帝國召喚 外伝「辺境警備隊隊長よもやま物語」 【16】 「一体、如何した?」  突然の『来客』に、黒部大尉は目を丸くする。  来客の正体は、なんとサーナの娘達――リータとリーナ――だった。  その後ろではシロが荷車に繋がれている。心底嫌そうな顔だ。 (シロは子供達を背に乗せるのは大好きだが、この様に荷車等を牽くのは大嫌いなのだ)  ……そして荷台には、突っ伏している男が一人。 「おやあ? ……こりゃあ珍しい。  同胞(帝國人)ですよ、大尉殿?」  倒れている男を覗き込んだ高木軍曹が、心底驚いた様な声を上げる。 「同胞? こんな辺地に?」  高木軍曹の言葉に首を捻る。  同様に覗き込むがやはり知らない顔で、どうやらタブリン地区の帝國人では無い様だ。 (タブリン地区の帝國人は、入れ替わりが殆ど無く、皆顔見知りの様なもの)  首を傾げる二人に、リータが胸を張って答えた。 「迷子を連れてきたの!」 「帝國の人をお連れしたの……」  リーナも、リータの後ろから恐る恐る答える。 (リーナは人見知りが激しく、始めてくる鉱山に緊張しているのだ) 「むう……」  黒部大尉は、二人の言葉の意味を暫し吟味する。 「ああ、つまり『迷子の帝國人』を連れてきたのか」  二人の話を翻訳し、要約するとこうだ。  町の近くで、見知らぬ男の人に道を尋ねられた。どうやら帝國人の様だ。 (タブリンに、黒髪の人間はいない)  男は、レディング鉱山まで行きたいらしい。急ぎの様でもある。  ……普通ならば、ここで町の人に任せるべきであろう。  そうすれば竜借屋辺りが竜車でも用意し、鉱山まで男を連れて行ってくれる筈だ。  が、子供達にとってこれは『絶好の機会』だった。  ――自分達が連れて行けば、月に一〜二度程度しか会えない黒部大尉に会える!  この悪魔の囁きに普段は引止め役のリーナも二つ返事で頷き、二人は嫌がるシロを荷車を繋ぎ、男を乗せてここまで来た――と言う訳だ。 (どうやら男の方は、荷車の揺れの激しさに目を回したらしい) 「……いやはや」  子供達の行動力に、高木軍曹は唖然とする。 「大尉殿、こりゃあ少し注意した方が……大尉どの?」  一方の黒部大尉は、『そこまでして俺に……』などと口走っていた。  その顔は、にやけ捲くっている。 「大尉殿!」 「! ああ、うん……そうだな」  流石に拙いと思ったのか、咳払いを一つ。  そして『知らない人について行っちゃあ駄目だぞ』と形ばかりの注意をする。  ……駄目だ、こりゃあ。  その反応に、高木軍曹は額に手を当てた。  やはり効果が無かったようで、リータは胸を張って答える。 「シロがいるから、大丈夫だもん!」  それに呼応するかの様に、シロも尻尾を地面に叩きつける。 「う〜ん」  あれから更に成長したシロを見ると、その言葉はかなりの説得力を持つ。  確かに、壮年期の羆を大きく上回る巨体と猫の様な俊敏さを持つシロは、最強の『御付』であろう。  が、しかし…… 「……ま、いいか」  黒部大尉は、そこで思考を止めた。  折角、子供達が会いに来てくれたのだ。怒るのも野暮というものだろう。  ……それに、どうせサーナが俺の分まで怒るだろうし。  サーナが聞いたら頭を抱える様な結論に達すると、子供達を抱きかかえて自室に向かう。 「よ〜し、何して遊ぼうか?」 「探検!」 「おままごと……」 「はっはっは、両方やろうじゃあないか! 今日は泊まりだな!」  歓声を上げる子供達。  その後を、自分に繋がれた留め金を器用に外し、身軽になったシロがついて行く。 (多分、子供達に与えられる御菓子のお零れを期待しているのだろう)  途中、思い出した様に後ろ振り返ると、黒部大尉は高木軍曹に声をかけた。 「高木軍曹、後を頼む」 「大尉殿、そりゃあないですよ……」  ……後には、荷車の中で倒れている男と、高木軍曹が残された。 「宮内省宗秩寮の矢木毅です。  レディング鉱山警備隊隊長、黒部成之陸軍大尉ですね?」  黒部大尉と子供達が『探検』から帰還した時には、既に男は目を覚ましていた。  矢木と名乗るこの男は、三十代半ば頃の如何にも役人風――事実役人なのだが――の男で、『鉱山に』ではなく『黒部大尉』に用があるそうだ。 「はあ。確かに自分が黒部大尉ですが、宮内省の役人さんが一体何用で?」  全く心当たりの無い黒部大尉は、不思議そうに尋ねる。 「単刀直入に申しますと、この度大尉に爵位が下賜されることになりました。  私はそれに関する御報告に伺った、という訳です」 「はあ…… 爵位ですか…… それでわざわざ帝都から……」  お気の毒に、と同情する。 「しかし、親父……じゃなくて、父にではなく?」 「はい。御父上は『高齢のため、既に家督は息子成之に譲っている』とのことで」 「何時の間に……」  家督を譲られたとは初耳である。  まあ譲るべき『家督』なぞ無いから、その場での思いつきだろうが……  ちなみに『爵位の下賜』については、それ程驚いていない。  新爵位制度が制定されたことについては、既に耳していたからである。  昭和19年7月、ようやく懸案だった新爵位制度が制定された。  様々な思惑が入り乱れたその過程は、それだけで数冊の本になる――そう後の世から評される程の混乱振りであった、と伝えられている。  ……まあ人間、誰しも名誉が欲しいものなのだろう。  さて新たな爵位制度であるが、従来の公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵に加え、新たに大騎士爵、騎士爵が追加され、七爵となった。 (皇族方を『大公爵』とし、後に『帝國八爵』などと俗に称されるが、帝國に『大公爵』位は無い。あくまで俗称である)  結局、『抜本的な大改定』ではなく『下に追加するだけ』という、非常に無難な結論に達したのだ。  新たに加えるだけでも議論百出なのに、この上更に既に決着がついた筈の問題まで蒸し返したく無い、といった所であろう。  新たに加わる家には、その家格に応じて男爵、大騎士爵、騎士爵の三階位が下賜されることとなっている。  『知行三千石以上の武家、或いはそれに匹敵する家』には男爵位が、  『知行五百石或いは蔵米五百俵以上の武家、又はそれに匹敵する家』には大騎士爵位が、  『知行一百石或いは蔵米一百俵以上の武家、又はそれに匹敵する家』には騎士爵位が、  ――それぞれ下賜されるのだ。  ちなみに『知行三千石以上の武家』とは大名に準じる規模の家であり、当時『高の人』と呼ばれ、大いに敬われていた家である。  『知行五百石以上の武家』とは『一ヶ村以上の規模の領主』であり、『蔵米五百俵以上の武家』とはそれに準ずる武家であることを意味する。 (五百石とは、江戸時代における『標準的な村の表高』とされている)  『知行一百石以上の武家』とは『上級の武家』であり、『蔵米一百俵以上の武家』とは、それに準ずる武家であることを意味する。 (百俵以上の禄を持つ武士は、武士全体から見ても極小数の存在なのだ)  こうして新たに加わった家の中には、鎌倉・室町以来の名門、比較的新しくなると柴田勝家や朝倉義景、浅井長政の一族といった有名所の家も含まれている。 