや、正確には『流行っていた』だ。  今回の叙爵により、店を畳む羽目になったのだ。  一時金は、身の回り――最低限必要な衣服等――を整える資金に消え、  店兼自宅は、廃業補償金と共に、帝都郊外――周りは田園が広がる田舎だ――に屋敷を用意するための資金として消えた。  結局手元に残ったのは、新らしく手に入れた二百坪強の小さな屋敷(建築中)と、今まで蓄えてきた貯金だけだそうだ。  職すら失い、『途方に暮れていた』というのが正直なところだろう。 (公社への就職を斡旋するとも聞くが、今まで自由業だった人間が急に宮仕えなど出切る筈も無い。かえって不安を煽るだけだ) 「おまけに、この年で手習いですよ」  そう言って苦笑する。  彼は尋常小学校出なので、まず一般教養から始める必要があった。 (例えば各家の歴史も、帝國史そのものを詳細に知らねば無意味) 「大丈夫ですよ。『最大で半年の講習』ということは、ようするに『形だけ』です。  政府としても、本気でどうこうとは考えていないでしょう。  本気で鍛えるのは、むしろ私達の次の世代からでしょうね」  黒部大尉は、慰めているのかどうか良く分からぬ言葉をかける。  ……もう少し、言い様は無いのだろうか? 「まあ私は良いのです。けど、子供達が心配ですよ。 ……学習院で、上手くやっていけているだろうか?」  巨勢は、黒部大尉の『本気で鍛えるのはむしろ私達の次の世代から』という言葉に、一層肩を落とす。  彼の子供達は、尋常小学校から『やんごとなき方々』の子弟が通う学習院に、強制転校させられたのである。  新男爵の子弟達は、寮住まいの上厳しく教育されているそうだ。 「他に同じ様な仲間達がいますから、大丈夫ですよ。  きっと今頃、皆で頑張っているでしょう」 「……だと良いのですけど『あ〜! もうやってられねえ!』ねえ」  そんな時、怒鳴り声が部屋に響き渡った。  見ると、先程から教本を広げていたもう一人の男が爆発した様だ。 「阿部さん、どうしたのです?」   「巨勢さん、黒部の旦那、もうやってらんねえよ!  何で大工の俺が、こんな勉強しなけりゃあならないんだい!」  この男、名を安部という。  阿部家は某藩の家老格の家柄だそうで、現在は大工となっている。  大工といっても、棟梁の様な一家を構える存在では無く、腕一本で渡り歩く雇われ大工だ。 「……阿部さん、もう阿部さんは大工じゃあないんだよ」 「へっ! 俺から大工を取ったら、一体何が残るって言うんだい!?」  こちとら小学校すら満足に出ていないし、家は借家。その日暮らしで貯金もねえよ――と笑う。 「巨勢さんや、黒部の旦那とは違うのさ」 「頑張ろうよ、阿部さん。  家屋敷は御国が貸して下さるし、職も世話して下さるそうだ。  今までよりも、ずっと安定した生活が送れるんだよ?」  確かに、その日暮らしの今までよりはずっと良くなる筈だ。  何せ、御国が面倒を見てくれるのだから。  が、折角の巨勢の言葉も阿部の耳には届かない。  安部としては、今までの様な気楽な生活の方が良いのだ。  こんな規制されてばかりの生活なんか、真っ平御免なのである。 (大開発のため、大工が引く手数多なのも、この態度を後押ししている。  大工の待遇、特に給与は鰻上りなのだ) 「安部さん。勉強はしなくとも、せめて貴族の権利と義務に関することだけは、覚えておいた方が良いと思うよ?」 「……そうは言うがね、旦那。法律のことなんか、とんと分からねえよ」 「暗記するんじゃあなくて、意味を大体理解出来れば良いのですよ」 「頭なんて、生まれてから碌に使っちゃあいないですからねえ」 「自分のためじゃあない。子供のためですよ」  お子さん、いるんでしょう? と尋ねる。 「…………」  いる。自分なんかには勿体無い様な、出来た息子と娘が。  今頃は、巨勢の子供同様に学習院の寮で暮らしている筈だ。 「お子さん達に、何か残してあげたいでしょう? ……なら、頑張らないと」  阿部は、俯きながらも頷いた。  御一新後、多くの名門は没落。庶民にまで身を落とす――黒部家などまだマシな方――ことになった。  これ等旧名門の復活までは、長い年月が必要とされるだろう。  ――その時、果たして本当に、帝國は貴族という存在を必要としているのだろうか?  黒部大尉は、そう疑問に思わずにはいられなかった。  今回の叙爵。それは考えてみれば、全て成り行きからだった。  大陸での統治にあたり、帝國は特例を乱発し、諸王達に爵位を与えて帝國諸侯とした。  この結果、帝國貴族の数は大いに増え、『特例』は特例でなくなった。  故に、貴族制度の改正を迫られたのだ。  そのついでに、直轄領の豪族に与える手頃な爵位を欲した。  故に、貴族制度改正の際に新設した。  そして新設した爵位の価値を高める――大陸人専用では有り難味が薄れる――ため、帝國人にもその爵位を叙爵した。その際の成行き上、男爵まで増やした。  結果、帝國人貴族は急増する。  乱造した爵位の価値を守るため、帝國人貴族達に『体面の維持』を保つこと強制した。  それが帝國人貴族の一層の困窮に繋がり、彼等に対する支援を行わざるを得なくなった……    要は、全て『大陸政策上の要求』から始まり、それがここまでエスカレートしたのである。  故に、『名門の貴族化により、大陸統治を容易にする』という、帝國の表向きの説明は真実とは言えない(嘘ではないが)。  単に、大陸有力者を手懐けるための餌として、新たな爵位を欲しただけなのだ。  そして、餌である爵位の価値を守るために、『この様な無茶をした』というのが真相だろう。  帝國にとり、『旧名門の復活』など、それ程重要なことではなかったのだ。 (新たに貴族を増やしたとしても、無教養の彼等を、直ぐに交渉などの場に使える筈もない。  どうにか使い物になるのは、その子供――正規の教育を受けた――の世代から、少なくとも20〜30年以上先の話であろう。  そして本当に使える様になるのは、その更に次の世代、正規の教育を受けた子の次の世代――つまり孫の世代からである。  優に半世紀はかかる話なのだ)  この事実が物語ることは只一つ、『帝國が大陸進出とその統治を最重要視している』ということである。  最早大陸の支配領域は、帝國の生命線――何が何でも維持すべき地となっていたのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【22】 「典礼参謀、ですか?」 「そうだ。お前も、何時までもあんな辺境(タブリン)にいたくはないだろう?」  