帝國召喚 外伝 「辺境警備隊隊長よもやま物語」 ――――帝國の国防線は、帝國を囲む数千海里の大洋ではなく、大陸の各直轄領を結ぶ線であります。                                           帝國宰相(昭和18年末、レムリア進駐に関する国会答弁にて) 【1-1  昭和19年2月 帝國直轄領レディング鉱山 】 『またも偽魚! 不当表示で某水産会社を摘発!(朝○新聞、昭和18年12月17日) 帝國在来魚の捕獲は厳しく制限されており、滅多に手に入らなくなってしまった。 いまや庶民の味方であった筈の鰯、秋刀魚、鮭鱒といった大衆魚ですら、かつての数十倍という高値が付いている。 これは限られた貴重な在来魚の保護という観点から、止むをえないことではあるだろう。 しかし、「これらの魚を食べたい」と誰もが思うことは否定しがたい事実である。 長い間親しまれてきた庶民の味を「再び味わいたい」と願う気持ちを、一体誰が責められるだろうか? 許しがたいことに、この庶民の思いを食い物にする悪党が存在する。 今回摘発された水産会社は、ロッシェル沖で大量に獲れる「メロ」という外来魚を、「銀むつ」と称して販売し、不当な利益を得ていた。 調べに対し水産会社社長は、「メロという聞いた事も無い名ではとても売れないので、仕方なくやった。加工してしまえば、味が似ているのでばれないと思った」と供述している。 しかし水産業界ではこの水産会社に同情する声が多い。 ある水産会社役員は、「一年前なら帝國政府が(転移という事実を隠すため)黙認していた。急に止めろと言われてもこっちが困る」と述べ、擁護の姿勢すら見せている。 呆れる他ない。 この未曾有の國難の最中、この様な卑劣な振る舞いが許されるとでも思っているのだろうか? この非國民達に厳罰が加えられ、綱紀が粛正されることを望む。 帝國政府にも苦言を呈したい。 今回の事件は、一連の統制緩和の流れから起きたものだ。 統制を緩めると、企業は直ぐにこの様に極端な利益獲得に走る。 これが平時ならばまだ良い。 だが、未だ帝國は危機にあるのだ。 もう一度、統制緩和について考え直して頂きたいものだ。 また、「今回の事件は氷山の一角。だいたい在来魚は厳しく捕獲制限されており、本来なら市場に出回る筈が無い」と識者は指摘している。國民も注意が必要だろう』 「……内地は平和だなあ」 一ヶ月以上も前の新聞を読み、呆れた様に呟く。 一面トップがこれである。 ……他にニュースは無いのだろうか? 他のニュースは、とばかりに薄い紙面を捲っていく。 『帝都大開発を行く 建設進む帝都大電波塔』 『弾丸列車、全線完全電化決定へ 帝都-博多間への延長検討も』 「開発ばっか……」 ペラペラ 『刺身に適した外来魚 その5』 『美味しい海竜肉の調理法 その11』 「…………」 そのまま黙って新聞を折りたたむ。 そして、そっと新聞保管用の木箱へ。 こんなものでも、貴重な暇潰し……もとい娯楽品である。努々疎かには出来ないのだ。 たとえこれが、送られてきた輸送品の包み紙に使われていたものであっても、である。 「全く! 新聞位、定期的に送ってこいよな……」 ぶつくさ文句をいうこの男、レディング鉱山警備隊隊長の黒部中尉である。 レディング鉱山警備隊は、隊本部、通信分隊、小銃分隊×3、擲弾筒分隊、機関銃分隊からなる50名程度の小部隊である。 (なお機関銃分隊は、三八式重機関銃2挺を保有する固定運用を基本とした分隊だ。故に分隊人員も5名と非常に少ない) まあだからこそ、士官学校すら出てないような娑婆っ気たっぷりの中尉モドキが隊長をやっているのだろう。 大体、対空警戒を第一任務――第二任務は勿論対地制圧だ――とする機関銃分隊に、6.5ミリ弾の三八式重機関銃なんかを使っていることからも、この警備隊、ひいてはこの鉱山の重要性の低さが分かるというものだ。 (勿論、警備隊の小銃も6.5ミリ弾の三八式小銃である) このレディング鉱山、鉄鉱石を産出する小規模の鉱山だ。駐留している帝國人も、警備隊50余名と単身赴任の鉱山幹部数名に過ぎない。 鉄鉱石というありふれた、しかも小規模の鉱山。 直轄領でもどちらかといえば辺境――つまり辺境の更に辺境――に存在するという地理的条件の悪さ。 これ等の悪条件が合わさり、レディング鉱山はどちらかと言えば『半ば忘れた地』と化していた。 【1-2】 大体ここは娯楽が無さ過ぎるのだ、と思う。 官民合わせて僅か1個のラジヲ。しかも受信できるのは、南ガルム方面軍が放送を担当している一局のみ。 