『名門に爵位を与える』という帝國の目論見は、見事達せられたと言えよう。  まあこういった名門のお零れに預かり、『それなりの家』にも騎士爵が下賜されることとなったのである。  ……一寸意外であったが、そのお零れに黒部家も預かれたのだろう。  ――帝國騎士爵、黒部成之か。悪くないなあ。  実質的な収益をもたらさない純粋な名誉であるが、悪い気はしない。  それにもしかしたら、爵位下賜に託つけて帝都に一時帰宅出来るかもしれないのだ!  そこまで計算すると、黒部大尉は下心たっぷりの笑顔で、矢木を帝國人用集会場に通す。 「それにしても、遠い所からわざわざお疲れでしょう! ささ、どうか此方へ……」 「は、はあ…… どうも……」  そして、傍に控える高木軍曹に命じた。 「おい、氷を持って来い! 大切な客人だからな!」 「ハッ!」  ……さっきまで、ほっぽいた癖に。  その余りの変わり身に、高木軍曹は唖然とすることしか出来なかった。  矢木は、渡された氷入りの茶を神経質そうに覗き込む。 「これ、氷が汚れている様ですが……」 「氷室で保管していた氷ですからねえ。多少の汚れはしょうがないですよ」  『帝都からわざわざ来た客』ということで、もてなしの意味も込めて振舞ったのに心外である。  この氷、タブリンの夏の暑さに辟易した黒部大尉達が、鉱山の地下坑道の一部を氷室として保管していたものであり、大変貴重なものなのだ。  ……まあその横で子供達が果汁と砂糖で味付けした『かき氷』を、シロがでっかい氷の塊を齧っている状況では、甚だ説得力に欠けていたが。  が、矢木は別のことで衝撃を受けていた様だ。 「氷室!? ……ここは江戸時代ですか!?」 「江戸時代だったら、良かったんですけどねえ」  と、溜息。  ここタブリンは、良くて平安時代なのだ。 「氷もそうですが、お茶に使っている水もちゃんと煮沸したものでしょうね?」  現地では生水厳禁の筈ですよ、と矢木。 「ああ、これは井戸水です。水質は防疫給水部のお墨付きですよ?  氷も井戸水を冷やしたものですから、問題なしです。 ……一寸古いですけどね」  冬に作られた氷だから、確かに古い。 「規則は規則です! 集団で下痢を起こしたら、如何するのですか!?」 「このクソ暑い夏に、湯冷ましなんか飲んでいられませんよ……」  黒部大尉は団扇を扇ぎながら答える。  ……その様は、とても栄光ある帝國陸軍大尉には見えない。 「……貴方は、本当に軍人ですか?」  普段威張り腐った軍人か、四角張ったしか軍人しか見たことが無い矢木は、目を丸くする。 「まあ帝都のお役人には、この気持ちは分からないでしょうがねえ〜」  矢木はまだ何か言いたそうだったが、諦めたのか溜息を一つ吐いた。 「……まあ良いでしょう、私は査察官じゃあ無い。  正直、早く用件を済まして帰りたいですから、本題に入ります」 「分かりました」  矢木の気持ちも理解できる。  故に、黒部大尉も同意した。 「先程も申し上げましたが、黒部大尉には――正確には黒部家には――爵位が下賜されます。  これは永代爵位であり、黒部家の当主が代々継承することになるでしょう」 「成る程」 「それで肝心の爵位ですが、黒部大尉には帝國男爵位が下賜されます」 「成る程、男爵……なんだって!?」  突然の思いがけない発言に、黒部大尉は素っ頓狂な声を挙げた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【17】 「それで肝心の爵位ですが、黒部大尉には帝國男爵位が叙爵されます」 「成る程、男爵……なんだって!?」  突然の思いがけない発言に、黒部大尉は素っ頓狂な声を挙げた。  男爵とは、今回下賜される爵位の中で最高位というだけで無く、大騎士爵や騎士爵とは異なり『元からある爵位』だ。  はっきり言って大騎士爵や騎士爵とは別格、格が違うのである。  故に、叙爵対象者も『知行三千石以上の武家、或いはそれに匹敵する家』と極めて限定されている。  要は、『帝國でも最上位の家』に下賜される爵位なのだ。  ……俺の家、そんなに御大層な家だっけ?  黒部中尉は首を捻る。  自分の家が士族だということは知っている。  が、それ以上は格別気にしたことが無かった。平民と士族の差など、全くといって良い程無かったからだ。  せいぜい、学校の卒業証書に『東京都士族 黒部成之』と書かれた位であろうか?  とはいえ、やはり士族か平民かを気にする人は多い。  ……それこそ、平民・士族を問わず。  例えば、表札に『士族 ○○』と書かれている家など珍しくもないし、『平民に嫁はやれん』『嫁は士族が良い』といった言葉もよく耳にする。 (そういえば級友の中にも、自分の卒業証書に『東京都士族』と書かれているのを、心底羨ましがっていた者が幾人かいた)  『自分には到底理解できぬ』と、思ったものだが……  今思えば、酷く傲慢な考えだったと思う。  何故なら、こうも考えられるからだ。  自分が気にしなかったのは、『既に持っているものだから』ではないだろうか、と。  『自分が士族だからこそ、気にしなかった』とも取れるのでは無いだろうか、と。  ……その証拠に、自分も『騎士爵』を貰えると思い、喜んだ。  全く、俺って奴は。  苦笑する。  なんのことはない。己の中の卑しさを再発見し、それを突付いて自虐的な思いに浸っているのだ。  ここタブリンに来てからの癖である。 (決して『そういう性癖』という訳ではない。この辺地で増長するのを防ぐための、一種の自己防衛だ) 「……大尉?」 「! いや、聞いていますよ?」  矢木の『話を聞いているか?』的な問いに、黒部大尉は慌てて『外の世界』に帰る。 「何かの間違い、じゃあ無いのですか?」  黒部大尉は、首を捻りつつ矢木に言う。  全く心当たりが無かったからだ。  確か親戚には旧旗本がいた様な気もするが、とてもではないが男爵に列する程の家柄とは思えない。 「間違いではありません。特に男爵という高位の爵位を下賜するにあたっては、何重もの確認を行っています」  黒部大尉の疑問に、心外だとでもいう様に反論する矢木。  彼は、黒部大尉が男爵に就任するからこそ、わざわざ帝都からやって来たのだ。  ……これが間違いなら、目も当てられないだろう。 (流石に、役人が出向くのは男爵だけである)  今回の改訂では、全てが私情の入る余地の無い、厳密な規定に従って爵位が決定された。  何しろ各爵位の境界線上の家は、一説に寄れば『賽の目』でその位置を決められたと言われるほどだ。 (境界線上の家は、十の内七か八まで、下位の爵位に蹴落とされた)  特に邦國の王と同格とされている男爵位については、『男爵以上の譜代貴族が従来の倍を超えぬこと』という厳しい数値目標が設けられ、少しでも基準を満たさねば容赦なく落とされたという。  結果、従来の『男爵以上の譜代貴族』約九百家に、新たに約七百家が男爵として加わり、千六百余家が男爵以上の譜代貴族(上級貴族)とされた。  ……そんな中に、黒部家も(何故か)加わっていたのだ。 「う〜ん、『親戚に旧旗本がいる』とは聞いたことがあるけど」 「多分、それだと思います」  矢木はホッとした様に答える。 