帝國召喚 外伝「辺境警備隊隊長よもやま物語」 【6-1】 一行が丘の中腹まで登ると、一頭の巨大な『犬』が道を塞いでいた。 サーナ家の愛玩犬兼番犬、シロである。 子供達が歓声を上げて駆け寄ると、ガオガオと鳴きながら嬉しそうに長い尻尾を振る――もとい、地面に叩きつけている。 ……ビシッ、バシッという重い響きと共に。 黒部中尉が、シロのためにわざわざ運んで――ゴザで引きずって――きた雄牛(成牛)の足を投げてやると、直ぐに飛び付き、バリバリと音を立てながら大腿骨ごと噛み砕いて貪り喰う。 そんなとても犬には見えぬ様を眺め、高木軍曹は、前々からの疑問を口に出した。 「……中尉どの、前から思っていたんですがね。こいつ、本当に犬ですか? 何か、鳴き声からして違う様な?」 軍曹が首を捻る。が、黒部中尉は意にも介さない。 「何を言う? ちゃんと喜べば尻尾を振るじゃあないか!」 「『振る』というより、『地面に叩きつけている』って感じですがねえ……」 あの尻尾を喰らったら只では済まぬだろう、それ程の威力だ。 ……といいますか、尻尾を振れば犬ですか? 「それに、なんかやたら成長が早いし」 一月前と比べて二周りほどでかくなっている。 ……それ以前に、つい十ヶ月程前は、生まれたばかりの仔猫程度の大きさだったのに! 「まあ200〜300kgはあるだろうなあ」 「一応、調べて貰った方が良いのでは?」 「とはいえ働き者だし……」 家の家畜を狙う野犬や狐を狩る上、骨も残さず食べてしまうから後始末の必要も無い――まあ多少の毛や血の跡は残るが――し、鼠も沢山食べてくれる。 おかげでサーナの家は害獣に悩まされないで済んでいる。シロ様々だ。 (時々木に登って、野鳥を捕まえて食べてもいる様だ) 「それ、絶対犬じゃあ無いですよ!」 シロの『働き者振り』を説明された高木軍曹が頭を抱える。 「……第一、子供達が可愛がってるからな」 ……結局最後はそこですか。 黒部中尉の親馬鹿振りに、高木軍曹は溜息をついた。 【6-2】 子供達を背に乗せて歩くシロを先頭に、一行は丘を登る。 暫く歩くと、ようやくサーナの家が見えてきた。 サーナの家は、以前の様な掘っ立て小屋ではなく、木造建ての立派な家屋となっている。 黒部中尉が、白砂糖一升で竜借屋に作らせたのだ。 『白砂糖一升で家一軒』である。 確かに帝國でも、未だ白砂糖は統制品であり、手に入れるのは困難だ。ましてや一升などという量、一般市民には入手不可能であろう。 (それこそ、闇で大枚叩いて手に入れるしかない) 将校の上、辺境手当ての付く黒部中尉だからこそ、何とか手に入れられたのだ。 が、それにしても家一軒とは! ……実はタブリンでは、白砂糖にそれだけ、いやそれ以上の価値があるのである。 タブリンでは砂糖は産しない。故に、白砂糖は珍重品だ。 嗜好品というより、『薬』といった所であろうか? (帝國統治後、それなりの量の白砂糖が流入し始めてはいるが、未だ上級貴族止まりである) 他に甘味料としては、『麦から作った水飴』『蜂蜜』『甘葛』等があるが、皆高価な上、甘葛以外は白砂糖同様、ほとんど薬扱い――タブリンでは薬は恐ろしく高価――だ。 (ちなみに、良く甘味料と対比される『塩』の場合は、人間には絶対必要なものであり、また平民にとっては唯一と言っても良い調味料でもあるため、農村では小麦、ライ麦と並ぶ主要交換物――町では布あたりか――だ。まあ小麦などとは異なり、『地域による価値の変動が大きい』という欠点があるが……) さて、話を家に戻そう。 タブリンでは、人件費が極度に安い。 何せ、日雇い人即の報酬が、『一日に麦粥二食支給』というの世界である。 ……『報酬プラス食事付』ではない。『報酬が食事』なのだ。 (報酬が『ライ麦幾ら』では無く食事なのは、足元を見て報酬をより安くするためである。仕事を終えて疲労しきった人足には、麦を交換したり食事を作る気力は無い) もっともこの報酬で集められるのは、何の技能も無い単純労働者だが、実は単純労働者とはいえ、家を建てた経験は結構ある。 村では定期的に各家を建て直すのだが、これは村の行事として、村人総出で手伝うことになっている。 だから大抵の人間は、何度か家を建てた経験がある。無論、同様の理由から井戸や道もだ。 要するに、ただ道路や井戸、家を作るだけならばそれほど金はかからないのである。 (まあ出来は日曜大工レベルではあるが) 故に、ただ家を建てるだけなら安い。非常に安い。 黒部中尉はそういう事情に疎く、竜借屋に『家と家までの道、後は井戸を頼む』と頼み、白砂糖一升を渡した――というのが、ことの真相だ。 竜借屋は上の様な説明をし、『過分過ぎます』と忠告したが、黒部中尉は、『じゃあこの値段の分だけ良く作ってくれ』と簡単に頼み、帰ってしまう。 白砂糖を抱えて困りはてた竜借屋は、取りあえず代に見合うだけの仕事をする必要があるため、寺社を建立するような専門職人まで多数投入する。 (何しろ専門職人の人数に余裕があるため、彼等は指揮監督を行うだけでなく、細かい作業まで担当した程である) 過分な支払いの帳尻を合わせるため、仕事に対してかなり過剰な人材と人数が投入された結果、依頼した以上の立派な家が、僅か三ヶ月足らずで完成した。 大きさこそやや広めの農家程度だが、その内部は簡素ながら丈夫かつ丁寧に造ってあり、『小地主の屋敷』といっても通りそうだ。 が、それはあくまで規模とその造りだけで見た話であり、使用している素材は全く違う。 この家に使われている素材は、小地主程度が気安く使えるような素材では無いのである。 それに、この工事の肝は家では無い。 丘の上まで道――以前は獣道だった――を通し、専用の井戸まで掘らせているのだ。 『私道』に『私井戸』である!  しかも道は国道並、井戸も専門の者が掘った立派なものだ。 (もっとも井戸に関しては、深くて女子供には水を引き上げるのが大変だったため、後で鉱山技師の力を借りて手押しポンプ式に改良したが……) 家そのものは一月程で出来たが、丘の周りを囲む柵と道、そして井戸――水源まで掘るのはさぞ手間だったろう――に時間がかかり、三ヶ月近くかかったのである。 簡易ながらも丘全体を柵で囲み、丘の上にその存在を誇示する『御屋敷』は、その麓の掘っ立て小屋の群れによりその存在を一層引き立てられ、まるで御城の様だ。 事実、この家は『城』だった。 この地方の最有力者である黒部中尉の『居城』、として現地人から見られていたのだ。 故に、人々はこの家を『黒部御殿』『黒部城』と呼んでいた。 ……黒部中尉は、知る由も無かったが。 【6-3】 サーナの家では、シロの他に十数羽の鶏と二頭の山羊を飼っている。かなりの余裕がありそうだ。 「……しかし、こう本格的に住むとなると、現地の役人が何か言ってきませんかねえ?」 これでは当初の目的――弱者救済――を、完全に逸脱している。 (それ以前に、本格的な家を建てたり、ましてや道とか井戸等を勝手に造るのは違法である。 