軍の娯楽施設がある町は遠く、短い休暇ではとても往復は無理(そりゃあ飛竜とか、せめて自動車を使えれば話は別だが)だ。 こんな小規模な部隊では、慰問巡業も期待できない。 唯一の楽しみは、月一度の補給――殆ど唯一の帝國との接触だ――の際に配られる家族からの手紙や慰問袋、数冊の雑誌という有様だった。 ……そんな訳で、わざわざ包み紙代わりの新聞まで、後生大事にとっておいているのである。 御愁傷様、というべきであろうか? 帝國人用集会場に行くと、非番の下士官兵が数人、まるで上野動物園の熊の様にだれた格好でたむろっていた。 ……精強無比の帝國陸軍軍人とはとても思えない、士気の低下を懸念すべき光景だ。 流石に彼が入ると、慌てて敬礼する。 「ああ、別に構わない。ここは数少ない『娯楽場』、ここでは無礼講だよ」 「流石に将校殿に対しては、そういう訳にはいきませんや」 「……それは遠まわしに、俺に来るなと?」 高木軍曹(第二小銃分隊長)のおどけた様な言い回しに、やはり冗談口調で尋ねる。 「……実際こうでもしなければ、軍規が保てませんよ。中尉どの」 ここは軍なんですから。 先程とはうって変わった真面目な声。 前言撤回。 どうやら、未だ士気は保たれている様だ。 (下士官達がこの様に考えている限り、軍は士気を維持できる) 「確かに」 先程のだれた光景を思い出し、頷く。 まあこんな所に一年半もいればなあ…… と納得するが、隊長が士官学校出の気の利いた将校なら、もっとちゃんとしているかな? とも思う。 この高木軍曹ともやはり一年半の付き合いだ。 というよりも、ここの帝國人全員、一年半前と顔ぶれが変わっていない。出ていく者もいなければ、入って来る者もいないのだ。 「……忘れられたかな?」 補給こそ来るが、判で押したような事務的な作業である。 「書類上でしか、自分等を把握していないんじゃあないですかね?」 思わず呟いた、それも主語の無い独り言だが、それだけで理解した高木軍曹は同意する。 「せめて、数ヶ月に一人でも人の出入りがあれば、大分違うのだけどな」 そう、外界の空気を運んでくれるだけで。 「全くですよ」 二人はほぼ同時に溜息を吐く。 しばしの無言の空間を、レディング鉱山唯一の蓄音機が、引きつったような音で満たしていた。 「……このレコードも、そろそろ寿命かな?」 「何度も繰り返して聴いていますからねえ」 「そろそろ新しいのを買うかなあ」 鉱山監督や鉱山技師と相談してみよう。 (レコードは官給ではなく、警備隊長や鉱山監督、鉱山技師といった比較的俸給の良い数人が折半で買っている私品) 「有難う御座います。では自分は、皆の希望をまとめておきます」 「頼む」 【1-3】 外が騒がしい。 と、一人の兵が駆け込んできた。その姿は完全武装。 「隊長殿! 喧嘩です!」 「またか!」 黒部中尉は吐き捨てる様に叫ぶと軍刀を掴んで走り出すが、目的地近くまで来ると、駆け足から歩みに変える。 (原住民の諍いを仲裁する際、軍人特に将校は『緊急事態を除き決して走って駆けつけてはいけない』ことになっている) 高木軍曹も、途中小銃を受け取りついて来る。 やがて手隙の兵が合流、現場に着く頃には半個分隊程の兵力となっていた。 現場では、数十人の現地労働者が二手に分かれて睨み合っている。 (未だ衝突に至っていないのは、数人の帝國兵が抑止力となっていたからだろう) 「これは何事か! 集団での諍いは御法度であるぞ!」 黒部中尉は集団を睨み付け、怒鳴りつける。 すると、労働者達が口々に訴えた。 「隊長様! こいつらが私の靴を盗んだのです!」 「お前が先に、俺の手袋を盗んだのだろう!」 「俺の靴の方が高価だ!」 「隊長様! 悪いこいつらを罰して下さい!」 「隊長殿、どうやら『いつものいざこざ』のようです」 兵の一人がそっと耳打ちする。 やはりか。 舌打ちする。 こいつ等は何かことある毎に争い始め、諍いが絶えることは無い。 やれ、飯の量が多い少ないだ、あれが無くなったこれが無い等々…… だから流民なぞ使いたくなかったのだ! この劣等民族が! どちらかと言えば御人好しだった黒部中尉は、ここにきてからというもの、すっかり人種差別主義者に宗派替えしている。 差別されるからには差別される理由というものがある、それを痛感した一年半だったのだ。 流民とは定住地を、いや国すら持たない流浪の民である。 その民族はまちまちであるが、彼等は一括りに『流民』と呼ばれている。 神と王の守護を受けられぬ彼等は、誰からの庇護も受けることが出来ず、何世代にも渡り放浪を続けることを余儀なくされている哀れな民だ。 (建前的には、彼等とて神の庇護をうけることが出来る――その点で獣人やダークエルフとは決定的に異なる――筈だが、各宗派からは敬遠されている) 各地で警戒・冷遇され続けた彼等は、自然と身内で固まり、非常に排他的で猜疑心が強い。それが一層、流民に対する一般人の悪感情に繋がるという悪循環だ。 ――其の性甚だ卑し、決して関わるべからず。 これは、この世界の人間の流民に対する感情を、最も的確に表した一文である。 無論、何事にも例外があり、全ての流民がこの様な存在ではないが、悲しいことにそれは圧倒的な少数派に過ぎない。 この鉱山の労働者である元流民達も、残念ながら多数派の方だった。 転移初期、帝國は大陸における労働力として、獣人の他に流民にも注目していた。 そしてダークエルフの警告にも関わらず、彼等流民を試験的に導入してみる。 その結果は『大失敗』だった。 排他的で猜疑心が強い、それは仕方が無いかもしれない。卑屈なのもまあよいだろう。 が、付け上がると始末に終えない、喜怒哀楽が激しく感情を制御出来ない、怠け者の上に手癖が悪いといった点は如何なものだろうか? 加えて現地住民とのトラブルも頻発。 現地住民が嫌悪しているせいもあるが、それ以上に多発する流民達の犯罪が原因であった。 ここに至って遂に帝國は匙を投げ、以後直轄領に関しても流民の立ち入りを厳しく制限するようになる。 ……既に雇った連中――幸いにも少数――については、如何ともしようもなかったが。 (帝國は生真面目にも、彼等に対してすら契約を遵守していた) 帝國は、雇い続ける羽目になった流民達を重要度の低い鉱山にまとめて送り込み、隔離する政策を実行することにした。 体の良い厄介払いである。 このレディング鉱山もその一つだったのだ。 「喧しい! 帝國が定めた規則をお前等如きが破るとは、どういうことか!」 黒部中尉は、流民達の話も聞かずに怒鳴りつける。 「解散だ! 散れ! 早く散らねば鞭で打ち、牢屋にぶち込むぞ!」 高木軍曹がそう怒鳴り、空に向かって小銃を発射する。 流民達は、哀れっぽく泣き叫びながら、まるで蜘蛛の子を散らすかの様に散っていった。 流民使役ニ関スル心得 『流民ニ対シテハ常ニ高圧的ナ態度デ臨ムコト、情ケハ無用トスルコト』 『流民ノ訴ハ欺瞞デアルコト極メテ多シ、努々信ズルベカラズ』 『流民トノ交流ハ不可トスルコト』 『流民ノ周囲ニハ物ヲ置カヌコト』 ――――等々。帝國軍が制定したこれ等の心得は、奇しくもこの世界で言われていることと全く同じものであった。 【1-4】 「畜生! 毎回毎回、少しは大人しく出来ないのか!」 「……やはり、『同じ鉱山に二つの流民部族がいる』というのが騒乱の一番の原因では? 他の所でも頭を抱えているみたいですから、いっそ部族ごとではなく、バラバラにして個人単位で配属してみるよう具申しては?」 黒部中尉の愚痴に、高木軍曹も相槌をうつ。 だが高木軍曹の相槌に、黒部中尉は忌々しそうに答えた。 「そりゃあ無理だ。最初の契約で『労働は部族ごと』としてあるからな」 「しかし、連中相手に契約なんか意味を成しませんよ! 付け上がらせるだけです!」 「まあ同感だな」 二人は契約を履行する帝國に文句を言いながら、現場を後にした。 ……とはいえ実は帝國も、一時はそう考えたことがあるのだ。 ただ、部族の縛りが弱まることにより統制が利かなくなり、余計騒動が増える可能性も捨てきれない。 ならば、『流民に対してすら約束を守った』とした方が『まだマシ』と判断したのである。 重罪を起こした流民を追放刑や処刑に処していけば、其の内一人もいなくなるさ。と軽口を叩きながらではあるが…… (これは些か大袈裟な言だ。軽度の犯罪こそ日常茶飯事であるが、流石に中等度以上の犯罪に関しては想像している程『は』多くない。 最もこの点に関しては、帝國のこの様な態度こそが最大の抑止力となっているからである) 「中尉どのは、これからどうされます?」 高木軍曹が尋ねる。 二人とも非番、本日はまだ始まったばかりである。 「お互い非番だろう? 町まで行って酒でも飲もうぜ。非番の日まで流民の近くにいたくはない」 「御尤も。お供します」 「では『鬼の曹長殿』に御報告しに行くか」 「……そんなこと言ってると、またどやされますよ?」 「桑原桑原」 二人は『町』に降りるため、事実上の警備隊最高実力者である『鬼の曹長殿』の所へ行くことにした。 現在、大陸には大量の人員が派遣されている。 陸軍、それも北東ガルムを除く辺境地域だけでも、35万の将兵と50万の軍属が広大な辺境地域に散らばっているのだ。 (無論、この数は帝國人だけの話である。現地雇用の軍属も加えれば……) 帝國陸軍100万人の内、およそ三分の一以上が大陸に常駐している計算である。 (他に臨時派遣の部隊等を考えれば、全人員の四割程度は常時大陸に展開していることになるだろう) 更に、レムリア派遣軍の編成が一段落する予定の昭和19年春には、それこそ全人員の半数以上が大陸に『常駐』させることになる。 これは余り好ましい事態ではない。 今以上に交代が難しくなり、派遣任務が一層長期化するからだ。 如何に我慢強い帝國兵とはいえ、レムリアの様な大文明圏ならばまだしも、何も無い辺境地域に何年もいるのは御免こうむるだろう。 帝國も、娯楽関係の提供には相当力を入れてはいたが、そういった施設はどうしても直轄領でも一部地域、正確には主要都市や港湾に集中してしまう。 多くの人員が展開している地方にまでは、なかなか手が回らないのだ。 (第一、時間も金も資材も労力も無い) 彼等への慰問をどうするか? 実に頭の痛い問題である。帝國陸軍は、決して将兵の娯楽を軽視する軍では無いのだから。 ……とはいえ、出来ないものは如何にもならないし仕方が無い。 未だ根本的な解決策は見出せず、暗中模索の時代だったのである。 黒部中尉を始めとするレディング鉱山の帝國人達は、其の犠牲の最たる者達の一人であったのだ。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【2-1】 「何とか間に合った……」 荷台の上で息を整えつつ、黒部中尉は安堵の溜息を吐いた。 その腕の中には風呂敷包みが抱えこまれている。 「これを逃したら、徒歩で町までいかなきゃあなりませんからねえ」 と、これは高木軍曹。 現在、二人は竜車の荷台の上で揺られている。 その前後には、他にも数台の竜車の姿が見えた。 この竜車集団、レディング鉱山で採掘された鉄鉱石を輸送するためのもので、帝國から委託された現地業者が派遣したものである。 それに同乗させてもらっているのだ。 彼等は、最寄の帝國大陸鉄道管理下の集積場とレディング鉱山との間を往復し、荷を運ぶのが仕事であり、一日一回早朝にやって来る。そして前日の採掘分を運ぶのだ。 竜車の竜は、この地方で良く使われる労働用の竜である。 帝國軍の測定によれば、一頭立ての竜車は最大積載量3トンを誇り、その状態で一日7〜8時間を10km/hで走ることが出来る。 必要とされる糧秣は20kg/日、水は60L/日(標準)。 (ちなみに馬――元の世界の欧州馬――やトラックと比べると、 四頭立て荷馬車の場合、最大積載量は1.5トン程度、その状態で一日6〜7時間を6km/hで走ることが出来る。 馬四頭に必要とされる糧秣は、最低でも36kg/日。他に水120L/日。 トラックの場合、最大積載量は3トン程度、その状態で一日8時間を40km/hで走ることが出来る。 トラック1両に必要とされるガソリンは、大目に見積もっても10km/L程度) この結果に、誰もが目を疑った。 ――馬鹿な!? この程度の食事量で、この体格と力とを維持できる筈が無い! この五倍は必要な筈だ! 其の巨体からは想像もつかないほどの小食さに、立ち会った獣医達は頭を掻き毟ったという。 地を這う竜達は、恒温動物でありながら変温動物並みかそれ以下のエネルギー摂取量で活動していたのである。 【2-2】 「いやあ、外泊許可を取れて良かったですね」 そうでもなければ、往復20キロ近くを徒歩で行く羽目になる。行きはともかく帰りは願い下げだった。 「道はどうにか整備されたとはいえ、な」 黒部中尉は同意しながら、赴任した当初を思い出した。 鉄道は今ほど整備されておらず、資源集積場からレディング鉱山までは遠く(今でも40キロ程離れているが)、その道のりも酷いものだった。 竜も鉄鉱石を荷車で牽引するのではなく、駄載して輸送していた程だ。 その竜に踏み越えられ、広がった獣道を拡張したのが現在の道である。 ……とはいえ、竜車一台通るのがやっとの広さではあったが。 「しかし、鉄道がこっち(レディング鉱山)にまで引かれるのは、一体何時になることやら……」 そうすればもっと色々便利になるのに、と愚痴る高木軍曹。 其の言葉に黒部中尉が驚いた様に尋ねる。 「何だ、知らなかったのか?」 帝國は一部の主要鉱山を除き、当分は鉱山にまで鉄道を引かないことを決定している。 突貫工事で進めていた主要線路建設がようやく一息ついたため、これから暫くは複線化等の充実化に本腰を入れる、というのが表向きの理由だ。 