「でも、親戚じゃあ関係ないのでは?  それに旗本といっても、せいぜい二〜三百石の下級旗本だと思うし」 「せめて『小旗本』と言って頂きたい!  二、三百石という高禄の武士は、武士全体の1%にも及びません!  百石ですら上位数%程度の上級武士なのですよ!?」 「えっ! そうなのですか!?」  矢木の思いがけない言葉と、剣幕に驚く。  剣豪小説とかでは、よく『百石の軽輩』とか書かれているのだが…… 「自分の家も士族で、元は某藩に御仕えする藩士でした。まあ一万七百石の小藩でしたがね。  藩では御家老ですら二、三百石程度。百石以上の御大身など、御家老を含めても7家だけです。士分だけでも140家あるのに、ですよ?  ……ちなみに矢木家は『上士』の家柄でしたが、それでも僅か50石です」 「申し訳ない。勉強不足だった」  気分を害した矢木に、慌てて詫びを入れる。  ……どうやら地雷を踏んだ様だ。 「数十万石という国持ちの御大名の御家中ですら、百石といえばれっきとした『上士』、二、三百石ともなれば『組頭』級の御大身です」 「はあ……」  内心、『上士や組頭って何だ?』と疑問に思うが、余計なことは言わずに黙って聞く。 「――という訳です」 「成る程、勉強になりました」 「まあ、しっかり勉強してください。  ……そのうち、嫌でも詰め込む羽目になりますから」 「はい?」  何やらトンデモナイお言葉が耳に入り、黒部大尉が反応するが、矢木はそれには答えず、本題に入る。 「黒部家は、御一新時には幕臣でした。それも高三千五百石の御大身です」 「へ〜」  そこまで凄かったとは、初耳だ。 「が、御一新により知行を失い、当時の黒部家は旧領があった越前に向かいます」 「越前かあ。 ……そういえば、福井県には本家があるなあ」  矢木に言われ、黒部大尉は久しく訪れていない黒部家本家のことを思い出した。  大きな屋敷を構える大地主。  近隣の人々から、『御館様』と呼ばれる名家だ。  ……ん、待てよ? 「一寸待ってくれ! その話からいけば、男爵になるのは御本家では?」  黒部大尉の尤もな質問に、矢木はニヤニヤしながら答える。 「申し上げた筈ですよ? 『何重もの確認を行っている』と」 「?」 「つまり、現在の御本家は『贋物』なのですよ」 「贋物?」  その余りの言い様に、流石の黒部大尉も眉間に皺を寄せる。 「現在の黒部本家は、黒部家の血を引いていません。  故に、『黒部男爵』とは認められません」  黒部本家の先代当主には、子がいなかった。  故に妻の実家から養女を貰い、彼女と甥を結婚させて後を継がせようとしたのだが……  先代当主のたった一人の兄弟(弟)、その只一人の子である黒部大尉の父は、その時既に東京で結婚していたのだ。 「已む無く、その養女は他の人と結婚。黒部本家を継ぎました」  だから現在の黒部本家と黒部大尉の間には、法的には兎も角、血縁関係は存在しない。 「つまり旧黒部家三千五百石の血に尤も近いのは、貴方の御父上なのですよ」 「はあ〜」  そういやあ、そんな話を母方の親戚から聞いたことがある。 (その時は、大変な騒ぎだったそうだ) 「その御父上が当主を貴方に譲られたのですから、貴方が『黒部男爵』です」 「あ、でも待ってください!  確か、『江戸時代でも養子に家を継がせることはよくあった』と聞きますが?」  厄介な話――本家と揉めそうだ――になってきたため、最早ババ抜きのババを掴まされた心境だ。 「そうですね。特に大名家や大商人の場合、『家を残すこと』の方が優先されましたからね。  が、その場合でも婿入りや血縁から迎えるのが大半で、『純粋な他人』を当主に迎える例は珍しいですよ」  そりゃあそうだろう。誰だって赤の他人に財産を渡したくないし、特に武家の場合は家臣がついてこない。 「…………」 「それに、今回の目的は『名門の復活』です。  血を優先するのは当然でしょう?」  過去のことを挙げればきりが無いため、今回は御一新の時点からの血統を最重視している。  故に、黒部大尉の父こそが『黒部男爵』の第一候補なのだ。黒部本家など問題外である。 「本家の連中、煩そうだなあ〜」  父方の親戚も煩いだろう。  何せ法事の時の席順を巡り、殴り合いすらしかねない連中である。  故に、黒部大尉の実家は御近所づきあいが主であり、親戚付き合いなど碌に――母方の極一部を除き――していない。 (父方の親戚、その大半が福井にいるせいもある)  が、これで自分が男爵となれば…… 「正直、考えたくないな」 「気持ちはお察ししますよ」  黒部大尉の躊躇い、その訳を見て取った矢木は同情する。 (矢木は、爵位を巡る醜い争いを何度も目撃しているのだ) 「じゃあ……」 「が、これは『御國の命令』でもあります。  『名門当主は爵位を持ち、その血と爵位でもって國につくせ』というね」  だから拒否はできませんよ、と矢木。  脅しでは無い。事実、『強制叙爵』なのだ。 (これは、脅しやしがらみによる叙爵拒否と、泥沼の争いを防ぐための措置でもある) 「それに貴方や御父上が継がないとなれば、血統はぐっと薄くなります。とても男爵位は渡せませんね」  大騎士爵がいいところだろう、とのこと。 「わかりました…… 御命令とあれば……」  最初の元気は何所へやら。大きくなった話と今後起こるであろう親族との遣り取りに、すっかり意気消沈する。 「では早急に帝都に帰還しましょう」 「! 帝都に行けるのですか!?」  途端に目を輝かせる黒部大尉。 「はい。叙爵対象者は、帝都で教育を受ける義務があります。  まあ簡易の即席教育ではありますが、黒部大尉は男爵ですから他の爵位の方よりは長くなるでしょうね。  その間は公休扱いであり、収入及び身分は保証されます。自営業の方にも、休業補償が支払われることになっています。  黒部大尉の場合、官なので『一時出張』扱いですね」  ……聞いちゃあいなかった。  既に黒部大尉の頭の中は、二年半振り――故郷に至っては四年半振り――の帝國本土帰還で一杯になっていたのだ。  畜生、帝都なんて何年振りだろう? 帰ったら、早速帝國料理を味わいたいものだ。  まず銀座の資生堂パーラーで、洋食料理と洒落込もうじゃあないか!  ……いや、煉瓦亭のハヤシライスとポークカツレツも捨て難いなあ。  ああ、銀座なら竹葉亭の鰻と鯛茶漬け、新富寿しの寿司も悪くない。  いやいや。ここは江戸っ子らしく、巴町砂場で蕎麦とせいろという手も……  不意に、袖が引っ張られる。 「『うなぎ』って、何? 食べ物? おいしいの?」  見ると、リータが目を輝かせている。  ……どうやら、声に出していたらしい。 「ああ。川魚の一種でな、とても旨いものだ」 「おいしいの!?」 「うむ。あれを食べずに過ごすのは、拷問だな」  思い出すだけで、涎が…… 「食べたい!」 「む!?」  リータのおねだりに、黒部大尉は首を傾げる。  帝國人以外の帝國本国入国は、厳禁である。  加えて現地人は、他地域への自由な移動すら厳しく制限されている。  故に、子供達を帝都に連れて行ってやることは……待てよ?  そういえばすっかり忘れていたがあの憲兵大佐、確か『一度だけ力を貸してくれる』と言っていたな? 