黒部大尉の戸惑いの声に、陸軍人事局の中佐は含み笑いを浮かべる。  ……この中佐、実は黒部大尉をスカウトしに来たのである。  今回の貴族制度改正により、帝國貴族の数は大幅に増えた。  が、それでも男爵以上の貴族は僅か1600家程度。  帝國の人口が約8000万人だから、5万人に1人の割合だ。  成人男性に絞っても、その1/4の1万2〜3000人に1人程度だろう。  つまり帝國陸軍100万人の内、男爵以上の爵位保持者は80人前後しかいない計算――実際はもう少し多い――になる。  ――少ない資源は、有効に活用せねばならない。  そう考えた陸軍は、数少ない爵位保持者を積極的に活用しようとしていた。  下手に大陸における交流が多い分、彼等の存在は必須だったのだ。   「しかし、何故わざわざ中佐殿が?  自分も軍人ですから、命令とあれば否応ありませんが?」  遂に来るべきものが来たか、と覚悟しつつも首を捻る。 「何、お前が特別と言う訳じゃあないさ。 ……いや、失礼。お前は『特別』だ。  だが、今回はそれとは違う」  典礼参謀になるということは、通常の軍人コースから外れることを意味する。  故に、流石の軍も強制は出来ないのだ。  (それだけ余裕がある、とも言える) 「お前の場合、転科という形になるんだよなあ」 「転科?」  中佐の言葉に、黒部大尉は一層首を捻る。  従来で言えば、黒部大尉は歩兵科である。  が、昭和15年をもって、兵科区分――歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵の区分――は廃止された。  現在、固定された兵科区分なんてものは、存在しないのだ。  故に、転科する科などありはしない。    ……しいて挙げれば、憲兵科位だろうか? 「あ〜、つまり、だな? 典礼参謀は、兵科将校じゃあ無いんだよ」  中佐は、そうバツが悪そうに説明する。  最近の軍改編に伴い、技術部、衛生部、衛生部、獣医部、法務部、軍楽部の他に、典礼部という部が正式創設されたのだそうだ。  ……そこに移れ、ということらしい。 「あ〜、確かに規模は小さいが、出世は早いぞ?」  ……そのせいで兵科から追い出されたのだけれどな、と中佐が小さな声で付け加えたのを、黒部大尉は聞き逃さなかった。   「軍人として、兵の指揮権が無くなるのは痛いだろうが、手当ては付くし出世は早い。しかも毎日が酒宴だ」 「酒宴?」  典礼参謀と一口にいっても、現地に赴いて連絡調整を行ったり交渉したりする者もいれば、裏方(司令部)で助言に徹する者もいる。  ……と言うよりも、裏方の法が多い。  中には調略等の対外工作を担当する者もいるが、そんな者は圧倒的な少数派だ。 (典礼参謀として有名な有馬中佐の行動は、典礼参謀というよりも、むしろ陸相直属の対外工作機関の長としての面が大きい。  要するに彼の場合、典礼参謀という身分は仮の身分とも言えるのだ。事実、後に彼は兵科将校に復帰することになる) 「お前の場合、爵位持ちだから文句無しに『外働き』だ。だから、毎日が酒宴だぞ?」  と、中佐。 「典礼参謀は、全員爵位持ちでは無いのですか?」 「……おいおい、陸軍に一体何人の華族(男爵以上)がいると思ってるんだ? とても足りんぞ?」    しかも、全員が全員、典礼参謀になるとは限らない。  何も対外交渉に当たるばかりが、典礼参謀の仕事ではないのだ。  現地の風俗風習、有力者のこと等を調べ、司令部で助言に徹するのも無くてはならぬ仕事だ。  ……そしてこのような裏方には、爵位などいらない。 「そんなに少ないのですか? しかし、大騎士爵や騎士爵も加えれば……」  男爵以上は1600家足らずだが、大騎士爵は約3800家、騎士爵に至っては1万8000家以上も存在する。 (ちなみに以前は、男爵以上が1000家足らず存在した程度)  が、中佐は吐き捨てるかの様に答えた。 「騎士爵なぞ使い物にならん。大騎士爵でも微妙だ」  今後、新たな地で貴族を相手に対する可能性が高いことを考えれば、最低でも男爵位が必要だ。  ……とはいえ、無い袖は触れない。  故に、止むを得ず大騎士爵も採用しているが、ドサ周りにしか使えない――それでも大分マシになるが――だろう。  無論、騎士爵は対象外だ。  たかが騎士程度では、使い物にならない。  『最低でも男爵』という言葉に、混乱される読者も多いと思う。  何せ、帝國男爵と言えば邦國の王に匹敵する程の爵位である。只の男爵とは訳が違うのだ。 (多くの読者が帝國男爵と聞いて想像する姿は、王冠を戴く王の姿だろう)  ――が、それはあくまで後世の感覚である。  この時期、帝國男爵の対外的な地位は、その支配地域ですら未だ完全には確立していなかったのだ。  さて、この世界における男爵そのものの地位は、一体どの程度のものなのだろう?  それには先ず、他の爵位とも比較する必要がある。  無論、時代や地域、国によって変化はあるが、極簡単に言うと、以下の通りだ。  まず、貴族の基本は何と言っても伯爵である。  伯爵は、城持ち――と言っても砦程度の規模だが――の領主であり、城周辺の幾つもの村を領有している。  そして戦時には、本人の他に多数の郎党――従騎士、兵卒、従卒――を率いて出陣する。  この他にも寄親として周辺小領主の軍勢を統合し、一大勢力を発揮する存在だ。  子爵とは『規模の小さい伯爵』、侯爵とは『規模の大きい伯爵』と考えて良いだろう。公爵なら『王の兄弟である伯爵』だ。    が、男爵の場合は少々毛色が異なる。  男爵とは、一般的には『城を持たない、子爵を更に小規模にした領主』、或いは『領地持ちの騎士を大きくした存在』と言えるだろう。  ……が、僅かな領地しか持たぬ男爵も多数存在する。  まあ何れにせよ、騎士を貴族階級に含めない国々においては『最下級の貴族』として、騎士を貴族階級に含む国々においては『中級貴族』として、『最高位の待遇を受けることが出来る最下級の存在』であることだけは確かだ。 (騎士を貴族に含めようが含めまいが、騎士と男爵との間には越えられぬ壁がある。両者の間には、明確な線引きがなされているのだ)  何故ここまで他貴族と差があるのかといえば、男爵とは便利な爵位であり、貴族の中では比較的容易に増やすことが出来るからだ。  功労ある領地持ちの騎士を一代限りの男爵にして、加増無しで貴族としての待遇を受けられる様にすることも出来れば、お気に入りの廷臣に猫の額程の領地を与え、男爵を名乗らせてやることも出来る。  勿論、騎士とさして変わらぬ領地を与え、永代の男爵に叙すことも可能である。  ……要するに、貴族としては『最も手軽な爵位』なのだ。  ある程度増えても他の貴族から不満が出ない、その程度の。  とはいえ、男爵が貴族――高貴な存在――であることには変わりがない。  平民にとっては雲上人だし、領地持ちの騎士にとっても遥かに格上の、でも『もしかしたら手に届くかもしれない』憧れの存在なのだ。    (ちなみに、騎士にもピンからキリまである。   騎士は、大きく分けて、一に『領地持ちの騎士』、二に『従騎士』、三に『郷士』の三つに分類される。   『領地持ちの騎士』とは、呼んで字の如し。   『従騎士』とは、領地を持たない騎士で、主君からの禄を食む者   『郷士』とは、領地を持たない騎士で、普段は農民と変わらない者。   この三者の間には、それぞれの雲泥の差がある)  ――以上が、この世界における貴族の説明である。  尤も、これはあくまで人口数十万〜数百万程度の国の話だ。  これより規模の小さい国の場合、貴族が『公爵』『伯爵』『男爵』しかいない国も多いし、更に規模の小さい国の場合、貴族は『領地持ちの騎士』のみの国すら珍しく無い。  まあ何れにせよ、貴族の基本条件とは、『領地を保有していること』に他ならない。  宮中伯等、王の側近が領地も無いのに高位の貴族に叙される場合もあるが、全体から見れば少数派だ。  (ちなみに、『領地持ちの騎士』を貴族に含むか否かは、国の大小では無くその国の歴史的経緯による)    一方、レムリアの様に巨大になると、例外の塊の様になる。  多数の貴族の序列付けを必要とすることから、爵位の数も増え、伯爵の基準も大幅に上がるためだ。  故に、男爵どころか準男爵ですら、通常の『伯爵』に匹敵する所領を誇る様になる。  また、本来なら例外的な存在である筈の、領地を持たない貴族も多数存在する様になる。  この様に、規模が増大していくと爵位は複雑化、多様化していく傾向があるので、上に挙げた例はあくまで基本例と御理解頂きたい。  (無論、何事にも例外はある。小国でも、複雑な爵位制度を保有している国もまた少なくない。   これ等の多くは、『かつては大国だった国』『歴史が古い国』『末期状態にある国』の何れかに分類される)  話は長くなったが、これで何故『大騎士でも微妙』『最低でも男爵』なのかは、御理解頂けたと思う。  帝國爵位が一般の爵位よりも格上の存在だというイメージは、帝國が作り上げた一種のまやかしのようなもの、帝國の影響力が及ぶ地域でしか通用しないローカルルール――現状では、それすらも未だ完全には確立していない――に過ぎないのだ。  ……そもそも、『王に爵位を叙する』ということ自体が、実は矛盾した行為なのだから。  王が神から王位を与えられた至高の存在であるのに対し、爵位は王(人)――至高の存在とはいえ――から与えられた地位に過ぎない。  高貴な存在ではあるが、王とは雲泥の差なのである。  故に、例え列強の大諸侯――それこそ10万超の領民を持つ様な――といえど、人口1万以下の吹けば飛ぶ様な王よりも格下なのだ。  まあ、あくまでこれは概念上の問題であり、なかなか現実ではこの様にはいかないが。 (ただし、公式行事の際の席順等の待遇では、この差が如実に表れる)  故に、帝國は以下の様な詭弁を用いている。  帝國の皇は、王よりも皇帝よりも上の『天の皇』。  八百万もの神々の頂点に立つ最高神。その分身である。  (成る程。確かにこれならば、たかが一柱の神の代理人に過ぎぬ皇帝や、一柱に複数存在出来る契約者(王)など、ものの数ではないだろう)  故に、皇の授ける爵位は王と同様の価値が有る。  事実、爵位を持っている者達の中には、かつての王(藩主)が大勢いる。  ――と。  また、こうも述べている。  帝國にも王――王公族、李王家とその一族――はいるが、彼等はかつて二千万の民を統べる大王であった。  この世界で言えば、列強かそれに準ずる国々の王である。  帝國の王とは、『大王』のことなのだ。  ――と。  この様な考えから、帝國は邦國の王達に王位ではなく爵位を叙爵していった。 (本音から言えば、すべての邦王に李王家並の待遇を与えるなど、経済的にも政治的にも到底不可能である。  故に王では無く、維新時の各藩藩主に準ずる待遇を与えたのだ)  そしてこうした経緯から、帝國華族(公侯伯子男爵)は王に、帝國王公族は大王へと押し上げられたのである。 (ちなみに公爵なら公王、伯爵なら伯王、子男爵なら卿王として、『独立した王』と区別する。  もっともこれはあくまで法的な話であり、一般にはみな『王』と呼称するが)  何故、帝國が貴族制度改革を急いでいたかが、お分かりいただけただろう。  ……要は、『口からの出まかせ』を取り繕った、ということだ。 (尚、帝國法における邦國王位の位置付けは、『大陸に領地を持つ帝國男爵以上の貴族の内、特に勲功有る者にのみ与えられる称号』だ。  邦國王位を受けた者は、領地に対する自治権等を駆使できる様になる。  加えて、与えられた邦國王位の格に相当する神々を守護神として祭ることが出来る。  守護神は、宮内省と神(宗教団体)の許可が得られば、帝國の神々でなくとも構わない) 「しかし参ったよ。新たに貴族になった者の中には、下士官兵も大勢いるんだぜ!?」  流石に男爵や大騎士爵の下士官兵がいては拙いので、強制的に典礼部に放り込んで典礼少尉にした――と、中佐は苦笑する。  医師、薬剤師、歯科医師、獣医、高等試験合格者等の有資格者を各部の将校にした様に、大騎士爵以上の爵位保持者の下士官兵を、『有資格者』と見做したのだ。 (こんなことをやるから、典礼は兵科から追い出されたのだろう) 「が、連中は使い物にならん。端から分かってはいたことだが、やはり駄目だ」 「と、いいますと?」 「『育ちが悪い』ということさ」  中佐は、黒部大尉の疑問を一言で答えた  ……要するに、『生まれ』と『教育』の両方を満たしていなければ、典礼参謀として『外回り』には使えない、ということだ。 「その点、お前はそれをギリギリ満たしている」  金持ちとは言えぬがまあそれなりに裕福な家に生まれ、一定以上の教養がある両親を持ち、大学も出た。  即席とはいえ、将校としての教育も受けている。 「まあ、合格だ」  贅沢は言えないので大分基準を下げているが、と中佐は笑う。 「典礼参謀となったら、自分は具体的に何をするのですか?」 「現地での行動を円滑にするための『根回し』だな」  現地の貴族と顔を繋ぐ――全てはこれに尽きる。  これさえ終われば、任務は成功したも同然だ。  細かいことは他の者に任せれば良いし、ドサ周りは大騎士爵の典礼にでもやらせれば良い。  