あくまで許可されているのは『仮設住宅の設置』のみであり、いつでも原状回復出来る様にしなければならないのだ) 「ああ、この丘は俺が買ったから大丈夫だ」 「買ったあ!?」 「……何の為に、レムリア金貨を手に入れたと思ってるんだ?」 黒部中尉は溜息を吐き、大変だったんだぞ? とぼやいた。 【6-4】 帝國人でも土地を買い取ることは出来る。 ……ただし、金銀貨が必要ではあるが。 加えて、乱用を歯止めする為に種々の制限がある。 ・買い取る際には、現地総督府の許可を必要とする。 ・買い取る土地、その土地評価額から算出した土地収得税――買取額より遥かに高い――を、金銀貨で現地総督府に納めなければならない。 ・買取後は、一定年数以上は他者に転売出来ない。(但し無償譲渡なら可) ――等々。 様々な規制があるが、ある程度の手間と金をかければ、大陸で土地を買うことはそう難しいことではないのだ。 将校には、の話ではあるが。 ……実はこれ、軍が強引に作らせた法である。 軍は、この大陸における帝國の活動、その殆ど全てを取り仕切っている。 帝國―大陸間の航海は、海軍の支援を受け、 大陸の港湾施設とその支援船舶、その全ては陸軍と海軍によって握られて、 現地の行政機関(総督府)は、武官総督制により陸軍によって押さえられている。 流石に大陸内部の鉄道、鉱山については政府直轄機関が支配しているが、これにすら軍(陸軍)が深く噛んでおり、その影響は無視できない。 このため、大陸における軍――特に陸軍――の力は相当な物であった。 『方面軍司令官(陸軍大将)は大王、現地司令官(陸軍少〜中将)は王、現地部隊長(少〜大佐)は諸侯』 『方面軍司令官はスペインの副王の様なもの』 ――これでは『いつか来た道』ではないか! いや、前よりも酷い! 心ある者達の危惧をよそに、大陸における軍の力は益々肥大化しつつあったのだ。 【6-5】 「この丘は、農地には不適だから安かったんだ」 だから安く買えたんだよ、と笑う。 「はあ……」 曖昧に頷いていると、家から老夫婦が出てきた。 彼等は一行に丁重に挨拶――子供達にも!――し、家に招き入れる。 老夫婦は、一行が昼食の席に着くと食事の支度を始め、終えると辞を低くして部屋から出て行った。 昼食は『黒パン』に『ライ麦を山羊の乳で煮込んだ粥、野菜入り』である。この辺りでは、十分に上等な部類に入るだろう。 四人は、早速食事を始める。 (黒部中尉も高木軍曹も、始めの頃は麦粥の乳の匂いに閉口したものだが、今では慣れたもの、獣乳だって飲める様になっていた) ――あの老夫婦、サーラさんの遠い親戚って話だけれど、怪しいな。 高木軍曹は、パンを麦粥に浸しながら考える。 態度と物腰から考えて、どうも昔からの使用人っぽい。 (黒部中尉も同感で、おそらくサーラの乳母夫婦あたりだろう、と言っていた) ……サーラさんの乳母、ねえ? まあ不思議じゃあないよなあ。あの人、品も学もあるし。 実際、サーラは学が有り過ぎた。 識字率一桁のこの国で読み書き計算が出来るだけでも、もう只の平民では無いだろう。 それに子供達もそうだが、この辺りの他の者達と比べて明らかに体格が違う。これなどは、今までの栄養状態の差としか考えられない。 只、自らの手仕事を厭わず、炊事洗濯の心得があるということから『高貴な出』とは言えないだろう。 恐らくそれなりの地主か都の中堅役人、或いは下級貴族辺りの家の出――そう黒部中尉はあたりをつけていた。 ……しかし、中尉どのもいい加減決断した方が良いんじゃあないのか? 本当にそう思う。 本来これだけの生活をする者が、酒場の女給などする筈が無いのである。はっきり言っておかしい。 世間の目もあることだし、いい加減はっきりした方が良いだろう。 【6-6】 食事を終えて二人で寛いでいる時、高木軍曹はサーラのことについて、前々から考えていたことを忠告した。 要は、『完全に囲ってしまえ』ということだ。 「うん、軍曹の言う通りだな」 意外にあっさりと黒部中尉は同意する。 「けど、俺も何時までここにいられるか分からん。その前に戦死すらしかねない。 ……要するに、俺は彼女と子供達の一生を保障してやれないのだ」 と、付け加えてだが。 話によると、黒部中尉はサーナに帝國文字と算盤を教えているらしい。 それが出来る様になれば、総督府の現地雇用の事務員に推薦出来る。 (既に数人の将校の協力を得ているので、連名で推薦すれば採用は間違いないだろう) 後は家とそれなりの金を残してやれば良い、そう考えていたらしい。 ……まあ、その金の一部を今回使っちゃったんだけどなあ と頭をかきながら説明する。 「じゃあ、そのためにここを?」 だが、この辺りには総督府の出張機関は無い筈だが。 「いや、ここはただ自分が暮らし易い様に工事している内に、取り返しがつかなくなっただけ」 だから買い取る羽目になったのだ。 「……中尉どの」 「ま、まあ、ここも売れば幾ばくかの銭にはなるだろう?」 都でも家捜しを頼んでるんだよ、と慌てて言い訳する。 「でもそうですか、中尉どのは先のことをちゃんと考えていたんですねえ」 考えてみれば十年や二十年もここにいる筈が無い。せいぜい三〜五年程度だろう。 ……ならば長くても後三年足らず、下手をすれば一年半も無いのだ。 そして、勿論それは自分にも当てはまる。 「……そう考えると、寂しいですよねえ」 こんな辺境の地とはいえ、一抹の寂しさを感じる。 が、中尉はその比ではないだろうとも考える。 中尉はあれだけ子供達を可愛がっているし、子供達も良く懐いている。 事実、食事の後も子供達は遠慮してはいたが、中尉と遊びたさそうだった。 (時々シロの情けない鳴き声が聞こえてくる。多分、今はシロと遊んで、いやシロ『で』遊んでいるのだろう) 「まあ、この話はとりあえずこれまでだ。俺には子供達と遊ぶという重要な仕事がある。 ……シロが、助けを求めている様だしな」 黒部中尉はそう話を切り上げ、思い出した様に尋ねる。 「……そういえば、夜はどうする? すき焼き食ってくか?」 そろそろ解体した肉を届けに来る頃だ。 「いえ、自分は娼館で喰いますんで」 すき焼きは大変魅力的だが、これ以上団欒を邪魔をするのは流石に野暮――夕食にはサーナもいる――というものだ。まだ馬に蹴られて死にたくは無い。 「そうか? じゃあまた明日、な」 「はい、中尉どのも」 そういい、高木軍曹はサーナの家を後にした。 ……やっぱり女は囲うもんじゃあ無いよなあ、ましてや子供がいる女は。 高木軍曹は改めてそう思う。 後のことを考えると、いろいろ面倒臭いしやり切れないだろうに、と。 必ず別れなければいけないのならば、初めから割り切ってしまえば良い。 だから自分はそうしている。 馴染みの女は作らないし、抱く女の事情も極力聞かない。そうしている。 ……それでも偶に、やはり無性に寂しくなることはある。 