「表向き?」 「これも理由の一つではあるが、一番まともな理由だからな」 ……というより、他はあまり大きな声で言える様な話では無い。 そう笑いながら説明してやる。 一つは『現地対策』。 進駐当初、帝國は現地の労働力を大量に徴発した。 鉄道・道路建設、鉱山開発…… これ等の大量徴用が現地に影響を与えないはずも無い。現地の状況、特に経済状況が一変した。 まず失業率が改善、というよりも浮浪者が大幅に減った。 仕事も碌に無い貧民達にとって、帝國の大量徴用は干天の慈雨であった。彼等は職を得、日々の糧を得ることが可能となったのである。 その生活は依然として厳しいものではあったが、少なくとも野垂れ死にの恐怖からは開放されたのだ。 (徴用された現地労働者には、賃金代わりに住居と、まあ腹一杯とまではいかない――食料は依然として不足している――が、『必要最低限よりややマシ』程度の食事が支給された) 彼等の生活を支える農民には、帝國農業技術の初歩と一部帝國種の農作物を導入、その生産量を底上げさせた。 (当然である。帝國が現地労働者に払う物資は、彼等の年貢から出ているのだから) 帝國の出現により、多くの辺境地域に好景気が到来したのだ。 それは、停滞していた辺境地域にとって初めての経験でもあった。 この状況は治安維持に不可欠であり、出来る限り持続させる必要があるだろう。 少なくとも、彼等自身が雇用を生み出せる様になるまでは。 そして彼等に仕事を与え続けるためには、ある程度の『無駄』が必要だった。 ……たとえば、『鉱山から集積場まで荷を運ぶ』といったような。 また、鉄道が末端まで整備されれば、多くの運送業者が廃業に迫られる。 (彼等の大半は帝國の出現とともに起業した者達であり、帝國からの仕事以外していない) 彼等は帝國の許可を得た者達であり、加えてその全てが現地の有力者達だ。代官や領主として、帝國の統治に協力している者も多い。 それを考えれば、彼等の仕事を奪う真似など出来る筈も無かった。 第一、竜がトラックに準じる性能を発揮できる以上、無理して鉄道を鉱山まで延長させる必要は低かったのである。 「……後は帝國内部の内輪揉め、さ」 『帝國内部の内輪揉め』 帝國は帝國大陸鉄道に対し、本国と同様に狭軌で建設するよう命令し、これは現在も忠実に実行されている。 当初の逼迫した事情を考えれば、狭軌の採用は当然の判断であった。 だが総距離が1000キロを超え、2000キロにも達しようかとまでなれば、話は変わってくるし欲も出てくる。 ――これから大陸鉄道の総距離は、10倍にも20倍にも増えていくだろう。今からでも遅くは無い。広軌に変更したらどうだろう? そんな意見が頭をもたげてきたのだ。 要するに、『狭軌では将来の輸送に支障をきたす』という訳だ。 まあ、先のことを考える余裕が出来てきたわけだから、目出度いと言えなくもないだろう。 軍(陸軍)もこの意見を後押しし、政財界の一部からも同調の動きが出始め、何やらきな臭さすら漂ってきている、というのが現状だった。 「は〜、中尉どのは物知りですなあ。流石大学出」 「……まあ、な」 以前の出張の際に会った大学の先輩(政府官僚)との酒飲み話、その受け売りではあったが、そんなことはおくびにも出さずに賛辞を受け取る。 そんな会話を重ねるうちに、どうやら町が近づいた様だ。人の往来がちらほら目に付き始める。 「中尉どの、町ですよ!」 指差す其の先にはレディング鉱山最寄の町、『辺境の町』ケネットが見えた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【3-1】 『辺境の町』、ケネット。 帝國領となるまでは、周辺の村々を顧客とする鍛冶屋等が数軒が集まった小集落であり、後は月一度市場が開かれる程度の場所――この辺りの農民にとっては必要不可欠ではあったが――に過ぎなかった。 だが帝國領となりレディング鉱山が開発されると、鉱山と物資集積所とを結ぶ輸送拠点として発展し、今では人口数百人の町にまで成長している。 町の主な産業は馬借ならぬ『竜借』。 彼等は竜を使った輸送業務だけでなく、道路整備等の工事も行なう人足集団だ。 (無論、顧客は帝國である) 町には『竜借』や鉱山の帝國軍目当ての店も出来、それがまた人を呼び、今ではこの辺り一番の町といっても過言ではない。 ……所詮は数百人の小さな町ではあったが。 黒部中尉と高木軍曹は町に着くと、町唯一の酒場に向かう。 酒場は何も酒ばかり飲む場では無い。 