後は、何か面倒なことが起る度に口を聞く。  ……これだけで良いのだ。 「……何か、夢の様な任務ですね」 「そうだとも。が、重要な仕事だ」  欲を言えば、各連隊や地区毎に一人は『外回り』欲しいが、現実は各方面軍に集中配備するので精一杯。とても足りんと笑う。 (『裏方』なら各連隊や地区毎に大概いるが、その彼等とて兵科将校が掛け持ちでやっている例が多い)   「が、口で言う程簡単では無いぞ?」  そう念を押す。    要は、『ある程度で良いから、現地指導者層との信用関係を築け』と言っているのだ。  が、只通り一遍に会うだけでは信用関係は築けない。  貴族同士であるということは付き合う上での第一歩、必要最低条件でしかないのだから。 「何も、友達になれとは言わん。それだと返ってやりにくい。  『信用出来る交渉相手』、と思わせるだけで充分だ」  そのためには、普段から顔を繋いでおく必要がある。  一番手っ取り早いのは、宴の席に頻繁に顔を出すことだろう。  宴は人脈作りや工作に最適なため、頻繁に行われる。 (只の浪費や遊びではなく、立派な政治活動なのだ) 「成る程」  黒部大尉は頷く。  典礼参謀は『飲み食いが仕事』とすら言われるが、そういうことか。 「ちなみに、お前が典礼参謀になった際に配属されるのはレムリア方面軍だ。 その総司令部付きだな。  おめでとう。華のレムリア、その旧王都勤務だぞ?」  どうだ? と中佐。  『派遣軍』から正式に『方面軍』に移行したレムリア方面軍は、現在典礼参謀を最も必要とする方面軍でもある。  が、多くの典礼参謀は既に他の方面軍に握られてしまっており、中々数を確保出来ないでいるのが現状だ。   「……レムリアかあ。旨い食い物、一杯あるのでしょうねえ」  少し……いやかなり心を動かされる黒部大尉。  それを察した中佐は、猫なで声で付け加える。 「レムリアは、料理に関しては既に完成の域に達した国家だ。  他の地域と比べ流通が発達しているため、様々な食材を使った食がある。  その中でも最高峰の宮廷料理を、思う存分食せるのだぞ?」  嘘ではない。  ただ、嫌というほど喰わなければならないだけだ。そして、酒はそれ以上に。  尤も、真の上流階級が集まる宴の場合、皆饗される食には目もくれず、専ら人脈作りや工作に精を出す。  故に、その様な場ではとても飲み食いなど出来ぬであろう。  が、黒部大尉のような新米男爵が、その様な重要な場に出されることは無い。  精々、『地方の仲良し倶楽部』レベルの宴――それでも旧王国の男子爵級貴族が集まる侮り難い宴ではあるが――に出席する程度だろう。  ……無論、飲み食いだけに精をだされても、困るが。 「あと、出世も出来る。  幹候出の将校なんて、少佐で終わりだぞ? 良くて営門中佐さ。  けど典礼参謀になれば、男爵なら大佐にはなれる。  ……流石に、少将までは保証できないが」  これも嘘では無い。  が、黒部大尉の場合、金鵄勲章の再開第一号受賞者である。  陸士並、とまではいかないだろうが、まあ営門大佐にはなれるだろう。 「う〜ん、出世は兎も角、レムリアの食は魅力的ですねえ」  しかも『ただ飯』だ。  夢の様な話である。 「まあ、そんな訳だ。考えておいてくれ」  かなり心が動いている黒部大尉を見て、深追いは禁物と考えた中佐は話を切り上げる。  一方の黒部大尉は、まだ見ぬレムリア料理に思いを馳せていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【23】  あれから数日を置かずして、私は中佐殿の誘いを受け入れた。  そして両親が渡した見合い写真の中から、若く美しい資産家の娘を選び結婚。  その後、典礼参謀としてレムリアに赴任した。  レムリアは、別天地だった。  辺境とは……いや、帝國本国ですら見劣りする様な、荘厳な旧王都。  豪華な食材、そして優れた業をふんだんに使ったレムリア料理。  ……全てが私を魅了して、止まなかった。  尤も、私が担当した地域は旧王都ではなく、レムリアのとある一地方だった。  が、地方とはいえ、美しい田園風景が広がる優美な地だ。  私はその地で、中小の大名達と共に、連日の様に宴に参加する。  美味い料理、美味い酒、美しい女達……  私は、何もかも忘れ、レムリアで夢の様な毎日を過ごした。  ――そして、10年近い歳月が流れた。 「うい〜」  豪華な竜車の中で、中年の男が酒をラッパ飲みしている。  黒部成之男爵だ。  かつては野戦将校として、それなりに均整の取れた体つきをしていたが、最早その面影すら無い。  五尺七寸(約172cm)という、帝國人としては高い背は変わらないものの、十七貫(約64kg)から三十貫(約113kg)へと大きく増えたその肉体は、まるで大福の様である。  美食の果て、その辿り着いた結末だ。  ……が、黒部男爵はそんなことは気にもかけず、『一口で金貨一枚』の超高級酒を惜しげもなく飲み干していく。  その目は濁っており、まるで死んだ魚である。 「急げ! 早くせんと、宴に遅れるだろうが!」  酒の合間に、時折こうして御者を怒鳴りつける。  美食と美酒、そして美姫に巡りあえる場である宴は、彼にとって何よりも優先されるべきものなのだ。  突然、竜車が急停止した。  車内が、大きく揺れる。 「何事か!」 「はっはい、申し訳御座いません。前の荷車が中々進まないもので……」 「何だと! たかが荷車風情が、俺の車を止めたというのか!?」  黒部男爵は、怒り心頭だ。  故に、鞭――機嫌の悪い時や、使用人が粗相をした時に使用する――を手にとって竜車を降りる。  見ると、何やら大きくて重そうな樽を幾つも載せた荷車が、竜車の道を塞いでいる。  荷車の持ち主らしい農夫が、必死に何かを棒で叩いていた。 「おいっ! お前! どういうことだ!」  黒部男爵は、鞭を地面に振り下ろす。  農夫は怯えた様に振り向き、相手が誰であるかを確認すると、慌てて土下座する。 「もっ申し訳御座いません、御殿様! 荷を牽く犬が、中々言うことを聞きませんので……」 「犬〜?」  これだけの荷を、犬が牽いていたというのか? 「はっはい! 犬にしては大きく力もあるのですが、如何にせん怠け者でして……」  ……一体、どの様な犬か?  好奇心が湧いてくる。  何、仕置きはいつでも出来るのだ。後でゆっくり、農夫と犬を鞭打てば良い。宴には遅れるが、話の種にはなるだろう。  そう考え、その犬とやらを見様と移動する。  歩く度に、息が上がる。  ――畜生! この俺を、歩かせるとは!  