「……何とかなるかもしれないなあ」 「本当!」 「うん、多分大丈夫……だろう。きっと」  あんな偉そうにしているのだから、それ位やって貰わねば困る。 「リーナ! 美味しいもの食べられるよ!」 「うん……」  余り気乗りしなさそうな、リーナ。  見知らぬ地へ行く恐怖の方が勝っているのだろう。 「おかーさまも、皆一緒だよ! 旅行だよ!?」 「……おかーさまも、シロも?」 『皆で旅行』という言葉に反応する 「もちろん!」  リータが胸を張って答える。 「うん、行く」 「ようし! 皆で旅行だ!」  すっかりその気になり、子供達とはしゃぐ黒部大尉。  久し振りの『帝都行き』に、すっかり高揚している。  ……そんな黒部大尉を眺める、様々な目。 「シロまで連れて行く気ですか……」  高木軍曹の呆れた様な声。  帝都帰還とは羨ましいですねえ、と周囲の下士官兵達の無責任な羨望。  そして矢木は、はたしてこの男に男爵が務まるのかと真剣に悩んでいた。 「……この人、本当に大丈夫か?」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【18】 「……私は、遠慮しておきます。長期間お店を休む訳にもいきませんし、シロの面倒も見なければいけませんから」  サーナは黒部大尉に向かい、いかにも申し訳なさそうに言う。  黒部大尉がわざわざ休暇をとり、子供達を送ったその夜――子供達も寝静まった――のことだ。 (無論、子供達にサーナの『お仕置き』が待っていたということは、言うまでも無いだろう) 「むう」  サーナにそう言われると弱い。  情け無い話ではあるが、自分には『休め』と言えないのだ。  それに冷静に考えれば、子供は兎も角、サーナとシロを連れて行くのは難しい。  時期も悪い。 (只でさえ帝國人以外の入国に関しては厳しく制限されているというのに、例の事件の影響で余計ピリピリしている御時世だ)  とてもではないが、成人であるサーナの入国は許可されないだろう。  シロに至っては、問題外だ。  帝都に『高機動の重火器』を持ち込む様なもの――カウナス憲兵少尉はシロを見て絶句した――だ。  まあ物理的に考えても、700kgを越えるシロを空輸するのは難しい。  それこそ、荷物扱いで船で運ぶしか無い。 「じゃあ、子供達と……」 「御勉強に行かれるのでしょう? 大丈夫ですか?」 「何、半分は帰郷さ」  あくまで気楽な黒部大尉である。  が、サーナは真剣だ。 「クロベ様」 「おいおい、改まって何だよ?」 「叙爵おめでとう御座います。これで貴方は帝國貴族に列しました。  ……でも、最初が肝心です」  子供達は勉強の邪魔だろうし、陰口の種にもなるだろう、とサーナは言う。 「必ずや妬み嫉みがあるでしょう。  どうか、その様な輩に自ら種を与える様な真似は思い止まりますよう」 「…………」 「サトウ様の助力も一度きり、なのでしょう?  その様な貴重なものを、この様なことで……」 「子供達やお前に、帝都を見せてやりたかったのだが……」  黒部大尉の言葉に、サーナは寂しそうに微笑んで答えた。 「有難う御座います。けれど、そのお言葉だけで充分です。  縁があれば、またの機会もあるでしょう」  ……それに、私や娘達を何と御紹介なさるお積りですか?  が、その言葉は声に出ることは無かった。  彼女は分かっているのだ。  黒部大尉はもう28。数ヵ月後には29になる。  いかに帝國人が晩婚――あくまでタブリンの基準だ――とはいえ、いい加減一人身は限界だろうということを。  ましてや帝國貴族になったことでもある。今回の帰郷を好機とし、周囲は結婚を勧めるであろうことは、想像に難くない。  そして黒部大尉には、それに答える義務がある。  帝國貴族として、黒部家当主として、家を守るために。 (もうタブリンには、帰ってこない可能性すらある、とすらサーナは考えていた)  故に、彼女は肝心のことは言わなかったのだ。 「子供達に恨まれるなあ」  そんなサーナの思いにも気付かず、黒部大尉は能天気に頭をかく。 「子供達には、私から言っておきましょう」 「……頼む」  黒部大尉は、サーナに頭を下げた。  帝都行きは決まったものの、出発前にやらねばならぬことは山とある。色々忙しい。  溜まった書類の決済、その他溜まった仕事の片付け、そして後任者への引継ぎの準備……  こうして数日間があっという間に過ぎていった。  そして出発の前日、その朝。 「谷中尉、只今着任いたしました!   黒部大尉殿の御不在の間、レディング鉱山警備隊隊長代理の任にあたります!」  隊長代理を命じられた谷中尉は、緊急の赴任の為、贅沢にもワイバーンに乗ってやって来た。 「ああ、御苦労。久し振りだな谷少尉……いや、今は中尉だったか。済まない」  谷中尉とは、以前黒部大尉がタブリンに着任した際、色々世話してくれた少尉である。 「いえ、大尉殿こそ大活躍だったじゃあないですか。  加えて大尉への御昇進、そして今回の男爵叙爵。凄いですよ。  司令部じゃあ、話題の的ですよ?」 「よせやい。どうせ『死神』なんて噂だろ?」 「あ〜 そういう方も、極一部……」  物事をはっきりと言う谷中尉にしては、珍しく口篭る。  実際『死神』どころか、一部では『疫病神』とすら陰口を叩かれていた。  まあ無理も無い。  黒部大尉は、結果として初代司令官と第二代司令官の双方の死――初代司令官は拳銃で自決、第二代司令官は獄中で縊死――に立ち会ったことになるのだから。  加えて今回の事件により、タブリン地区司令部は憲兵隊に掻き回され、多くの逮捕者を出した。  その際、他の地区では見過ごされるような微罪ですら、とばっちりで何らかの処分を受けたのである。  故に、一部の将校――何らかの被害を受けた――からは、『余計なことしやがって』的な目で見られているのだ。  ……まあ、更に一部の将校――今までの状態を苦々しく思っていた――からは、喝采を浴びていたが。 「正直、例の事件の余波による士気の低下は無視できませんから」  未だ新しい地区司令官すら決まっていないですし、と首を振る谷中尉。  現在、タブリン地区司令官の席は空白のままである。  もう数ヶ月も、最先任の将校(先任少佐)が司令官代理を務めているのだ。  というのも、僅か数年の間に連続して司令官が非業の死を遂げたため、他所の連中から『呪われた地、タブリン』などと言われて敬遠されているためである。  只でさえ辺地であるのに、そんな所誰が行きたいだろうか?   ……要するに、ババを押し付けあっているのだ。  何しろ方面軍司令部内では、『いっそ黒部大尉を司令官にしたらどうだ?』などという、自棄っぱちな意見も一部にある程だ。 (無論、地区司令官は大佐か少将が務めるべき役職――中佐ですら『特例』だったのだ――であり、黒部大尉には無理なこと位は誰もが理解している。  が、この事件の余波が方面軍どころか大陸全体の軍を揺さ振り、その後始末にてんてこ舞いになっている現状では、『全ての原因を作った奴が責任をとれ』と、文句の一つや二つ出るのも止むを得ないことであろう) 「まあ仕方が無いさ。逆に考えれば、『それだけ平和』ともとれる。  