つまみは別としても昼時には簡単な飯も出すし、酒でなく茶――正確には茶では無くこの地方に自生する某植物の葉を煮出して味付けあしたもの――も出す比較的健全な町の娯楽場なのだ。 「いらっしゃいませ! あ、これはこれはクロベ様にタカギ様」 「とりあえず酒、冷やで頼む。あとつまみ、大至急だ」 店の主人の挨拶を鷹揚に受け、奥の一番良い場所に陣取る。 「しかし、尻が痛いなあ」 「仕方ありませんよ。道が悪い上にあの竜車の速度、おまけに尻の下は鉄鉱石ですからねえ。ござじゃあ『無いよりはマシ』程度ですよ」 「……やはり座布団は必須かな?」 「痔になる前に、やった方がいいかもしれませんね」 そんな馬鹿話をしていると、直ぐに酒が運ばれてきた。 「いらっしゃいませクロベ様、タカギ様」 酒を運んできた看板娘――というには少しとうが立つが、まあ目鼻立ちの整った女が酒を運んできた。 「やあサーナさん、いつ見ても美しい」 と、黒部中尉。 実は彼、彼女に『お熱』なのだ。相手が未亡人で子持ちだということも知ったことじゃあない。 ……中尉どのはマメだねえ。 黒部中尉の口説き文句を横目に、高木軍曹は酒を含む。 芋から造った手造りの酒、そのドロッとした感触が喉を通り過ぎる。 やがて腹の中が熱くなる。 やはりこいつは冷やに限る! 井戸で冷やした『冷たさ』と、酒そのものの『熱さ』の相克、これがまた何ともいえぬのだ。 干した雑魚や炒り豆のつまみも、慣れればまあ食える。 (というより、慣れねばやっていけない) 加えて、悪路を二時間近く竜車の上で揺られていたという疲労の後。 至福のひと時だ。 こんな時、『そんなにここも悪く無い』と思う。 ……もっともほんの一瞬ではあるが。 彼等が飲む酒やつまみ、この辺りで獲れた(或いは造った)ものであり、手も殆ど加えていない粗末なものだ。 とてもではないが帝國本国では金は取れぬであろう、そんなシロモノである。 まだ鉱山の詰め所の方が、もう少しマシなつまみや酒を期待できるだろう。 だが、『娑婆に出た』という開放感で酒を飲む幸せは何者にも変えられない。 ……それに鉱山には『女』がいないし。 (まあいるにはいるが、あくまで生物学的な話に過ぎない。アレらを女と呼ぶにはまだ何年もの歳月が必要だろう) そんなことを考えながら、黒部中尉とサーナの方に再び注意を向ける。 いつのまにか彼女の子供もやって来ている。 黒部中尉は、体に異常は無いか苛められてはいないかと訊ね、何かあったら自分にいえ、と小さな風呂敷包みを子供に手渡しながら言う。 ……中尉どの、本当にマメだねえ。 呆れる。 風呂敷包みの中は、配給で手に入れた菓子や日用品の類だろう。黒部中尉はそれを溜め込み、せっせと渡しているのだ。 軍では日常品に止まらず様々な品を将兵に配給するが、菓子も嗜好品として配給されている。 甘納豆、金平糖、一口羊羹、缶入りドロップ、キャラメル、ビスケット、チョコレート……等である。 (この中でもビスケットやチョコレート辺りは中々配給される物ではないが、彼は曲がりなりにも将校、しかも辺境の警備隊隊長であるため、比較的上物の菓子を手に入れやすい立場にあった) さて上で挙げた品々だが、この辺境地域ではかなりの価値を持つ。 考えてもみて欲しい。辺境地域の文明レベルは良くて中世欧州レベル、大概はそれ以下だ。 つまりまともな菓子など存在しない。ましてや平民風情は菓子どころか普通の食事すら困難、そんな世界なのだ。 只の布切れですら価値を持ち、何らかの品と交換できる。石鹸や手拭を始めとする帝國製の日常品ならば尚更だ。 彼が定期的に渡す菓子や日用品は、結構な値段で売れることだろう。 安酒場の給仕女が、子供も抱えているというのにそこそこ裕福にやっていけているのは、そんな理由だった。 故に、サーナも恐縮している。 黒部中尉には世話になりっ放しで、頭が上がらないのだろう。 実の所、この辺境の果ての町で子連れの女が独力で暮らすのは難しい。帝國領編入により職が増えたからこそ、こうして何とかやっていけるのだ。 (帝國領編入前では、自分一人でも生きていけるかすら怪しい) 加えて彼女にはこの辺りの帝國軍の親玉、黒部中尉がついている。 彼が風除けとなり、変なちょっかいを出す者はいないし、父無しと子供も苛められない。これは非常に有難かった。 ……ここまで世話してるんなら、いっそ囲っちまえばいいのに。 高木軍曹は思う。 別に将校が現地の女を囲うなど珍しい話ではない。この地の経済状況を考えれば、中尉だって女の一人や二人囲えるだろう。 まあ自分等下士官兵には縁の無い話だが。 別に羨ましくは無い。