余程珍しいものでなければ許さんと心に誓い、前に進む。  僅か距離にして数mだが、全身汗だくだ。  何やら、熊の様に巨大な生き物がうつ伏せになっていた。  近づくと荒い息をしているので、生きてはいる様だ。  毛並みは黒く汚れ、痩せ細っている。    ……普段の彼ならば、『よくもつまらん物を見せたな!』と怒り狂って、農夫と犬を鞭で何度も打ち据えた筈である。  が、彼は一言も発しなかった。  その目は、驚愕で見開かれている。  やがて、振り絞る様に言葉を発した。 「……まさか、シロか?」  犬は、僅かに尻尾を振った。   「馬鹿な!? 何故、お前がレムリアにいるのだ!?」  そんな筈は無い。そんな筈は無いのだ。  黒部男爵は、沸き上がる嫌な予感を必死に押さえつける。  そうだ。サーナにはあの家と土地、そして少なからぬ金を渡したじゃあないか。  あれだけの金があれば、タブリンでなら一生……いや、孫の代まで遊んで暮らせる筈だ。  が、シロから伝えられた真実は非情だった。  あれから直ぐ、財産の大半を騙し取られたのだそうだ。  官衙に訴えたものの、既に黒部男爵の庇護を失っている以上、女子供がどうこうできる筈は無かった。  結局、泣き寝入りするしかなかったのだ。  以後、彼女達は極貧の日々を送ることになる。  やがてサーナが倒れ、シロは子供たちのことが気になりながらも、薬代を捻出するために身売りしたのだという。  そう語るシロの目は、恨みに満ちていた。 「ち、違う…… ちゃんと、家屋敷も金も渡したじゃあないか…… 俺は、やるべき義務は果たしたんだ……」  だから……俺のせいじゃあない。  そう言いつつも、後ずさる。  シロは、最後の力を振り絞り立ち上がた。  狙いは……黒部男爵。  彼が最後に見たものは、シロの巨大な口と牙だった。  …………  …………  ………… 「うお!?」  黒部大尉は、跳ね起きた。  ……?  そして首をかしげ、暫く辺りを見渡す。  軽井沢の豪邸、その一室だ。  机には、両親が渡した見合い写真の内、気に入った写真がつくねられている。 「夢……か……」  良く考えてみれば、シロが喋る筈も無い。つまらぬ夢を見たものだ。  とりあえず、タブリンに帰ったらシロを一発殴ろうと心に決め、ベットから下りる。 (安眠を妨げた罪は重いのだ) 「昨夜、遅くまで見合い写真を眺めていたせいか、変な夢を見たものだ」  黒部大尉は、昨夜遅くまで、ニヤニヤ笑いながら見合い写真を吟味していた。  黒部本家の娘など端から対象外――両親にとっては一番のお勧めらしいが――だが、他の『物件』は中々良い。  女学校を出たばかりの若く、美しい娘が何人もいる。無論、皆金持ちだ。  中には未だ在学中の娘も幾人かおり、家柄以外は完璧といえる。  ……ここまで条件が揃っていれば、家柄まで求めるのは野暮というものだろう。 (その家柄とて『平民』というだけで、何か問題があるという訳では無い)   「これで莫大な持参金まで付いてくるのだから、言うことなし、だな?」  自然と顔がにやける。  この中で一番の娘と結婚して、レムリアへ……  夢は、膨らんでいく。 「そりゃあ、サーナ達のことは気にはなるが、だからと言って……なあ?」  ……俺には俺の立場があるし、人生もあるのだ。  まるで誰かに言い訳をするかの様に、そう呟く。  なんのことはない。降って湧いた幸運――男爵叙爵と良縁、それにレムリア赴任――に、すっかり目が眩んでいるのだ。  無論、現実的な問題もある。  家を守るためには、『それなりの家』の娘と結婚せねばならない。  そのためには、サーナと一緒になる訳にはいかないのだ。  第一、サーナのことを、両親にどう説明したらよい?  現地で拾ったも同然の女だし、子持ちだ。  個人的には『結婚しても良いかな?』とも思うが、世間体が悪い上に両親が怖い。  両親に知れたら、さぞや大変なことになるだろう。  ……考えてみりゃあ、女が結婚する上で負になる要素を全部持ってるものなあ。  何処の生まれとも分からぬ(現地人という時点で駄目)上、未亡人(多分)で子持ちだ。  両親が怒り狂うこと間違いなし、だろう。 「俺に出来ることは、生活できるよう面倒をみてやること位だな」  無論、あの家も土地もやるし、充分な金も渡す。  それでも不十分ならば、名目だけでも妾ということにして構わない。  『帝國男爵の妾』なら、タブリンで充分通用するだろう。困った時には力になってやっても良い。  ――うん、完璧じゃあないか。これなら、両親にも説明が付く。  普段の自分なら、軽蔑するであろうことを平然と考える黒部大尉。  やはり、完全に欲に眩んでいるのだろう。  その目は、幸運に包まれているであろう、未来の自分を思い描いていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【24】 ――――帝國直轄領タブリン、ケネット。 「ずるいよ!」  置いていかれたリータは、怒りの声を上げていた。  そして、『子分達』にも同意を求める。 「あなたたちも、そう思うでしょう!?」  ……グルルル。  ……コクコク。  リータの憤慨に、シロは形ばかりの追従の唸り声を、リーナは曖昧な同意の頷きを返す。  ……実はこの二人――正しくは一人と 一匹――は、置いていかれて内心ホッとしていたのだ。  リーナはやっぱり遠い所へ行くのは怖いし、シロはシロで貨物扱いで運ばれるのは御免だった。 (『ていと』が大内海のど真ん中と聞いてリーナは気を失いかけたし、シロは木箱の中で何日もじっとしていなければいけないことを知り、露骨に顔を顰めていた)   「おじさんのことだもの! きっとおいしいものたべまくっているよ!」 「うん…… そうだとはおもうけど……」  でもおしごとだし、とリーナは宥め役に回る。 「うそだよ! 『りょこうだ』『たべあるく』っていってたもん!」 「……でも、おみやげかってきてくれるって。  きっと、このまえの『ひかるいし』みたいに、すごいものだとおもうよ?」 「う〜」  リータは、『ひかるいし』――黒部大尉が帝都の高級百貨店で買い求めた最高級の『おはじき』と『びー玉』――に匹敵する御土産と聞き、暫し葛藤する。 「……じゃあ、おみやげみるまでまってあげる」  かんしゃしなさいよ、とリーナとシロに告げた。 「うん、それがいいとおもうよ……」  リーナは、シロの毛繕いをしながらにっこり笑う。  一方のシロは、眉間に皺を寄せながらも、必死にそれに耐えている。  ……自慢の毛は丁寧に編みこまれ、三つ編み状態になって何本も垂れ下がっていた。 