その内、新しい司令官がやって来るなり、いまの司令官代理殿が司令官に昇格するするだろうさ」 「はあ…… 大尉殿は、元気ですねえ」  黒部大尉のテンションの高さに、谷中尉も引き気味だ。 「ああ。引継ぎその他でここ二、三日碌に寝ていないが、久し振りの帝都帰りで気分も高揚している。気分は最高だな」 「大丈夫ですか? 寝てて、飛竜に振り落とされないで下さいよ?」 「何、大丈夫さ。ちゃんと体は固定されているんだから」  引継ぎを手短に済ませると、黒部大尉はワイバーンに跨る。  固定ベルトを付けましたか、という騎手の問いに『おう』と答えると、集まった皆――子供達がいないのは残念だが――に顔を向ける。 「じゃあ、留守番を頼んだぞ!」  ワイバーンは大空に舞い上がり、鉱山を後にした。  ここレディング鉱山から帝都に行くには、まず何につけてもタブリン地区司令部のあるダソレルにまで行かねばならない。  そしてダソレルから、飛行機か鉄道で方面軍司令部直属の港か飛行場に向かうのである。 ……途中、何度も乗り換える必要があるが。    幸い今回は谷中尉が乗ってきたワイバーンに乗れるため、二時間足らずでダソレルに着くが、本来ならば竜車で最寄の駅まで行き、そこから鉄道でダソレルに行かねばならないため、少なくとも十時間程はかかるだろう。 (それでも、鉄道で行ける様になっただけマシである。当初は竜車で数日かけて荷を運んだものだ)  そしてダソレルからは、飛行機だ。  まず間近の師管区飛行場に行き、そこで乗り換えて今度は軍管区飛行場に向かうのだ。そしてそこで再び乗り換えて、最終的に方面軍飛行場に向かう。  都合二回乗り換える訳であるが、以前タブリンに着任した時と比べ、遥かに乗り換えの回数と手間が簡素化されており、帝國の大陸統治体制が整のえられつつあることが実感された。 ……それでも、丸一日かかったが。 (これが鉄道なら、一体何日かかることやら) 「は〜 流石に方面軍飛行場、賑やかだねえ」  輸送機を中心とした大型機専用の飛行場、それも幾つか有る内の一つに過ぎないが、十数機の大型機が並んでいる様は中々壮観である。  加えて、建物は木造の粗末なものではなく、鉄筋コンクリート製の立派なものだ。高射砲や機関砲もちらほら見える。 「……こんな中心部、いきなり襲われないと思うけどなあ」  どちらかといえば、先ず辺地から襲われる可能性が高い。 「まあ、ここには高価な飛行機やら物資やらが山の様にあるからなあ。仕方が無いか」  一人で納得すると、再び観察に移る。  この程度の活気を眺めるだけでも、充分面白い。  ……どうやら長いタブリン暮らしのせいで、すっかり田舎者になってしまった様だ。  さていよいよ最後の旅、内地に向かうのであるが、何しろ大陸―内地間は3000海里(*南ガルム―内地間の場合)もある。  故に船の場合、途中無寄航としても10ノット(低速船)で12日以上、16ノット(高速船)でも8日近くかかるのだ。  これが飛行機の場合だと、巡航300q/hとして18〜19時間だ。  勿論、航続距離が3000海里も無いので、途中乗り換えを必要とするが、それでも主力輸送機である二式陸上輸送機――九六式陸攻を殆ど無改造で転用した機体――ならば、荷を満載した状態でも一回乗り換えで済むため、丸一日もあれば内地に着く。  ……もっとも、飛行機に『乗れる』又は『載せられる』人物や荷物は、かなり限定されてはいるが。 (とはいえ、100機以上の九六式陸攻を輸送任務専用に転用したことにより、空輸事情はかなり改善――転移前ならば贅沢とすらされるだろう――している。  九六式陸攻は輸送機として使うには色々欠点の多い機体ではあるが、その長大な航続距離と信頼性の高さ、そして何より100機以上という『数』は、他の欠点を補って余りあるだけの美点だった)  幸い黒部大尉はその『限定された人物』に何とか潜り込めたが、矢張りと言うべきか、機内の乗客は全員黒部大尉より高位――それも遥かに――であった。  加えて、皆糊のきいた立派な98式軍衣を来ているが、黒部大尉はくたびれた防暑衣略装である。  何とか目立たぬ様試みるが、これでは目立たぬ筈が無い。  ――あの大尉は誰だ? 何故乗っている? ……何、あいつがあの黒部か?  ……道中、大変肩身の狭い思いをする羽目になった、とだけ言っておこう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【19】 「何だよ…… これ……」  ドサッ  持っていた荷物が落ちたことすら気付かず、黒部大尉は呆然とする。  ……駅から降りると、辺り一面は更地となっていたのだ。  帝都大開発。  帝都を超大国の首都として相応しいものにするため、帝都全域を再開発しようという、実に壮大な計画である。  昭和18年から本格的な工事が始まり、現在は第一期と位置付けられ、麹町・神田両区の再開発――区全域の国有化と宮城・官庁街化――に重点的に行われている。  他地域への本格的な開発は、この千代田区の開発が完了してからである。  これは住民への影響を考慮し、帝都を複数の区域に分割、その区域を集中して開発する方式が採られている為だ。  ……無論、『帝都の顔』である宮城と官庁街の整備に全力投球している、ということもあるだろうが。    この開発と平行して行われているのが、交通事情の改善だ。  鉄道の複線化や電化といった公共輸送網の強化、将来の交通量の増加を見越した道路の拡張と舗装化が行われている。  これ等の工事は、開発重点区域とは関係無しに、帝都各地で行われていた。    この様に完成まで一体何十年かかるか分からぬ超巨大計画ではあるが、最終的に帝都は超近代的な計画都市に生まれ変わるであろう、と政府は誇らしげに喧伝していた。  ……帝都住民側の、事情や思いを無視して。  黒部大尉の実家は神田。  そこは現在、『再開発』の真っ只中にあった。 「何だよ…… これ……」  黒部大尉は、もう一度呟いた。  見渡す限りの更地。  彼の故郷は消失していたのである。 「おや! 成之ちゃんじゃあないか!」  呆然とする黒部大尉を呼ぶ声。聞き覚えのある声だ。  振り向くと、子供の頃から顔見知りの甘酒屋のおばあちゃんがいた。 「甘酒屋のばあちゃん!」 「成之ちゃん! 何時帰ったのだい!?  ……何も知らせてくれないなんて、酷いじゃあないか!」 「……御免よ、ばあちゃん」  子供の頃から知っている(知られている)御近所の『ばあちゃん』には、とうてい頭が上がらない。さしもの帝國陸軍大尉殿も形無しである。 「全く、図体ばかり大きくなって! 親御さんにも、碌に手紙も遣さないそうじゃあないか! ……全く、親不孝だよ」  手紙の代わりに、あんな『羽織ゴロ』共を遣すとは…… と嘆く。  昔気質の彼女にとって、新聞記者などというものは、実に怪しげな連中なのだ。 「全くもう30になるというのに、未だに親御さんに孫を抱かせてあげられないだけでも、充分親不孝だというのに……」 「……まだ28だよ、ばあちゃん」  子供という言葉に、リータとリーナを思い浮かべつつ抗議する。 