仮に自分が将校でも妾など囲わず、今の様にてっとり早く娼館にいくだろう。 (今日もいつもの娼館――町に一つしかないが――で一晩を過ごすつもりだ) ……しかしそれにしてもどうせ熱を上げるのなら、黒部中尉ももう少し若い女にすればよいのに。 人の女の趣味にどうこういう積もりはないが、そう思う。 確かに彼女は、この辺りの女共と比べて明らかに目鼻立ちが整っている『美人』ではあるが、少々年をとり過ぎている。 しかも子供が二人もいるのは大減点だ。 ならばひねた薩摩芋のような女共――この辺の女共を的確に言い表している――でも若い方が良い。 まあ黒部中尉に言わせれば、落ち着いていて多少は学のある彼女の方が良いらしい。 抱く分には関係の無い話だと自分などは思うのだが。 【3-2】 暫くすると、何やら食い物の匂いが漂ってきた。 ……そういやあ、もう昼か。 見ると、主人が大鍋で何かを煮ている。 昼食時に出す飯の支度だろう。 この店は、昼食時に限り食事を出す。其の他の時間帯は先程の酒とつまみ、後は茶(モドキ)に白湯、冷水だけだ。 まあ食事とはいっても、水で溶いたライ麦(モドキ)の粉をとろ火で煮込み、僅かな塩で多少味付けしただけの麦粥で、具は屑野菜と豆、それに雑魚が少々。 如何な粗食に耐える帝國軍将兵とはいえ、出来れば御遠慮したい。そんなシロモノだった。 とはいえ、この地方(レディング鉱山周辺)の大多数を占める貧しい平民にとっては、これが主食である。 ある程度裕福な自作農辺りになると、具の量や種類が増えたり獣乳を加えたりするが、それでもこの麦粥を食べることには変わりが無い。 この地方で黒パンを常食できる者は極限られた層――地主――に過ぎないのだ。 「中尉どの、飯はどうします?」 一応聴いてみる。 「ああ、『家』で食べるよ。お前も来い」 つまりサーナの家で子供達と食べるということだ。(ちなみにサーナ自身は仕事) 「あ〜」 団欒を邪魔するのは気が引けるが、さりとてここであの薄い麦粥を啜るのも嫌だ。第一、娼館は日が暮れてから。まだまだ日は高い。 日も明るい内から時間を潰せる所など、ここ位のものだ。 だが昼になれば、流石に騒がしくなるし腹も空く。 騒がしいのはまだ我慢できるが、腹が空くのは我慢が出来ない。さりとてあの麦粥は…… (持参してきた食品も有るには有るが、こんな所で人前に晒して食べる訳にもいかない) 「……いつも済みません、中尉どの」 飯を食ったら帰ろうと考え、頭を下げる。 「気にするな」 黒部中尉はさして気にする風でもなく、鷹揚なものだ。 「亭主、勘定だ」 そう言うと、何枚かの帝國硬貨を置く。少し色をつけて。 レディング地方でも、最近ようやく帝國通貨が使える様になった。 貨幣としてではなく『物』として、だが。 この直轄領では未だ物々交換が主流である。貨幣を常用するのは大きな街や都、後はその周辺地方位のものだ。 流通量そのものが少ないということもあるが、布切れですら価値を持つ、そんな国だったのだ。 だからこの店も、基本的には何か交換物を渡してから、その対価として飲食物を受け取る。 (この二人の場合は、『疑ったら失礼』という貴人に対する礼儀に従い後払い) まあ銭も受け取るだろうが、そんな洒落た物を持つ者はこの辺りにはそうはいない。地主あたりの、それもどちらかといえば蓄財用であり、土地などの大きな買い物をする時に使う程度だ。たかが酒を飲む程度で使う物ではない。 仮に出したとしたら、まあ怪訝な顔をされるだろう。 だから大概は布等の物品を持参する。 帝國通貨も『物』の一つとして受け入れられたのだ。 帝國領編入後治安は格段に向上――前が酷すぎたという説もある――し、こんな田舎にも大きな町から行商人がやって来る様になった。 零細商人である彼等は、同じ行商人でも大規模な隊商を組む商人との差別化を図るため、こんな購買力の低い田舎にまで足を伸ばしてきたのだろう。 まあ治安の向上により、採算が取れる様になったことが大きいが。 その彼等が特に目をつけたのは、『帝國通貨』である。 都を始めとする一部の大都市では、帝國通貨により帝國製品を買うことが出来るが、これが地方の有力者に結構な値で売れるのだ。 故に行商人は、積極的に帝國通貨と品物の交換に応じる。 (都でも帝國通貨を持っているのは帝國人位のものであり、加えてこの直轄領ではその数が少ない為、彼等の様な零細商人には中々手に入らない) 実の所、レディング地方の住民にとって帝國通貨は、『良く分からないが、行商人が結構いいものと交換してくれる物』に過ぎなかったのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【4-1】 今日は月に一度の市の日である。 