そんな時は、『後のことを考えればそれに耐えた方がマシ』と自分に言い聞かせるのだ。 【6-7】 ……サーナが働き続けるのは、やはり俺が中途半端なため、だろうなあ。 黒部中尉は、子供達と遊びながら考える。 考えてみれば、自分はサーナに指一本振れていない。 考えてみれば、自分はサーナに何一つ言っていない。 ――そんな中途半端な状態で、彼女が仕事を辞める筈が無いではないか! 大した稼ぎでは無いものの、自分と出会う前からやっていた仕事だ。それを幾ら生活が楽になったとはいえ、こんな状態では辞める訳にいかないのだろう。 (あれで結構、彼女は頑固なのだ) 先程の言葉、『俺は彼女と子供達の一生を保障してやれないのだ』という言い訳、高木軍曹は納得したようだが、所詮は言い訳に過ぎない。 ……要は怖いのだ。これ以上深入りするのが。 何を馬鹿なことをと我ながら思うが、このまま囲ってしまえば自分は彼女達から離れられなくなってしまう。それを恐れたのである。 が、もう遅いのかもしれない。 近い将来、必ず来る別れ。 ……自分に耐えられるだろうか? その時、自分は一体どうすれば良い? それを考えると、堪らなく恐ろしくなる。 かといって今すぐ別れることも出来ず、進むことも退くことも恐れ、結局自分は何の選択も出来無いまま今までずるずると深みに嵌ってきた。 彼女達の今後のことも何もかも、全てが言い訳。 何と情けないことだ、と自嘲する。 しかし仮に囲ったとしても、彼女達を一緒に連れて行くことは出来ない。 帝國は帝國領民――帝國臣民にあらず――に対して、帝國本国はおろか、商売目的以外の他直轄領への入国すら禁止しているのだから。 つまるところ、どう足掻いても別れを避けることは出来なかったのだった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 外伝「辺境警備隊隊長よもやま物語」07 【7−1-1】 黒部中尉とサーナとの出会いは、よくある話から始まった。 今から一年と少し前、黒部中尉が釣り――別に好きではないが、当時はあらゆる娯楽を試していた――に出かけようと歩いていた所を、突然女に縋られたのだ。 話を聞くと、どうやら子供が病気らしい。 彼女は、『何でもするから子供を助けて欲しい』と懇願した。 ……その女がサーナだった、という訳だ。 黒部中尉に縋ったのは、帝國が進んだ國であり、かつ彼が帝國軍の隊長であるということを知っていたからだろう。 が、それにしても大した度胸である。 この種の行動は、タブリンの常識からすれば、無礼討ちにされてもおかしくない行為だ。 只でさえ、帝國の容赦無い匪賊狩りの様相が、人の噂に上り始めていた時期でもある。 (実際、この辺りでも百人近くの『匪賊』が、村ごと狩られている) そのあまりの強さと容赦の無さで国中を震え上がらせ、後に病魔退散の札にすらなる帝國軍。 その隊長に縋るとは、大した度胸である! ――女だてらに、良い度胸だ。 黒部中尉は感心した。 何より目が良い、と思う。 決意と覚悟に満ちた目で、卑屈さを全く感じないのだ。 (黒部中尉は、その手の卑屈さにはうんざりしていたので、直ぐ分かる) ……加えて、見ると目鼻立ちが整っていて、なかなか美人だ。 この辺りの『ひねた薩摩芋』の様な女共に辟易していた黒部中尉には、恐ろしく美しく見えた。 ……多少薄汚れてはいたが。 結局、黒部中尉は二つ返事で了承――まあ『とりあえず同行し様子を見るだけなら』という類の返事ではあったが――した。 同行の途中色々話を聞くと、どうやらつい最近この町に来たらしい。今は町の酒場で女給をしているそうだ。 町の酒場といえば一軒しかないので、直ぐに店の見当がついた。 (ちなみに兵から聞く噂は最悪で、『酒もつまみも最悪。飯など食えたものではない』だそうだ) ……まあ、彼女が酌をしてくれるならば行く価値があるかもしれないな。 そんなことを考えながら、彼女について行く。 彼女の家は、丘の上にあった。 【7−1-2】 家というのもおこがましい、道中見かけた小屋の中でも、一際みすぼらしい住処。 その中に、二人の幼い少女が顔を真っ青にして寝込んでいた。 伝染病ではなさそうだが、少女達は衰弱しており、このままでは危険だろう。 食べても吐いてしまい、弱る一方です――とサーナが告げる。 ……如何しよう? 黒部中尉は考え込んでしまった。 何となく付いてきてしまったが、自分は如何すれば良いのだろうか? こっちの世界に来てからこの方、悲惨な光景など何度も見てきた。見捨ててきた。 これもその一場面に過ぎない、と何かが耳元で囁く。 仮に今回この子を助けたとしても、今後同じ様な場面に何度でも出くわすだろう。その時もいちいち助けるのか? ……そんなことは不可能だし、する気も無い。 ならば、それは自己満足に過ぎないのではないだろうか? またこの子を助ければ、それを知ったほかの者達が押しかけてくるかも知れない。それを拒絶すれば不満が出るだろう。 あいつは助けたのに、何故?――と。 その不満が自分だけに向かうのならばまだ良いが、その不満は確実に部下、ひいては帝國に向かうことは間違いあるまい。 隊長として、帝國臣民として、そのような事態は看過出来ないのだ。 ……見捨ててしまえ。 また何かが囁く。 自分にはどうしようもないと告げ、この場を去ってしまえと囁く。 ――そうだな、そうしよう。 そう考え、正に実行しようとしたその瞬間、不意にある光景が頭に浮かんだ。 妹。その死の直前の顔。 黒部中尉は一人息子である。が、元から一人息子という訳では無い。 本来ならば四人兄弟の筈だった。が…… 兄は、自分が生まれる前に事故死した。 弟は、死産した。 妹は、病死した。 故に黒部中尉は、妹の顔しか知らない。 事実上たった二人の兄妹であり、年も離れていたことから、大いに可愛がったものだ。 ……原因不明の病で死んでしまったが。 何人もの医者に見せたが文字通り『お手上げ』状態であり、彼に出来ることは、日に日に衰弱していく妹を、その最期の瞬間まで見舞うこと位だった。 ――不意に、妹の最期の顔と少女達の顔が重なった。 後で考えると、不思議でならない。 少女と妹は似ても似つかないのに、何故? (あれから同じ様な場面にも出くわしたが、この様なことは二度と起こらなかった) が、当時の黒部中尉に、そのような疑問は無い。 彼は迷わず、タブリン旧王都に駐在していた知り合いの軍医大尉――郷里の先輩だ――を呼んだ。 【7−1-3】 呼びつけられた先輩は怒り心頭――それでもワイバーンを乗り継いで来てくれた――だったが、サーナを見ると途端にニヤニヤと笑い出した。 ――そうかそうか、お前にも春が来たか。いや、何も言うな! 言わなくても分かっている。 正直、お前のことを心配していたんだぞ? 何せお前は、初恋すら碌にしたことが無さそうだったのだからな。 だがまあ安心した。わざわざ俺を呼び出す位だ、覚悟の上だったのだろう?  