「あと数ヶ月で29じゃあないかい、もう30と同じさ!  早く親御さんを安心させて挙げな!」 「うん……」 「それだけじゃあないよ。いいかい、今すぐ結婚しても子供が出来るのは30さ。  その子が成人した時、お前は幾つだい? もう50じゃあないか!  二人目、三人目が成人した時、お前は幾つになっていると思う?  ……子供を育てるには、沢山の労力とお足がいるもんだよ?」  ばあちゃんの話は長い。  いや、ばあちゃんだけじゃあなく、近所の皆の説教は長かった。拳骨もよく飛んだものだ。  当時は、敬遠したものだが……  何故だろう。何か無性に懐かしいのだ。嬉しいのだ。  ……ああ、俺は帰ってきたのだなあ。  視界が曇る。 「! ちょっと、成之ちゃん! 大の男が人前で泣くものじゃあありませんよ、みっともない!」 「御免よ、懐かしくして…… つい……」  故郷の変貌。  変わり果てた故郷の姿に、只呆然とするしか出来なかった自分に声をかけ、昔と同じ様に接してくれたばあちゃん。  それが、たまらなく嬉しかったのだ。 「……まあ、四年半振りだものね。御国のために遠くで頑張って、それで故郷が『これ』じゃあしょうがないよねえ」  ばあちゃんが、苦笑する。 「ほら! しっかりおし! 将校さまなんだろう? 天子様から、特別に勲章を頂けるんだろう?  ……全く、図体ばかり大きくなったのに、子供なのだから」  事実である。  黒部成之帝國陸軍大尉は、生者でありながら、特例――昭和15年4月29日以降から死者のみに叙勲――として金鵄勲章(功四級)が下賜されることが決定していたのだ。  理由は、『三年半以上に及ぶ大陸での活躍と、今回の列強間諜網の摘発の功』によるためだ。 (実は、政府は生者に対する金鵄勲章の叙勲復活を目論んでいた。  これは日中戦争が終結したこと、士気の向上を期待してのことである。  黒部大尉は、その名誉ある『復活叙勲第一号』という訳だ。  ……そういう意味でも『利用された』のだろう)  が、これが表向きの理由に過ぎないことを、黒部大尉は察していた。  真の理由は、今回の事件に対する『口止め』だ。  今回の事件、その顛末を知る唯一の部外者である自分。  その自分に対し、懐柔すると共に『一蓮托生』――ことの真相が公になれば自分も無傷ではいられない――にしようという魂胆であろう。  無論、『口止め』させるには他に幾らでも方法があるのだから、どちらかといえばかなり協力に対する報酬の色合いが強い。  報酬のスケールの大きさから考えて、佐藤憲兵大佐による口止めというより、もっと大きな存在が背後にいるのに違いがなかった。   「ばあちゃん、なんで知ってるの?」  黒部大尉は首を捻る。 「あれだけ騒がれりゃあ、当たり前だろう?   新聞やラジヲじゃあ連日の報道さ。耳にタコだよ」 「……大陸の新聞やラジヲじゃあ、それ程騒がれなかったから」  大陸でのラジヲ放送は、各方面軍が大陸現地で開設した局が独自に放送しているし、新聞も各方面軍が独自に本土の各新聞の記事を取捨選択し、これに大陸での出来事を追加したものを各部隊に支給している。  故に、例の事件の影響もあり、本土の様子は当たり障りの無いものに限られているのだ。 「新聞じゃあ、『軍神』なんて書いてあるところもあるさ」 「……なんかすぐ戦死しそうな響きだなあ、嫌だなあ」  それに恥ずかしすぎる。  御他人さんならばまだ我慢も出来ようが、自分を赤子の頃から知っている様な相手に『軍神』などと呼ばれては、赤面ものだ。 (特に『偽者』だから尚更である) 「まあ折角の帰郷さ。来な、甘酒を御馳走してあげるよ」  暫く歩くと、漸くちらほらと家々が見えるようになった。  が、廃墟の中に散在する家々は、余計寂しさを増幅させる。  ……それが見知った家ならば尚更だ。  そんな中に、ばあちゃんの甘酒屋はあった。 「……皆、無くなっちゃったんだなあ」  店の席に着くと、溜息が出た。  新聞で読んだ時は、軽く流したものだが…… 「私の甘酒屋は、工事人足の一時休憩所として、とり合えず残されたのさ……  何れ、取り壊されるだろうけどね……」 「ばあちゃんの甘酒は、天下一品だからね。 でも、もう直ぐ飲めなくなるのか……」  ばあちゃんの甘酒は自家製である。  自宅兼店の地下にある『石室』で作られた糀を、釜で粥と一定温度で保持して作るのだが、砂糖を一切使わないその甘酒は、正に一飲の価値があるだろう。 「あの地下室じゃなけりゃあ、この味はでないさ……  江戸時代から続いた店も、もう終わりかねえ……  まあ跡継ぎもいないし、潮時なのかもしれないねえ」 「ばあちゃん……」  夫に先立たれ、女で一つで育てたばあちゃんの息子達は、皆戦死しているのだ。 「ここが無くなったら、どうするんだい?」   「しばらく、御国が用意してくれた長屋で長屋暮らしさ。  何年かしたら、『まんしょん』とやらに住まわせてくれるらしいけど、長屋の方がいいさ……   なんでも、新しい家は『まんしょん』の五階(実際は四階だが縁起が悪いため、公式にも五階とされている)らしいよ。おお怖い! 人は地面から離れて寝るものじゃあ無いさ……」  石の家に住むのも嫌だしね、とばあちゃんは笑う。  彼女には、家と土地を店ごと収用する代償として、新しく建設するマンション――実質的には公団住宅――の一室と国債が与えられる。  国債の方は売却不能の特別の債権であり、五十年かけて償還される。  ……ちなみに年額は、『老婆一人ならば、まあ喰うのには困らないだろう』程度のささやかな額だ。  その他に、ある程度の一時金が『引越し代』として渡されている。  甘酒売りしか出来ぬであろう老婆に対する、担当者の精一杯の心遣いだった。 (店の営業の延長が許されたのも、同様の理由だろう。  無論、甘酒の美味さもあるだろうが……) 「でも、他に住む所の当ては無いしねえ。何より、皆と離れたくないし……」  各マンションには、かつての近隣住人同士が集められることになっている。  これは、帝都の治安を守る警視庁の強い要請のためである。 (警視庁は、地縁の崩壊による治安崩壊を深く懸念していた) 「ご馳走様。美味しかったよ。 ……何年振りだろう?」  サーナや子供達にも、飲ませてやりたいと思う。 「ばあちゃん、俺にも作れるかなあ? 大陸への土産にもいいだろうし」 「糀は取り扱いが難しいからねえ…… 分けてあげても良いけど、多分向こうにつく頃には駄目になっていると思うよ」 「……そうかあ」  いい考えだと思ったのだが……  溜息を吐きつつ、懐かしい店内を目にやる。  工事の影響で大分汚れ埃っぽくなってはいるが、何もかもが懐かしい。  ここも、もう直ぐ壊されるのか……  今度又来る時には、俺の故郷は完全に消滅しているだろうな。    それは、堪らなく寂しいことであった。  帝都大開発。  それは確かに、帝國に好景気をもたらす原動力のひとつ――それも大きな――となっていた。  完成の暁には、帝都は荘厳かつ効率的な超巨大都市に生まれ変わるだろう。      ……しかし、それと引き換えに何か大切なものが失われようとしているのではないだろうか。