「もうっ! じれったいなあ!」  そんなリーナのゆっくりとした手付きに業を煮やしたのか、リータは『手本を見せる』とばかりに、反対側の毛を編み始める。  ブチブチ。  ――シロの悲鳴が、丘に響き渡った。  リータが憤慨していた丁度その頃、サーナは家で数人の男達と会話を交わしていた。  男達の態度・口調は丁寧そのものだが、サーナはその対応に苦慮している様にも見える。 「……お前達は、まだその様な夢を見ているのですか?」  サーナは呆れ果てた様にそう言うと、首を振った。 「されど、これは千載一遇の好機ですぞ!?」  男の一人が興奮して叫ぶ。  その夢を正夢にしようと、彼等ははるばるケネットまでやってきたのだ。 「夢を見るな、とは言いません。 ……しかし、過ぎた夢は身を滅ぼします。  王国の崩壊により、幸運にも日の下を歩くことが出切る様になりましたが、本来なら私達は……」 「これはサーナ様の御言葉とは思えません!  ウェクスフォード家に、断じて疾しいことなどありませんぞ!?」 「……もはや滅びた家です」 「まだ滅びてはおりませぬ! サーナ様を始め、リータ様やリーナ様がおられるではありませんか!?」 「私は分家筋、それも女の身です。女は血を伝えません。  本家どころかウェクスフォードの名を冠す男子が全て絶えた以上、ウェクスフォード家は滅びたのです」  サーナは諦観した様な表情で諭した。  ウェクスフォード家は、開拓によりその勢力を広げた地方貴族である。  貴族とは言っても『中の下』と『中の中』の間程度の格式に過ぎぬが、開拓により勢力を広げただけあって、中々侮れぬ力を有した一族だった。  ウェクスフォード家は、元々は地方の一代官を務める家に過ぎなかった。  が、荒地を開墾することにより多くの畑を王国にもたらし、その功により開拓した土地の一部を下賜されて領主となったのだ。  ……ここで終われば、ウェクスフォード家は地方の一小領主として、今でも細々と続いていたかもしれない。  が、ウェクスフォード家はここで賭けにでた。  何と、『カラントゥアール地方の開拓』を王国に願い出たのである。  カラントゥアール地方は王国の北方辺境に位置し、荒廃した原野が広がる不毛の大地だ。  ……この地をを開拓しようとは、正しく狂気の沙汰である。  恐らく先の開墾の成功で自信過剰に陥っているのであろう――当時の王国要人は、そう言って哂ったという。  まあやれるものならやってみろ、と彼等はウェクスフォード家の願い出を聞き届け、カラントゥアール地方の開拓と、開拓した地の私有化を許可した。  ウェクスフォード家の一族は、手に入れたばかりの領地と家屋敷全てを売り払い、背水の陣でカラントゥアール地方へと赴いた。    以後二〜三十年程、ウェクスフォード家はタブリンの表舞台から姿を消す。  再びウェクスフォード家がタブリンの表舞台に登場したのは、カラントゥアール地方を縦断する大運河の開通成功によってである。  多くの人々は、この知らせに驚愕した。  それは、凡そ不可能――低地にある水を高地に上げる様なもの――と思われていたことだったからだ。  ……そしてこの成功は、カラントゥアール地方の開墾が、八割方成功したことをも意味していた。  以降、カラントゥアール地方には入植者が殺到。  同地は、年々豊かな田園へと生まれ変わっていくことになる。  ウェクスフォード家四代当主――初代は入植開始時の当主――の時代には『百ヶ村一万人』と称するほどにまで成長し、辺地カラントゥアールはカラントゥアール県に昇格。ウェクスフォード家はカラントゥアール県の永代県守として、またカラントゥアール全土の領主として、大いに繁栄した。 (タブリン王国は十三郡からなり、各郡は十県前後からなる。  王国の推定人口は約200万人だから、郡は10〜20万人、県は1〜2万人前後だろう。  無論、これよりも人口の多い郡県もあれば、人口の少ない郡県もあるが。  *ただし戸籍上は総人口67万人の為、各群県の戸籍上人口は上記の1/2〜1/5程度)  が、この成功は中央の貴族からの激しい妬みを買うことになる。  彼等にとって、ウェクスフォード家の様な大成功者の存在は『目の上のたんこぶ』だ。気に入らないことこの上無い。  そして、ウェクスフォード家自身にも問題があった。  ウェクスフォード家は自領の統治と開墾に追われ、王都への工作を疎かにしていたのだ。  ……精々、年に一度使者を派遣する程度であろうか? 早い話が、王都の大貴族達への『御機嫌伺い』に熱心ではなかった、ということだ。  加えて、ウェクスフォード家は自家の富強を隠そうとはせず、かえって大いに誇示していた。  これは拙い、拙すぎる。  ――馬鹿にしやがって!  この様な態度は、大貴族達には『自分達を無視、或いは蔑ろにしている』と映った。  成功への妬みに、自分達を無視した怒りが加わったのだ。  かくして大貴族達にとり、ウェクスフォード家は共通の『敵』となったのである。  さて、ウェクスフォード家五代当主の時代の話だ。  突如として、王都から喚問の呼び出しが届いた。  不審に思い、探りを入れてみると、驚くべきことが判明した。  ウェクスフォード家に対し、独立の疑いがかけられていたのだ。  何でも、『某宗教団体に多額の寄進を行い、王の位を賜ろうとしている』らしい。  寝耳に水、待ったく身に覚えの無い話だった。 (確かにその宗教団体には少なからぬ寄進を行ったが、それはウェクスフォード家の信仰する宗教であり、かつ代々の当主への供養を行ったからである)  が、その様な言い訳が簡単に通じるほど、王都が甘くないこと位は心得ている。  何しろ、謀叛の嫌疑がかけられているのだ。これはウェクスフォード家存亡の危機である。  慌てたウェクスフォード家は、王都での工作を試みる。  ……そしてそこで、初めて気付いたのだ。  自分達には、その伝手が無いことを。  今まで王都に対する工作を、余りに疎かにし過ぎていたことを。  ――王都で遊びほうけている御偉方は、こんな辺地のことなんか気にもしないさ!  そう考えていた(反発していた)ツケだった。  止むを得ず、ウェクスフォード家は信仰する宗教団体を頼った。  (この宗教団体とてそれ程王都に力がある訳では無いが、ウェクスフォード家に比べれば遥かにマシだろう)  そして大金をばら撒くことにより、何とか大貴族の一人と接触することが出来た。  ――本来ならば、謀叛の罪で一族郎党死罪だろう。が、ウェクスフォード家には今までの功績がある。誠意を示せば、罪は赦される筈だ。  ――誠意?  ――具体的には、カラントゥアール全土を王国に献上するのだ。さすれば、かならずや罪は赦されよう。  ――!!  ――それだけではない。再び王国貴族として、王都で王にお仕えできる様、取り計らってみようではないか?  この時初めて、ウェクスフォード家は自分達が『嵌められた』ことに気付いた。  大貴族達は、自分達を徹底的に落としめようとしているのだ。  仮に領地全土を献上しても、その後待っているのは屈辱に満ちた生活だろう。  そして、それすらも何時まで続くか分からない。  おそらく、最終的には死罪は免れない筈だ。  第一、血の滲む思いで開拓したカラントゥアールを、我等の血と汗と涙の結晶を、むざむざ手放すことなど出来よう筈も無い。  ましてや、王都の貴族共になど渡せるものか!  事ここに至り、ウェクスフォード家は覚悟を決めた。  誇りと意地のため、『惨めな最期』よりも『栄光ある最期』を選んだのだ。  ウェクスフォード家は挙兵、カラントゥアールの独立を宣言する。  讒言が真実になった瞬間だった。  王国は、直ちに北軍と竜軍に討伐を命令。  命を受けた北方大将軍は、自ら1500の兵と竜を率い、カラントゥアールに侵攻した。  対するウェクスフォード軍は200足らず。  地の利を活かし奮戦するも、彼我の差は如何ともし難い。それに武器の数も足りなかった。準備期間が余りに短すぎたのだ。  結局、ウェクスフォード軍は僅か10日余りで敗走した。  そして、凡そウェクスフォードの名を冠す者、その大半が処刑されることにより、『ウェクスフォードの乱』は終結した。  ……こうして五代百二十余年の栄華を誇り、百二十ヶ村一万五千人の民を支配していたウェクスフォード家は滅亡したのである。  (『百二十ヶ村一万五千人』は実数。王都に申告した戸籍上ではその半分以下)  その後も執拗な残党狩りは続き、運良く逃れられた者も、その多くが命を落とした。  もし帝國軍の侵攻がなければ、サーナ達とて無事ではいられなかっただろう。  サーナ達は、帝國軍によって救われたようものなのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【25】  合宿所の食事は悪くないが、西洋料理ばかりである。  そりゃあただ飯喰らいの身であるから贅沢は言えぬが、毎日毎日パンばかりでは力がでない。偶には丼飯に味噌汁と漬物だけでさっぱりといきたいものだ。  ――そう考えた黒部大尉は、合宿所を抜け出して町へと向かった。 「さて、何を食べようかな?」  幸い軍資金にはこと欠かない。これを機会に豪遊したいものだ――と、既に当初の目的を忘れて店を物色する。  実の所、黒部大尉はかなりの高給取りなのだ。  かつて軍人といえば『薄給』と相場が決まっていたが、戦時体制への移行とその後の転移により、この相場感は過去のものとなりつつあったのである。  陸軍大尉の懐を少し覗いて見よう。  本俸が大尉の三等俸で年1470圓、賞与が半期本俸1ヶ月分として年245圓、これに様々な手当てが付いて年収1900圓。ひと昔前――昭和一桁――ならば、陸軍大尉の年収はこの程度のものであった。  ……では、この年収1900圓とは如何程のものなのだろう?  昭和一桁頃の都市勤労世帯の平均像は、4人家族で年1000圓強。これだけ見れば標準世帯の倍近い収入であり、かなりの収入に思える。  が、帝國においてはホワイトカラーとブルーカラーの収入格差が激しく、両者の待遇は互いに全く別の世界の住人であるとすら言える程だ。であるから、両者の平均であるこの数字は水と油を混ぜた様なもの、そんな鵺の様な数字では比較にならない。  陸軍大尉は紛れも無くホワイトカラーの一員である。ならば、他の職種のホワイトカラーと比べるのが正しいだろう。  入社10年目の一流企業サラリーマンと比較してみよう。 (当時はまだポスト等が少なかった為、大尉に昇進するには少尉任官後10年近くかかった)  当時の大卒の初任給は月60〜80圓程度、これに賞与を加えて年1000〜1300圓。これが5年後には年1600〜3000圓、10年後には年2500〜4000圓以上にもなる。  ……まあこれはあくまで一流企業に勤務する大卒――ホワイトカラーでも最高峰の人々――の話ではあるが、『入社10年後』で年2000圓にも届かない、というのは些か寂しい。  加えて将校は何かと物入りである。装備は私費で整えなければならないし、交際費もかさむ。  この種の出費はサラリーマンの比ではなく、正直言って年収1900圓程度では厳しいだろう。子供が2〜3人もいれば、それこそ『一家五人泣き暮らし』の世界である。 (とはいえ、帝國の一般的な水準から見れば、相当恵まれた生活だ。  都市市民の圧倒的多数派であるブルーカラー、そして帝國の五割を占める農民から見れば、年収1900圓という数字は夢の様な額なのだから)  が、現在では、様子がガラリと変わってくる。  本俸が大尉の三等俸で年1470圓というのは変わらぬが、賞与は半期本俸3ヶ月分の年735圓へと大幅アップされている。  これに物価調整手当として本俸の75%1102圓50銭、加えて軍人のみを対象とした戦時加俸が年588圓、転移後には戦時加俸が本俸に準じる扱いとなった為、特別賞与と物価調整手当に735圓が加算、最後にその他の手当てが付いて年5000圓弱、といったところだ。  政府が官吏や軍人の給与を増やすのに本俸を上げるのではなく、各種手当の増加で対応しているのは、『あくまで一時的な措置』としているからだろう。本俸でなければ廃止や減額は(比較的)容易だからだ。  まあ兎に角、この戦時加俸の御蔭で軍人の給与は急上昇したのである。  しかし、それにしても5000圓とは大したものだ。ひと昔前の1900圓と比べて倍どころの話ではない。 (ただし物価上昇分も考えれば、かなり目減りする。  たとえば現在の官吏年俸が制定された昭和6年の時点で三等俸の陸軍大尉は年1900圓貰っていたが、現在の5000圓は当時の2500圓程度の価値があるかも怪しいものだ)  ……『貧乏少尉、やり繰り中尉、やっとこ大尉』という言葉は、既に死語となっていた。  黒部大尉には、この上更に辺地手当てが付く。  辺地手当とは外地に派遣された者に対する特別手当であり、ケネット勤務の黒部大尉の場合など、本俸に年2058圓(本俸+戦時加俸分)が加算されることになっているのだ。無論、賞与や物価調整手当もその分増える。 (内地にいる現在でも、公務による一時帰還扱いなので満額支給されていた)  要するに、黒部大尉は年1万圓弱――内地勤務の大尉の倍――も貰っている、ということになる。  ……たかが一大尉が、である。  軍人がいかに力を持っているかがよく分かる事例であろう。  何せ1万圓と言えば、高級取りとして知られる三井三菱住友といった大財閥に入社した帝大卒の同世代よりも多く、主任級の収入だ。  もっと具体的に言えば、帝都郊外ならば駅に程近いの住宅街でも土地付きの家――だいたい70坪程の土地に並程度の建物が40坪くらいか――が買える。それ程の額なのだ。  まさに戦時体制様様である。  が、この恩恵に預かれるのは軍では圧倒的に少数派である将校のみであり、後はせいぜい下士官がそのお零れに預かれるに過ぎない。  軍の圧倒的多数を占める兵(兵長以下)はその蚊帳の外に置かれており、彼等は衣食住の他は小遣い程度の金で、文字通り『飼い殺し』にされていたのである。 (これを考えれば、何故政府が『軍人健康保険法』の制定を決めたのかがわかるだろう)  ――話は長くなったが、要するに黒部大尉の懐はそれだけ暖かい、ということである。  何せ、任地では衣食住共に軍が負担してくれる為、年500〜600圓の所得税を払えば後は丸々小遣い――多少は差っ引かれるが――だ。  加えて、ケネットは物価が恐ろしく安い……というか、使い道に乏しい。  このため内地帰還直前には、黒部大尉の貯金は1万6000圓にまで達していた。  『内地帰還直前』とわざわざ言ったのは、帰還前にサーナに貯金の半分、8000圓――昭和18年度における帝國都市勤労世帯の平均年収の3倍以上――を渡したからである。 「よし、天麩羅でも喰うか」  黒部大尉は暖簾を潜り一軒の天麩羅屋に入った。  ……しかし、冒頭の『偶には丼飯に味噌汁と漬物だけでさっぱりといきたいものだ』は何処へ行ったのだろう? 「いらっしゃいませ」  店主の挨拶を受けながら、席につく。 「うん?」  黒部大尉は品書きを見て首を捻った。  ――御品書き  麦飯かきあげ天丼 50銭  麦飯天丼       70銭  麦飯天麩羅定食  1圓  上天麩羅定食    2圓  高級避暑地だから物価が帝都並なのは仕方が無い。品目が少ないのもまあ良いとしよう。  が、何故麦飯しか無いのだろうか? 「おい、親父。 何故麦飯しか無い?」 「そりゃあ旦那、でなけりゃあ商売にならないからですよ」 「…………」  しかし、幾らなんでも麦飯の天丼とは……  そんな黒部大尉の反応を見て、店主は納得の表情だ。 「旦那は大陸帰りですね?」 「わかるか?」 「勿論ですよ。大陸帰りの方は皆、その様な反応をなさいますからなあ」  何でも大陸じゃあ銀シャリが食べ放題だそうですが、内地じゃあ希少なのでございますよ、と店主。 「そうなのか、それは知らなかったなあ」  無理も無い。黒部大尉は昭和15年には入営していたし、転移直後からずっと今まで大陸暮らしだったのだから。 「上天麩羅定食は銀シャリで御座いますよ」 「麦飯から白米に変えるだけで1圓かよ……」  1圓もあれば、そばが5杯も喰える……というか、麦飯天麩羅定食の倍ではないか。  黒部大尉は露骨に顔を顰めた。  それを見て、店主が囁く。 「上定食ですので天麩羅のネタも上物ですし、数も増えておりますが」 「……じゃあ、それで良い」  これじゃあ期待は出来ないな。  黒部大尉は、失敗した、とばかりに溜息を一つ吐いた。  出された定食を見て、黒部大尉は目を丸くする。 「なんだ、これは?」  大きな天麩羅が10品ばかり、皿に溢れんばかりに盛り付けられている。  衣が厚いだけ、という訳では無く、種も大振りだ。 (野菜以外は何の種か分からないが、いわゆる『異世界産』という奴なのだろう)  これに漬物と大根おろし付きのつゆ、味噌汁に飯がついて2圓。  まあ悪くない。それどころか日支事変前の豊かな時代でも、これ程のボリュームのある天麩羅定食にはそうそうお目にかかれなかった。  ……が、飯だけが僅かに子供の握り拳程度の量である。  おかずに比べ、余りにもアンバランスだった。 「上定食は、サービスとして無料で麦飯と漬物、味噌汁のお代わりができます」 「……白米は?」 「申し訳ございません、うちも商売でして」 「…………」  黒部大尉は無言で店主の袖に1圓札を素早く滑り込ませた。  ケネットで培った特技である。 ……自慢にならないが。  店主はその手馴れた業に目を丸くしていたが直ぐにニヤリと笑い、お代わりの『麦飯』を丼に山盛りに盛ってきた。  麦飯に箸を入れると、麦飯の下からほかほかの白米が顔を出す。優に1合以上あるだろう。  ……地獄の沙汰も金次第、なのである。  ――とはいえ、1圓で2合(約300g)にもならないとはねえ……  内心苦笑する。  どうやら内地では、白米はかなりの贅沢品の様だった。  が、それ以上は考えず、黒部大尉は無言で丼飯をかきこむ。  直ぐに大陸に帰るであろう自分には、あまり関係の無いことだったからだ。  昭和19年8月現在、帝國の人口8400万人に対し、米生産量は6000万石にも満たなかった。  おまけ。  黒部大尉はのんびりと天麩羅をつまむ。  魚はこの世界のものらしいが、中々美味である。  ――そして何より、このボリュームだな。  この過剰なまでのおかずを見、一人頷いた。  しかもこの天麩羅、衣は薄く身が厚い。食べ応え十分だ。  この質と量で2圓は安いだろう。しかも、上天麩羅だけならば1圓50銭である。  ――今度、この天麩羅だけ食べに来ても良いかな?  そんなことを考えていると、箸が奇妙な天麩羅を探り当てた。  天麩羅は棒状で、まるで蟹足の様である。  が、蟹の筈は無い。  蟹は低レベルとはいえ、保護対象の在来生物の一つだ。こんな場末の店で出る筈も無い。  口に入れると、海老の様な味がする。  ……しかし同様の理由から、やはり海老では無いだろう。  ――もしかして、噂に聞く神州大陸の月見海老か?  しかしアレは巨大な為、割いたりブツ切りにして食べる。故に、この様に綺麗な身にはならない。  一人悩んでいると、店の奥から店主の叫び声が聞こえてきた。 「待て――!」  カサカサカサカサ  店の奥から、巨大な百足の様な生き物が逃げてくる。  それを追いかける亭主。 「往生せいやっ!」  ゲヒャ――。  亭主が鉈で切りつけると、百足(?)は不思議な断末魔を上げて息絶えた。 「手間をかけさせやがって!」  そう吐き捨てると、店主は百足の死骸を引き摺って奥へと帰って行く。  ……潰れた足の一本からは、プリプリのまるで剥き身の海老の様な身が覗いていた。