その覚悟とようやく訪れた春に免じて、今回は協力してやろうじゃないか!―― そう言って笑うと、貴重な休暇を惜しみなく潰して少女達の治療してくれた上、帰り際に貴重な医薬品を大量に渡してくれた。 (先輩が何も言わなかったので黒部中尉は知らなかったが、投与された薬の中には、希少なペニシリンすらあったらしい。ばれたら処罰ものであろう) ……持つべきは良き先輩である。 黒部中尉は最敬礼で先輩の帰りを見送った。 おそらく先輩には一生頭が上がらないだろう。 (まあ元から上がりはしなかったが) ――さてこれが彼女との出会いであるが、実の所彼女との『約束』は、未だ実行されていない。 黒部中尉は常識人である。 だから、泣く泣く身を任す女を抱く趣味も無ければ、子の近くでその母を抱く趣味も無かった。 特に今回は、彼女の子供達と仲良くなってしまったせいもあり、余計にそんな気分にはなれなかったのだ。 それに彼女は結構品があり、落ち着いた雰囲気の女だ。 話しているだけで十分だし、傍に子供がいれば言うこと無し、である。 ……まあこういうのもあり、かな? そんなことを考えながらも、暇をを見つけては彼女と子供達の所に通うようになる。 無論、周囲の者はそう見てはいなかったが、そんなことは彼の知ったことではなかったし、ある意味好都合でもあったので放っておいた。 そんな不思議な関係が、もう1年以上も続いていたのだ。 【7-2】 サーナは、日暮れ前には帰ってきた。 ケネットの夜は早い。 酒場と始めとするケネットの数少ない店、その多くは日が暮れる前には店を閉める。 夏なら午後五時前、冬ならば午後四時前という、少し日が陰ってきた頃には、もう閉めてしまうのだ。 (ちなみに閉店時間は一定ではなく、その日その日の太陽と天気、或いは気分と相談して決める) 帝國人の感覚ならば、酒場などは『これからが稼ぎ時』とも思うかも知れない。 だが酒場に来る客は、仕事の合間の『気付け』か、やはり仕事の合間に昼飯をとりに来る者が殆どである。 故に、長居の者はまずいない。 この酒場でダラダラしている者など、休暇中の帝國軍将兵位のものだ。 酒場というよりも、『一時休憩処』と呼んだ方がその実態を表しているだろう。 (仕事の後の食事や一杯など、帰り――そんなことをしていたら真っ暗闇になってしまう――を考えれば、自宅でやるべきものなのだ) あの竜借屋も、内で仕事をしているとはいえ、店そのものは閉めてしまう。やってる店は、宿泊前提の娼館位であろうか。 要は、『買い物は午前中、遅くとも昼過ぎには済ませろ』ということである。 時計も満足な明かりも無い以上、太陽と天気が全てを決めるのは仕方が無い。 暗くなったら家にいるのが当たり前、そんな世界なのだ。 (何しろ日が暮れると真っ暗、百鬼夜行の世界である) ……まあ本日は飲めや喰えやのドンちゃん騒ぎ、篝火を多数浮かべているので、夜も明るかったが。 シロに先導――丘の入り口辺りで出迎えられた――されて帰ってきたサーナは、少々機嫌が悪そうだ。 「あのようなこと、困ります」 と、開口一番に出迎えた黒部中尉に訴える。 「……成り行きだ。気にするな」 「どのような成り行きですか…… 大方、竜借屋さんが絡んでらっしゃるのでしょう?」 あの方が絡むと、どうしても話が大きくなってしまって困ります、と嘆く。 「まあそう言うな。竜借屋も悪気は無いのだ」 と、黒部中尉。そこには反省の欠片も無い。 それを察して、サーナは溜息一つ。 「でも、とても恥ずかしかったのですよ? ……それなのに、肝心の御本人の姿は、影も形も見えないし」 あの中、取り残された自分の身にもなって欲しいものだ。 「む…… 悪かった。次からは慎む様にしよう」 流石にその点に関しては悪いと思っている様で、謝罪と反省の言葉を口にする。が…… ……そういう訳にも参らぬでしょうに。 サーナは心中で嘆息した。 【7-3】 一体、如何なさる御積りだろう? と、サーナなどは考えてしまう。 恥ずかしいことは良い――いや良くは無いが――としても、これだけの祭りを催したのである。 次回も同様、或いはそれ以上の祭りを開かねばならないだろう。 ……それこそ毎年。 いやそれどころか、サーナとの間に今回以上に目出度いことがある度に、皆に酒食を振舞わねばならない。 さもなければ、黒部中尉の沽券に関わるのだ。 ……皆に祝えと命じて一度酒食を振舞い、そういう『風』を作ってしまった以上は。 それが嫌ならば、最初からやらねば良いのである。どっちつかずが一番良くない。 ――本当に、この御方は分かっていらっしゃるのかしら? 多分お分かりでは無いのだろうなあ、と思いつつも心配になってしまう。 が、彼女の心配はもう手遅れというものだろう。 ちょっと意外ではあるが、黒部中尉は『気前の良い御大尽(或いは御代官)』と、この辺りでは見られている。 この辺りの匪賊、百人以上をその村ごと滅ぼした強くて怖い武将ではあるが、その際保護した浮浪児達に職を世話してやったり、自分の女――サーナのこと――の為にわざわざ都から医師を呼び寄せてやったりと、なかなか情の深い所を見せている。 女に家を建ててやる時も、代を過分に支払うことにより、人足達に御祝儀を弾む。 (これについては、竜借屋が気を利かせて、人足の日当を大目に支払ったのが真相) 女の我儘を許して、働くのを許してもやっている。 (これについても完全な誤解。前回で述べたように、真相はもっと情けない理由だ) ――等々、まあ『懐の深い御方』とされているのだ。 (やはり最初に匪賊を村ごと討ち滅ぼし、『強くて怖い武将』と認識――帝國軍そのもののイメージもこれを補強している――されたのが良かったのだろう。これが無ければ、只の『甘い御方』だ) 今回の一件は、その認識を改めて補強したに過ぎない。 が、流石にサーナもそこまでは気付いていない。 彼女とて、半ば以上外界から切り離されている様なものであり、そこまで世間の噂や事情に詳しい訳では無いのだ。 ただ大まかな事情については薄々気付いているし、その程度の『上の者の在り方』位は心得ている。 ……肝心の黒部中尉は、気付いていなかったが。 ――それにあまり施しが過ぎると、かえって下の者から軽く見られてしまいます。 その心配もある。 祝い事で大盤振る舞いしたり、苦労をかけた時に何かを振舞うるのは良いが、無分別に施すのは大変良くない。 その辺りのけじめだけはしっかりとつけないと、目下の者に侮られてしまうのだ。 これは黒部中尉本人にとって良くないことだし、警備隊隊長としての任務にも支障が出かねない大問題だろう、と思う。 施しをただ与えるだけで無く、何かあれば叱って罰し、苦労をかければ労う。寛厳自在、そうでなければ長は務まらないのだ。 ――今の所は、以前の匪賊討伐が利いている様だけれど、何時までもその効果が続く筈も無し。