そう思えてならなかった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【20】  幸い、黒部大尉の実家は無事だった。   ……あくまで、『今のところは』という但し書きが付くが。  久し振りに再会した両親は、大分年老いたように見えた。髪も大分白くなっている。  両親は、突然の帰宅にもかかわらず、思ったよりは驚かなかった。  薄々は察していたのであろう。  只、喜んでくれたことだけは確かである。  その後、残っていた近所の人達が集まり、帰還を祝った宴会が開かれた。  残っていた人々は驚く程少なかったが、それでも大変賑やかな宴会となった。  これで全員揃っていたら、『どんなに賑やかだったであろうか』と思うほどである。 (まあ逆説的に言えば、だからこそ――少ないからこそ余計――騒いだとも取れる。  町が無くなるという暗い雰囲気の中、黒部大尉の帰還は唯一の明るいニュースだったのだから……)  宴会が終わり、皆も帰ると家の中は途端に静かになった。  家が少ないせいもあり、辺りは闇に覆われている。  そんな中、黒部家の今後を決定すべく、家族会議が開かれた。  今回、黒部家は男爵に叙爵された。  ちなみに公爵は従一位、侯爵は正二位、伯爵は従二位、子爵は正従三位、男爵は正従四位、新たに加わった大騎士爵と騎士爵については、それぞれ正六位と正七位に匹敵するとされている。  これ等有爵者は、その爵位と年齢に応じ、相応の位階が与えられることとなっていた。 (逆に言えば、無爵であっても位階の保持者ならば、その位階に相当する爵位に準じる待遇を受けられる)    ちなみに帝國の位階は、位階令により正一位から従八位までの十六位階とされている。  うち授与形式については、正従一位は親授、正二位から従四位までは勅授、正五位以下は奏授とされる。  この形式の差により、一位と二位以下、四位以上と五位以下、特に四位以上と五位以下の間に大きな壁があることが分かるだろう。    また、一見大騎士爵と騎士爵の扱いが、男爵以上の爵位と比べて低すぎる様にも見える――ある意味その通りではあるのだが――が、これは男爵以上が邦國國王に与えられる爵位であることからの差別化である。  彼等の身分は、決して低く無い。  例えば、『騎士爵に準じる』とされる正七位でさえ、軍で言えば大尉、警官ならば警察署長級の位階なのだ。 (軍の相当階級が比較的低いのは、それだけ軍が重視されているためである。  例えば、軍ならば下士官以上はれっきとした『官』――判任官――であるが、警察の巡査は官――判任官――待遇でこそあるが、正式には官では無く雇員に過ぎない。  まあ、帝國役人の九割方は雇員傭人ではあるのだが……)  話は長くなったが、この様に男爵の格式はかなり高い。  下手な邦國の王(人口十万人未満)と同格の爵位なのだ。  その男爵に叙爵。これは、大変に目出度いことであろう。 ……傍から見れば。  実の所、黒部家にとって今回の叙爵は、決して手放しで喜べることでは無かったのである。  そしてこれは黒部家のみの意見では無く、今回新たに叙爵された者達の最大公約数の意見でもあった。  さて、今回多くの帝國人が帝國貴族(騎士爵以上のこと。華族は男爵以上)に列せられることとなった訳であるが、実の所多くの者にとっては、先ほども述べた通り『有り難迷惑な話』であった。  帝國貴族には様々な義務がある。  はっきり言って、実質的な権利は殆ど無い――虚栄的なものが大半――が、義務だけは幾らでもあるのだ。  例えば――  ・帝國貴族に相応しい振る舞いを身に着け、かつ実践する。  ・子弟に対し、相応しい教育を受けさせる。  ……これはまだ良い。問題はここからである。  ・帝國貴族に相応しい相手との婚姻。  ・帝國貴族に相応しい体面を保つ。  教育や礼儀作法については、華族ならば学習院本校、華族では無い貴族ならば学習院分校に行かせれば良い。  学費は帝國の負担だし、財力の乏しい家の子弟には、援助――学費以外の費用について――もある。 (学習院分校とは、爵位保有者の拡大に伴い、大騎士爵以下の子弟を対象に各地方に置かれた新設校だ)  が、『帝國貴族に相応しい相手との婚姻』という義務は、少し厄介だ。  帝國貴族やその子弟の婚姻については、宮内省への報告と認可を必要とするが、相手の素行は無論、親兄弟や一族縁者の素行についても調べられ、犯罪者や素行不良者、精神異常者が一人でもいれば御破算となる。 (無論、親兄弟の職や身分についても調べられる。原則として士族以上でなければ不可だろうし、下手な職業でも不可だ)  更に厄介なのは、『帝國貴族に相応しい相応しい体面を保つ』という義務だろう。  実の所、他の問題などは簡単に……とまではいかないが、解決可能な問題であるし、言わば『先の話』だ。  新たに叙爵した者についての教育は、簡単な礼儀作法や宮廷基礎知識、後は自家の歴史を叩き込む『即席教育』を受けるだけで良い――その子弟は学習院本校や分校に強制転校させられるが――し、結婚についても、現在の段階で既に結婚している者に関しては不問、婚約している者も原則として無条件にその結婚が認められる。 (まあ欲が出て破談となる例も少なからずあり、これによる騒動で早速罰せられた家すらあったが)  が、『体面』に関しては特例は無い。  例えば、職業。  帝國貴族の職として認められるのは、『人に頭を下げぬ(とされる)商売』のみ。  要するに、地主や企業経営者、勤め人ならば官、或いは医師や学者等の高等技能者のことだ。譲ってホワイトカラーまでだろう。 (当然、商売人や職人、新聞記者などは不可だ)  ……つまり、『相応しくない職』に就いている者に関しては、強制的に離職せねばならないのだ。  理不尽である。  今回の叙爵に関しては、強制――争いを防ぐため――だ。  なのに、職まで失うとは到底納得がいかないだろう。    爵位を貰っても、年金等の金銭的な特権は存在しない。  精々叙爵時に一時金を貰う程度だが、それとて身の回りを整えるのがやっとの額だ。 (というより、正にそのための一時金なのだが……)  離職するに者関しては補償金が出るが、かといってそれで一生喰える訳では無い。数年、良くて十年が限度だろう。  とどのつまり、多くの者が職を失う羽目となったのだ。  このため、帝國政府は後に特例として彼等を大陸資源公社等に就職させ、ある程度の収入を保証する羽目となる。 (大陸資源公社とは、大陸での資源開発を行う組織であり、大陸―帝國間の輸送にも関与する巨大組織である。大量除隊した軍人の受け皿にもなっていた)  が、これは所詮今回限りの措置、あくまで特例である。  次世代以降は、自力で身分に相応しい職に就かねばならない。その前途は多難であった。 (恐らく、多くの者が官や軍へ進むものと思われた)  体面は何も職だけでは無い。衣食住、全てに言えることだ。  まあ人目につかぬ『食』は兎も角、普段から人目につく『衣』と『住』に関しては、身分に相応しいものとせねばならない。一時金も、本来『衣』を用意するためのものなのだ。  よって、長屋住まいなどとんでも無い話である。  