今の内に、その辺りの機微を何とか御理解頂かないと…… とはいえ、殿方の矜持を傷付けずに、その事実を指摘するのは中々難しい。 (彼女の中にある『常識』が、それを阻んでいる) どうそれとなく指摘するか、彼女にとっては実に難しい問題だった。 【7-4】 ……ちなみに、夕食はすき焼きではなく、焼肉だった。 理由は簡単。材料が揃えられない上、味を再現できなかったからである。 材料については、当たり前のことではあるが、豆腐、白滝、長葱、春菊、白菜、しいたけ――要するに、牛肉以外何も無かったのだ。 (何とか揃えられたのは、各種茸に豆、玉葱、その他名称不明の野菜が幾つかに過ぎない) そして味、つまり肝心の割下を作れなかった。 黒部中尉の貧弱な知識では、醤油にみりん、後は日本酒位しか思いつかない。 それに調味料についても、やはり彼が置いておいた醤油と日本酒の他は塩と香草しかないのだ。 ……これではとても、すき焼きは出来ぬであろう。 この為、やむをえずすき焼きは断念し、焼肉に変更する羽目になった。 鉄鍋の底を牛脂で濡らし、厚く切った牛肉を焼く。味付けは醤油と香草だけだ。 これに残った肉汁と一緒に焼いた茸と豆、玉葱を添えて副食とする。 焼肉の完成だ。 まあ仔牛の良い部分を使っているだけあり、肉は大変柔らかく美味だった、とだけ言っておこう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【08】  ――とーぞくのかくれがをみつけたの!  リータの突然の言葉に、黒部中尉は呆気にとられた。  故に、シロを洗うその手も止まる。  シロの不満そうな鳴き声に気付き、こりゃあすまんと謝って慌てて洗いを再開する。  お湯で満たされた巨大な桶に浸かり、石鹸と亀の子たわしで洗われるシロは、実に気持ちが良さそうだ。 「……そりゃあ凄い。で、戦果はどうだった?」  まさか、烏の死骸とかじゃあないよな?  と不安に思いつつも、シロを洗いながら尋ねる。  (リータは、かなりの『お転婆』なのだ) 「……ほんとうなの」  先程から黒部中尉を手伝っていたリーナ――リータの双子の妹――が、リータの言葉を肯定した。  リーナの話によると、シロに乗って遠出した際に見つけたそうだ。  とある山中の洞窟だが、中には大きな箱――こーんなとリーナは両手いっぱいに広げてみせた――が幾つも置いてあったらしい。 「中は見たか?」 「ううん。ふたがしてあったし、かってにひとのものをみちゃいけないから」 「……そりゃあ何より」  万が一のこともある。危険な真似はして欲しくない。 「それにしても駄目じゃあないか、勝手にそんな遠くへ行っては!  家の周りか町で遊びなさいと、いつも言っているだろう?」 「しろもいっしょだったもん!」  と、リータ。  リーナのいうことばっかりしんじてずるい、とふくれている。 「シロが一緒でも、駄目なものは駄目。  ……シロも悪いぞ。あれ程、町の外へ出たら駄目だと言ったろう!」  項垂れるシロを叱り付ける。 「ぼーけんしただけだもん!」 「『ぼーけん』じゃなくて『探検』をやりなさい。町の中で」 「まちはつまんないもん! あきたよ!」 「……我儘言う子は嫌いだな」  そう言いつつも、ついリータとリーナに同情してしまう。  彼女達には、遊び相手がいないのだ。  同じ年頃の子供達がいない……訳では無い。  子供とはいえ、タブリンでは貴重な労働力である。  年上の子供達は、男の子は農作業や家畜の世話、女の子は針子仕事等の家内職で忙しい。  年下の子供達も、それぞれ掃除や炊事洗濯、子守等の家の手伝いがある。  皆、そうそう遊んでばかりはいられない。  基本的に家事のみ、それも老夫婦の手伝い程度のリータやリーナとは、根本的に置かれた状況が違うのだ。  (ちなみに裕福な家では、遊び相手として、小作人や使用人の子を雇ったり、或いは買ったりしている)  ……とはいえ、危険なことには変わりが無い。  大分安定してきたとはいえ、タブリンの治安は決して『良好』とは言えないのだから。 「大人しく家の中で遊びなさい。それが嫌ならせめて家の周囲か町の中、これは約束の筈だぞ?」 「もうおこられたもん! おわりだもん!」  要するに、もう叱られたから終わったこと、と言いたいのだろう。 「……全然反省してないなあ、悪い子だ」  そんな悪い子はモモンガに食べられちゃうぞ、と脅す。 「! ももんが!」  モモンガと聞いた途端、リータは怯え始めた。 「そうだ。夜な夜な何処からともなく現れて、悪い子を食べて飛び去っていく怖い魔獣だ。リータも食べられちゃうぞ」  言う事を聞かない悪い子は、みんなモモンガに食べられてしまうんだ、と黒部中尉はモモンガの恐ろしさを強調する。 「……しろがいるもん」 「シロは飛べないから駄目だな。ヤツは自由自在に飛び回るんだ」  ク、ク、ク、と薄ら笑いを浮かべながら黒部中尉は脅し続ける。  ……結構楽しそうだ。 「モモンガはなあ、牛を丸齧りにしてしまう程大きいんだぞ〜? それに……ん、なんだシロ?」  先程から、シロが前脚で黒部中尉の肩を叩いて必死に何か知らせようとしている。  ……シロの視線の先には、涙が決壊寸前のリータ。  ――拙い! 脅し過ぎたか!?  見るとリーナも泣きそうだ。 (今まで一年以上に渡って脅し続けてきたせいで、二人のモモンガに対する恐怖は相当なものなのだ) 「シロ! 協力し……」  慌ててシロの方を向く。  が、そこには既にシロはいなかった。  ……逃げたのだ。 「くっ! 裏切り者め!」  思わずシロを罵る。  が、シロは何回も警告したのだ。  黒部中尉がそれに気付かなかっただけの話であろう。  とはいえ、全ては後の祭りである。  独力で、なんとか二人を宥めるしかない。 「大丈夫、モモンガは怖くないぞ? あれでなかなかいいところもあるんだ」  ……今更である。 「そうだ! 蜂蜜を買ってあげよう。  焼いた白パンに、蜂蜜をたっぷり塗って食べるんだ。美味いぞお?」  他にも、お菓子でも何でも好きな物を買ってあげるから。  ……後でサーナに怒られるだろうなあと思いつつも、とりあえず何とかこの場を収めようと、そりゃあもう必死だ。 「今度休暇をとって湯治にでも行こう? きっと楽しいぞ?  色々な動物もいるだろうなあ、この辺りにはいない様な動物もいるかもしれない」  『珍しい動物』の名を上げていく黒部中尉。  二人の泣き顔が徐々に薄れて来た。  効果有り、である。  ……とはいえ、それ程こっちの世界の動物に詳しい訳ではない。  仕方が無しに、帝國の動物も加えて挙げていく。 「……シマウマ、ゾウ……あとは……モモンガ? ……!!」  しまった、と気付いても最早後の祭りである。  今までの努力も空しく、その一言で遂に決壊してしまう。  ……その後のことはあまり思い出したくない。  ただ、二人を宥めるには相当の時間を要した、とだけ言っておこう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【09】  シロの先導の下、2台の竜車が疾走する。  黒部中尉率いる臨時捜索隊の面々だ。  その編成は、黒部中尉以下小銃分隊(10名)に擲弾筒班(3名)を加えた14名。  警備隊が捻出出切る兵力、殆ど全てである。  あの後、なんとか騒ぎは収まったものの、黒部中尉は『とーぞくのかくれが』のことが気になって仕方が無い。  まあ幼子の言うことではあるが、だからこそ余計に気になるのだ。  (何のことは無い、『お父さんは心配性』という奴だ)  ……子供達の行動範囲内の危険物は、全て排除せねばならんからな。  という、凄く個人的な理由により、黒部中尉は捜索隊を編成して現場に向かっていた。  (ちなみに2台の竜車は、『公儀の御用』として竜借屋より一時拝借したものだ) 「ええいっ! 子供達をこんなに遠くまで連れて行ったのか、この馬鹿犬!」  キャン!  怒鳴りながらシロに小石をぶつける黒部中尉を、第二小銃分隊長である高木軍曹は、呆れた様に見ていた。  ……中尉殿、やっぱりそういうことだったのですね。  黒部中尉は、警備隊に帰還するなり分隊長達を集め、『住民より不審な場所があるとの通報があった』と述べ、至急捜索隊を組織することを命じた。   捜索隊指揮官は、勿論自分だ。  ……怪しい。  突然の言に、普段から黒部中尉との付き合いが深い高木軍曹は、中尉の真意を訝った。  が、黒部中尉はこの警備隊の隊長であり、警備隊唯一の将校でもある。その命令は絶対だ。  加えて、警備隊の主任務は鉱山防衛・管理であるが、鉱山周辺地域の安定を保つことも任務の一つである。黒部中尉の命令に、何ら不審な点は無い。  故に、鉱山警備上の問題――鉱山警備隊は僅か50名程度――はあったが、訓練も兼ねて偶には外部に派遣するのも良かろう、と警備隊幹部である下士官達も積極的に賛成。  計画はとんとん拍子で進んでいく。  ――ま、いいか。  勿論、高木軍曹も賛成した。  多少不審な点はあったが、気分転換の意味でも丁度良いと判断したのだ。  (それに反対した所でどうにもならない)  派遣組にも居残り組にも、適度な緊張と訓練経験が得られる貴重な機会だ。士気の向上にも役立つだろう。  まあ黒部中尉の真意は、どうやら別の所にありそうだったが。  街道近くにある小山、その手前でシロは歩みを止めた。 「この山……ですか?」 「その様だな」 「しかし、この周辺での被害報告はありませんが」  『地図』を見ながら、高木軍曹は首を捻る。  この山を含めた周辺地域は官地(国有地)であるが、とくに何か特徴がある訳でも無い、極普通の土地だ。 「念には念を、さ。盗賊も、自分の居場所を触れ回るようなことはしないだろう」 「そりゃあまあ、そうかもしれませんがねえ」 「ま、本当に盗賊の隠れ家かどうかは不明だし、その可能性も低いだろう。訓練と思って気楽にやれ」  黒部中尉はそう言うと、竜車を街道から離れた山林に伏せ――待機――させ、留守と周辺監視も兼ねた小銃班(3名)1個を置き、残りを引き連れて山へと向かった。  山を登るのは、黒部中尉以下11名。  武装は、黒部中尉が軍刀に拳銃、10名の兵が九六式軽機関銃1挺に三八式歩兵銃9挺。他に擲弾筒1門。  短時間の行軍なので、武装以外の装備は、皆軽装だ。  これだけの装備ならば、例え盗賊が100人いようが、問題無いだろう。   ……あくまで、『いれば』の話だが。  暫く獣道を進むと、急に開けた場所に出る。  そして山腹には、ぽっかりと開いた穴。 「ここか」 「ここに誰かがよく来ることは間違いなさそうですね。 ……それも集団で」  高木軍曹が指差す場所には、自分達が通ったよりも、遥かに大きな『道』が広がっていた。 「この広さだと、竜も使っているようだな」 「ですね。もしかして、『大当たり』でしょうか?」 「さて、な」  と言いつつも、黒部中尉は油断無く辺りに気を配る。部下の兵も同様だ。  そこからは、先程までの気楽な雰囲気など微塵も感じられない。  (この様な場所に、『竜で来る』ということ自体が怪しいのだ)  そして、拳銃片手に洞窟の中へと入る。  が、中は10mも進むと行き止まりだった。  幾つかの箱が置いてあるが、蓋などしておらず中も空っぽである。 「……子供達の言葉では、蓋がしてあった筈だが」 「底には小石や砂が沢山落ちてますね?  一体何を入れていたのでしょうか?」 「さて…… が、どうでもよい物をわざわざ入れるとも思えん。臭うな」 「同感です」  黒部中尉の意見に、高木軍曹も同意する。 「どうやら本格的に調べる必要がありそうだ。地区司令部に応援を……」  そこへ部下の一人が駆け込んできた。 ……誰かがここに向かって来るらしい。 「……手間が省けたかな?」 「ですね」  高木軍曹は頷くと、手早く分隊を周囲に伏せさせた。 「まったく! 急に『移動しろ』って言われてもなあ?」 「……仕方が無いだろ? 万が一のこともある」 二人組の男がこっちに向かってくる。 一目で『まともな連中』では無いことが分かる……という訳では無い。 一見、極普通――その会話は怪し過ぎるが――の平民達だ。 『……玄人、だな』  黒部中尉が呟く。  粗暴な犯罪集団では無く、知能犯の類の様である。 『ええ、裏には大物がいる可能性が高いですね』  高木軍曹も同感だ。  こういう手合いは、その犯罪規模も大きく、裏で大物と繋がっていることが多いということを、二人は経験から知っていたのだ。 「でっかい白犬に乗った餓鬼二人が、山から降りて来る所を見ただけだろ? 用心のし過ぎじゃあないのか?」 「……御頭の判断だぞ? 逆らう気か?」  片方の男が鋭い目付きで睨みつける。 「まっまさか! ……ただ、餓鬼の言うことなんか誰も本気にしないだろ、ってことさ!」 「後ろ姿を見ただけだが、あの二人はなかなか良い身なりだった。  もしかしたら、この辺りの有力者の子供かもしれない」  話を聞いた親が、心配して役人に働きかけたら面倒だからな、と続ける。 「面倒臭いなあ。あの餓鬼共、犬と一緒に殺しちまえば良かったんじゃあないのか?」 「……それこそ愚問だな。本当に有力者の子供だとしたら、大規模な捜索隊が組織されるぞ?  昔とは違うのだから、ことを大きく……」  ダンッ! ダンッ!  黙って二人の話を聞いていた黒部中尉は、いきなり何を思ったか、二人組めがけて拳銃を発射する。 「中尉殿!」  高木軍曹が慌てて止めようとする。  が、二発の銃弾は見事命中。  黒部中尉は無言のまま、二人が倒れている場所へと向かう。 「……貴様等、いい度胸だな?」  そして二人を見下ろし、黒部中尉は怒りを込めて言い放った。 「てっ帝國軍!?」 「馬鹿な! 動くのが早すぎる!?」  痛みに呻きながらも、驚愕の表情の二人。  ……まあ当然であろう。