借家住まいも不可とされ、自分の土地建物に住むことが強要された。  自前で用意出来ぬ者には、止む無く官地を貸す――貸し手が國なら良い――ことで対応した。 (無論、只では無い。少なからぬ額を地代として徴収され、収入に比して不相応の支出を強要されるのだ)  この様に、新たに貴族になった者達は多大の負担を強いられることとなり、その負担の重さに悲鳴を上げていた。  彼等の多くは只の平民であり、とてもこれを実行できるだけの財力など持ち合わせてはいなかったのだ。  故に帝國は当初の計画を修正し、ある程度の助成――不十分ではあるが――を与えることとし、婚姻に関してもある程度の柔軟性――持参金目当ての平民との結婚を一時的に認める――を持たせる羽目になる。  ……とはいえ、國が面倒を親身に見るのは男爵以上、せいぜい大騎士爵までであり、帝國貴族の大半を占める騎士爵については、通り一遍の世話をするに留まった。  これは彼等の数の多さもあるが、何もそれだけが理由では無い。  帝國は、彼等騎士爵を『大騎士爵以上の飾り付け』『現地有力者に与えるための手頃な爵位』と考えていたのである。 (このため騎士爵の多くが困窮し、解禁後に大陸へ向かう者も少なからず存在した。  彼等の多くは現地の小規模有力者と合一し土着するが、この成功は更に上位者の土着を呼び込むことになる)  尚、この一連の厳しい管理は、以前からの貴族(華族)にも適応された。  彼等の多くは、この管理強化――以前からあったが名目のみ――に、新興貴族と同様悲鳴を上げることとなる。  裕福な貴族など、少数派に過ぎなかったのだ。  その点、黒部家は恵まれていた。 ……中途半端に。  黒部家は、一応地主である。   二町歩と少しの田と府内に五軒の長屋を所有している程度の、だが。  故に、上記の國からの助成、その一切合財を受けることが出来なかった。 (唯一の助成は、就任時に与えられるであろう一時金位だ)  つまり、自力で男爵としての体面を保つことを余儀なくされていたのである。  ……帝國政府は、『黒部家の資産ならば可能』と判断したのだ。無責任にも。  まあ職については、問題無い。  当主たる黒部成之は、帝國陸軍大尉であるし、父も某大学の助教授――既に退官し恩給暮らしだが――だ。地主(零細だが)という副業も、貴族に相応しい。  問題は、『住』である。  黒部家の住居は、帝都は神田の庭付き一戸建てである。無論、自前の土地だ。  が、高々七十坪程度の家では、到底男爵としての体面を保てない――そう宮内省は通達してきた。  宮内省は、速やかに男爵家として相応しい屋敷を用意することを要求していた。  御丁寧にも、宮内省は具体的な手段も提示していた。  一つは、『家作に引っ越す』。宮内省から見れば、最善の措置だ。  黒部家は、日本橋に五軒の長屋を所有している。その総坪面積は、約三百坪。  この土地を自邸とせよ、ということだ。  現在の家は収用されるので、その金で屋敷を立てることになる。  が、この手段では、資産が自宅と田しか残らない。  もう一つは、『収用される家に相当する代替地を貰う』。宮内省から見れば、次善の措置である。  収用される土地は、七十坪程度とはいえ皇居の近くだ。 加えて立退き料も加算されるので、郊外まで足を伸ばせば、代替地は何倍もの広さの土地となるだろう。  ……土地に屋敷を立てるには、田を手放すか、長屋を一〜二軒手放さねばならないが。  どれも痛し痒しである。  が、早急に決定せねばならない。  現在の収用延期とて、『当主たる成之が不在のため、我等の一存ではその様な重大事を決められません』という理由で、宮内省経由で特別に延期されているのだから。  まず第一の案では、収入は殆ど期待できない。  現在、小作料は下降の一途である。  転移前(昭和16年)には五割を越えていた小作料相場が、現在(昭和19年)では四割を切っている。  小作料は現在も尚下がり続け、来年度(昭和20年)には三割五分前後、そして数年以内には、三割を割り込むのではないかと見られていた。  つまり最終的には、小作料は半分――或いはそれ以下――となってしまう。これではとても、現在の暮らしを維持できないだろう。  第二の案についても、第一の案よりは遥かにマシであるものの、現在より収入減――田を売り払うのだから当然だ――となるのに加え、大幅な支出増――男爵としての体面の維持のため――を余儀なくされることに変わりは無い。  加えて新しい屋敷は、東京の北か西か南の端、田畑が辺りにある様な田舎である。 「そりゃあ収入の面から考えれば、郊外に行くのが良い位は分かるさ。  ……けど、あんな『田舎』にまでいかなきゃあならないなんてねえ」  あんな所、お江戸じゃあないよ、と母は嘆く。  「けど、恩給と小作料だけじゃあ、新しい屋敷を維持できないだろう?」  出来ないことは無いが、苦しいことは分かりきっている。  特に、小作料がアテにならない――小作人の確保すら困難になりつつある――ことを考えれば。  が、郊外に移れば、家作に関しては維持できる。  だから、何とか男爵としての体面を保つことが出来るだろう。 「……それでも、今より余裕が無くなることには変わりが無いなあ」  と、父。  「う〜ん」  黒部大尉は考え込む。  幾らマシな手とはいえ、年老いた両親に住み慣れた地を離れろというのは、些か酷な話である。  ……俺に、もう少し甲斐性があればなあ。  タブリンでは久しく経験しなかった感覚に、苦笑する。  これこそが、黒部成之の本当の姿なのだ、と。 「こんな時に、こんな話を持ち出すのも何だけれど、実はお前に縁談が来ているんだよ」  そう言って、両親は縁談写真を多数持ち出してきた。  話によれば、どれも資産家の娘だそうだ。  故に、持参金も沢山。  ……『こんな時』だから、持ち出したのじゃあ?  今までの前振りも、全てこのためでは?――そう疑いたくなる程の手際の良さだった。 「悪いけれど、まだ結婚する気は……」 「お前はもう28なんだよ! 結婚する時には29じゃあないかい! ギリギリだよ!」  幾ら初婚で男とは言え、三十男じゃあ条件がぐっと落ちるよ、と怒られる。 「男爵になったし、大手柄も立てた。今が『売り時』なんだぞ?」 「でも……」  それでも尚も渋る黒部大尉に、両親は真剣な表情で聞く。 「……お前、まさかダークエルフの娘なんかに、誑かされているんじゃあないだろうね?」 「何故に、ダークエルフ?」  ダークエルフの女性なんかに会ったことも無い黒部大尉は、怪訝な表情で聞き返す。 「最近、御偉方の御子息の一部に、ダークエルフの娘と結婚する例があるからねえ」  今回のこともあるし、気になったのだそうだ。 「お前も跡取り息子なのだから、いい加減身を固めて欲しいのさ。  その際の相手も、やはり帝國人のお嬢さんを貰って欲しいんだよ」 「…………」 「本当なら、とうに結婚している筈だったのだよ?  それを、勝手に将校なんかになってしまって! お蔭で未だに軍隊暮らし、おまけに大陸行きじゃあないか……」  士官学校を出ていない将校なんて使い捨てだよ、と嘆く。  そう言って渡された写真には、黒部本家の跡取り娘の姿が映し出されていた。