こんな短時間で役人――それも帝國軍――が動くなど、常識では考えられない。 「高木軍曹!」 「ハッ!」 「こいつらの尋問は俺がする! 貴様は引き続き警戒に当たれ!」 「ハッ!」  そう言い捨てると、黒部中尉は洞窟の中に消えた。 ……その後を、兵共が男達を引き摺りながら追いかける。 「……やれやれ」  ああなると止まらないんだよなあ、中尉殿。  高木軍曹は溜息を一つ吐くと、血で汚れた地面を偽装するよう数人の兵に指示。  残りの兵を引き続き警戒に当たらせた。  余程急いでいるのだろうか? 日没も近いというのに、隊商の一団が街道を進んでいく。  が、やはり諦めたのか、隊商は街道脇に竜を寄せて野宿の準備を始めた。  (普通は日が暮れる前に町に入り、町で泊まるか野宿する。  最近では治安も大分向上したため、街道脇で野宿する隊商も出始めてきたが、これはあくまで『隊商』という多人数だからこそ出来る行為だろう)  ……?  一体どうする積もりか、彼等は竜を荷車から開放すると、今度は竜の背に荷を括り始める。  そして数人の男達を留守に残すと、竜共を連れて山の中へと入っていった。  彼等は、まるで慣れた道を進むかの様に山道を進み、洞窟の前までやって来る。  洞窟の前に向かって、男の一人が叫んだ。 「アルフ! ヴァロ! 寝てないで手伝え!」  が、返事は無い。  男は軽く舌打ちすると、洞窟に入ろうとする。  すると―― 「……二人共、ここにはいないぞ」 「!」  そう言って、一人の男が洞窟の中から出てきた。  タブリン人では有り得ない、黒い髪――大分短いが――と黒い目。 ……そして、茶色い服。 「……帝國軍!?」  誰かが、怯えた様に叫ぶ。 「帝國陸軍警備隊である! 神妙に致せ!」  その声を合図に、周囲から帝國兵達が銃を構えて出てくる。 「くっ! 何故帝國軍が!」  そう叫びながらも、内心は後悔で一杯だった。  ――やはり、あの後直ぐに立ち去るべきだった!  『御頭』は、自分の判断の甘さを呪う。  そう。不審な餓鬼共を見つけたその時点でここを放棄すれば、何の問題も無かったのだ。  (多少は面倒なことになったかもしれないが、捕まるよりは遥かにマシだろう)  ――手間を惜しんだばっかりに!  歯軋り。  昔ならことは簡単だった。殺すなり売り飛ばすなりすれば良かったのだから。  子供が消えることなどそれこそ『よくある話』だったし、自分達の後ろ盾を考えれば、多少の足が付いたところで如何にでもなったものだ。  が、帝國が新たな支配者となってから少し……いやかなり状況が変わった。  かつての土地の顔役をはじめ、名のある犯罪組織の幹部達は、現在では帝國のお墨付きの下、『日の当たる場所』に出て商売を始めている。  そして古着屋や斡旋屋等、儲かること確実な商売を独占的に認められた彼等は、すっかり帝國の犬に成り下がってしまっていたのだ。  表では、専売を許された大店として巨万の富を合法的に得、その裏では地元の悪党共を束ねて『やり過ぎない』様に管理する……  帝國の庇護の下、彼等は完全な合法集団と化していた。  ……そして、彼等は帝國の耳目であり、手足でもある。  多少の事ならば、袖の下を弾めば見逃してもくれるだろうが、『子売り』や『子殺し』ともなれば流石に見逃してはくれない。  何もかもが昔とは違うのだ。  そんな真似をすれば、彼等は自分達を見つけ出し、捕らえて帝國に引き渡すだろう。   後先のことを考えれば、とてもではないが下手な真似は出来なかった。  もっとも、『子供の言うことなど、誰も本気にはしないだろう。見逃したほうが利口だ』と考えたことも事実である。  故に、この場所を引き払おうとしたのもあくまで『念のため』であり、だからこそ数日後で構わないだろうと判断したのだ。  (仮に役人に届けたところで役人が動くとは限らないし、動いたとしても今日明日の話では無いという、ごく常識的な判断もあった)  ……この判断が甘かったとすれば、『今すぐ立ち去れば次の取引が大きく遅れ、信用に関わる』という損得計算が働いていたせいだろうか?  が、所詮は後知恵である。  当時の彼等の判断は、必ずしも間違っていたとは言い切れない。  (何度も言うようだが、彼等はごく常識的な判断を下しただけに過ぎないのだ)  ただ、何重もの不幸が続けて起こった。 ……それだけだ。  一つ目は、シロという化け物犬の存在。  (そもそもシロがいなければ、子供達は街から離れたこんな場所にまで来れないし、仮に行けたとしても、もう一度同じ場所に辿り着けるかは怪しいだろう)  二つ目は、子供達が黒部中尉という、この地方最有力者の『身内』だったということ。  三つ目は、黒部中尉が子供達の安全のために、話を聞いた次の日の朝には、わざわざ兵を割いて見回りに来る程の『親馬鹿』だったということ。  『運が無い』としか言いようが無かった。  この集団の正体、それは密輸組織であった。  各鉱山から運ばれる鉱石を間引きし、売り捌くのが彼等の仕事である。  ……一見しみったれた犯罪とも感じる。  だが、個人の小遣い稼ぎ以上のレベルでこれを行う為には、相当大規模な組織が必要な犯罪だ。  先ず、『輸送(保管)中に間引くための協力者』。  間引く量にもよるが、最低でもそのルートの輸送(保管)責任者――最低でも幹部――を含む、数人以上の協力者は必須である。  次いで、『間引いた鉱石の一時保管場所の提供者』。  ここは官地である。この周辺を担当する警吏が仲間とまでは断定できないが、買収されていることは間違いないだろう。  (最悪の場合、この郡の官衙全体が汚染されている可能性すらある)  次いで、『間引いた鉱石の売却先』。  無論、彼等はその鉱石が不正な手段で得られたものだと承知している筈だ。  つまり、最低でも『間引き先』『一時保管先』『売り先』という、三ヵ所での協力者の存在が必須なのである。  この他にも情報提供者等の存在も考えれば、かなりの規模の人間が関わっているものと思われた。  黒幕の存在すら否定できない。  ――最早、一警備隊の手に負える事態ではない。  そう判断した黒部中尉は、地区司令部に応援要請を行った。  が、事態は黒部中尉の想像を遥かに越えた展開を見せ始める。  (これで全てが終わる、と黒部中尉は考えていた)  応援に来たのはタブリン地区の憲兵分遣隊ではなく、憲兵総司令部直属の憲兵だった。  ……そして黒部中尉には、ダソレルの地区司令部への出頭が命じられた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【10】  黒部中尉がダソレル(旧王都)のタブリン地区司令部に出頭している間、レディング鉱山警備隊は将校不在となっていた。  その間は、黒部中尉に次ぐ階級を持つ『鬼の曹長殿』こと石井曹長が、隊長代理としての任に当たることになる。  ……が、『鬼』だろうが『最古参』だろうが、下士官に過ぎないその身では、隊長任務は不都合この上無かった。  何しろ、将校でなければ出来ない――やってはいけない――ことが、山とある。  例えば、武器庫の鍵。  これを開けることが出来るのは、本来は将校たる黒部中尉のみ。  例えば、書類の決裁。  最終的な決裁には、やはり将校たる黒部中尉の捺印が必要だ。  ――等々、挙げていけばきりが無い。  隊長が不在でも他に将校がいれば、その将校が代行できるのだが、あいにく下士官だけでは、どう足掻いても出来ないものは出来ない。  (まあ帝國軍とて軍事組織であるから、非常時にはその辺の問題はどうとでもなる。   が、今は生憎と平時である。故に、組織として規則は厳守せねばならなかったのだ)  当然、警備隊の下士官達は、『あれが出来ない、これも出来ない』と大弱りだ。  自然と集まり、愚痴が多くなる。 「中尉殿、いつ帰ってくるのだろう?」 「さあ? まあ状況説明だけだろうから、数日で戻るんじゃあないかな?」 「しかし、なんでわざわざ地区司令部に呼びつけるんだ?  事件解決後に、応援の奴等が報告すりゃあ済むことだろう?」 「それだけの大問題なんだろ?」  何しろ、帝國が採掘した資源を大量に盗まれていたのだ。問題にならない筈が無い。 「……何れにせよ、色々不便でしょうがない。早く帰ってきて欲しいものだ」 「全くだな」  部下達は、突然の黒部中尉に対する出頭命令が、『状況説明』であると頭から信じ込んでいた。  そんな空気の中、黒部中尉が要請していた『応援』が到着した。  応援に来たのはタブリン地区の憲兵分遣隊ではなく、帝都にある憲兵総司令部直属の憲兵だった。  ――ことは、ここまで大事か!?  レディング鉱山警備隊の下士官兵達は、思いがけない事態に驚愕する。  帝國陸軍憲兵隊の組織構造は、増強に次ぐ増強を重ねた結果、現在では転移前と比べ、かなりの大所帯になっている。  憲兵総司令部(帝都)を頂点として、  本国に、北部管区憲兵隊、東北管区憲兵隊、東部管区憲兵隊、東海管区憲兵隊、中部管区憲兵隊、中国管区憲兵隊、四国管区憲兵隊、西部管区憲兵隊の8個管区憲兵隊。  大陸に、東ガルム方面憲兵隊、南ガルム方面憲兵隊、西ロディニア方面憲兵隊、南ロディニア方面憲兵隊、北東ガルム方面憲兵隊の5個方面憲兵隊。  という構成だ。(*北東ガルム方面憲兵隊は現在編成中)  本土の各管区憲兵隊は、各都道府県毎に憲兵隊(例、新潟憲兵隊)を置いており、各憲兵隊は、その指揮下に複数の憲兵分隊やは憲兵分遣隊を保有している。  (*憲兵分隊は、憲兵少佐〜中佐以下数十名の規模を誇る大所帯――いわば『軍の警察署』の様なもの――であり、通常の分隊とは異なる)  大陸の各方面憲兵隊は、各軍管区毎に管区憲兵隊を置いており、管区憲兵隊は、各師管区毎に憲兵隊を置いている。また各憲兵隊は、各地区毎に憲兵分隊又は憲兵分遣隊を保有している。  (*大陸の各軍管区は、各直轄領を担当する師管区を統括するだけでなく、多数の邦國の監理も担当している)  ……つまりタブリン地区でおきた事件は、本来ならばタブリン地区の憲兵分遣隊が担当するのが『筋』なのだ。  それを憲兵本部直属の憲兵が、しかも初っ端から担当するということは、『地方の警察署管内で起きた事件に、警察庁――警視庁では無い――の役人がでしゃばる様なもの』とも言い換えられるだろう。  要は、それだけ『異常』だったのである。 「憲兵総司令部所属の本郷憲兵少佐だ。この後ろにいるのが、五十嵐憲兵少尉とカウナス憲兵少尉」  如何にも憲兵らしい、高圧的な口調の憲兵少佐が身分を名乗る。  (カウナス憲兵少尉は、噂はあれど姿は……のダークエルフだった。   ダークエルフ自体が珍しいが、憲兵のダークエルフは更に珍しい)  ――何故、憲兵少佐なんて大物がやって来るんだ!?  応対に出た石井曹長は、内心の驚きを隠しきれない。  憲兵少佐といえば、憲兵分隊の分隊長や大規模特務機関の長として活躍出来る程の『大物』だ。  間違っても、こんな『辺境地域での横流し事件』の捜査現場に出向く様な位階では無い。  ……が、 「貴官等は、只今をもって本官の指揮下に入る!」  突然の爆弾発言。 「おっお待ち下さい! いくら少佐殿とはいえ、その様な権限は……」  必死に抵抗する石井曹長に、本郷少佐は一枚の書類を渡す。 「これを見たまえ」 「こっ、これは!?」  その書類には、本郷憲兵少佐を『特別捜査官』に任ずること、それに伴い『現場の部隊を補助憲兵として、その一存で臨時徴用できる』旨が、陸軍大臣と海軍大臣の連名付きで記載されていた。 「石井曹長! 補助憲兵として、直ちに2個小銃分隊を抽出せよ!」 「それでは鉱山警備が!」  石井曹長が悲鳴を上げる。  レディング鉱山警備隊は、本部指揮班(10名)、小銃分隊(10名)3個、擲弾筒分隊(10名)、機関銃分隊(5名)の計55名からなる。  内、本部指揮班は隊長(黒部中尉)、隊長補佐(石井曹長)、衛生担当1名、炊事担当2名、経理担当2名、通信担当2名、従卒1名の計10名だが、それぞれの任務が有りとても警備任務にまで手が回らない。  つまり実際に軽微に当たるのは、小銃分隊(10名)3個、擲弾筒分隊(10名)、機関銃分隊(5名)の計45名なのだ。  そして、通常機関銃分隊は帝國人居住区の警備や雑用を担当し、他の4個分隊が『休養』『訓練・待機』『鉱山警備』『労働者監視』を交代で行う。  ここから、2個分隊も引き抜かれたら…… 「2個分隊の抽出は不可能です! 当警備隊の現有戦力では、1個分隊が限度……」 「……曹長、命令だ」  が、本郷少佐はにべも無い。あくまで2個分隊の抽出を要求する。 「が、流民の労働者相手にこれでは、さすがに不安だろう。  よって、捜査終了まで『特別警戒態勢』の発令を許可する。  ……五十嵐憲兵少尉!」 「ハッ!」 「お前をレディング鉱山警備隊の臨時隊長に任ず!  残余部隊を指揮し、鉱山警備にあたれ!」 「ハッ! 五十嵐憲兵少尉、レディング鉱山警備隊臨時隊長として、鉱山警備にあたります!」 「!」  レディング鉱山警備隊の下士官兵達は、絶句する。  ――『特別警戒態勢』。  これに従えば、鉱山の操業は全面的に停止され、現地労働者と帝國人労働者はそれぞれの居住区に待機・禁足、軍部隊は完全戦闘体勢に移行する。  そして、無断侵入者や逃亡者、禁足を破った者には即時射殺が許可されるという、実に荒っぽい警戒態勢だ。  (裁判も簡易化された上、全ての犯罪の最高刑も銃殺刑に引き上げられる)  ……が、これは戦闘地域内、それも最前線で発令される『抜かずの宝刀』の筈だった。  一体全体、如何なっているのだ!?  黒部中尉の突然の出頭命令。  憲兵本部直属の憲兵少佐という大物の来襲。  そして『特別警戒態勢』の発動……  事態は、容易ならざる事態へと突入しようとしていた。