折角だから見ていこう――というわけで、現在帰宅を一時遅らせて市を眺めている。 市は町の中心を通る道、その両脇で開かれる。 (この道は国道の一つであり、ケネットはこの道を核として広がった町なのだ) とはいえ、それ程大した物ではない。 規模としては、十数人程の売り子――行商人や換金目的の農民――が店を開いている程度であり、帝國人の目から見れば期待外れもいいところだろう。 が、この地方の住民からすれば、露店とはいえこれ程の数の店が開くのは大したものであり、金は無くとも見て廻るだけでも十分満足できる娯楽でもあった。 (ケネットで常に開かれている店は、竜借を除けば宿も兼ねた酒場に娼館、鍛冶屋、竜も人も何でも見る医者モドキ、後は呪い師位のもの) 加えて必需品をまとめて買い揃える数少ない貴重な場――後は村々を廻る行商人から個別に揃えるしかない――でもある。 だからこの日は、周辺の村から人が集まるのだ。 「ほう、流石に人が多いな」 黒部中尉が呟く。 月に一度のこの日だけは、町の人口は倍近くまで膨れ上がり、道のあちこちで人がたむろっている。 この混雑の中、黒部中尉と高木軍曹は子供達を連れ、市見物としゃれ込んでいた。 「いつもより店が多いような気が?」 「ええ、いつもより2〜3軒程多いですね。新顔の行商人でしょうか?」 二人は顔を見合わせる。 「……或いは、換金目的の農民がいつもより多いか、だな。要確認だ」 「全面的に同意します」 ……前言撤回。『帝國人の目から見れば期待外れもいいところ』と上で述べたが、どうやら二人とも楽しんでいる様に見える。 悲しむべきか喜ぶべきかは判断に苦しむが、今では二人とも市を楽しめる――あくまで『それなりに』ではあるが――様になってしまっていたのだ。 (初めの頃の評価は、そりゃあ酷かった) まあこの程度の『娯楽』でもそれなりに楽しめる様になるのだから、人という生き物は慣れの生き物であるということが良く分かる。そんな場面だった。 市で売っている物は、塩や海産物の干物、古布や綿、糸などこの辺りではあまり手に入らない物が中心であり、後は付近の農民が余った――或いは何かの事情で手放す羽目になった――品物を売りに来る程度だ。 帝國の露店で見かける様な、アクセサリー等娯楽品の類はまず無い。 (この辺の住民の大多数にはそんな余裕など無いし、ある者の所には行商人が直接出向く) それでも子供達は面白そうにはしゃいでいる。 ……簪とかそういう類の一つでもあればなあ。 黒部中尉はそんな子供達の様子を見て、内心溜息をつく。 せっかく何週間振りかに会ったのだ。可愛い子供達のために何かしてやりたいものではないか! ……帝國の品は迂闊にやれないからなあ。 また溜息。 原則として帝國の品を不用意に放出してはならない、との通達が大陸に駐屯している帝國人には出されている。 現地の経済が混乱する恐れがあるからだ。 (経済の乱れは国の乱れ、帝國にとって好ましいものでは無い) 特にここタブリンの様な辺境では、僅かな品が流入しただけでも混乱を起こす可能性があり、特に厳しく通達されていた。 いかにも最もらしい説明ではあるが、帝國自身が積極的に交易していることを考えれば、あまり説得力のある言葉では無いだろう。 経済云々は否定できないが、これではダブルスタンダード、片手落ちというものだ。 まあ公式交易等で流入する分には、少なくともそれ相応の対価が帝國内に流入するかもしれないが、それでも影響があるだろうし、第一現地の売店では現地人に対しても(帝國通貨が必要だが)帝國の品が売られている。 帝國自身、慰撫目的で帝國の品を放出することだってある。 まあ本音としては、『個人で商売するな』――上手くやれば一財産作れる――そういうことだろう。 個人での商売については、法できちんと禁止が明記されているが、あらためてここでも通告しているという訳だ。 後は軍規と士気の維持、そんなところか。 (そんなことにうつつをぬかせば、将兵が惰弱になる) ……とはいえ、『あくまで原則として』の話であり、黒部中尉や高木軍曹等、こんな辺境に一年半以上も置かれている者達は、多少の品物を放出しても大目に見られている。 ましてや黒部中尉の様に、『自分の女』の子供に物をやる位で帝國が出張ることはまず無い。 (帝國もそこまで野暮ではないのだ) 黒部中尉が躊躇しているのは、別の理由からだ。 以前、子供達にビー玉や御弾きをやったことがある。 が、後でサーナに大目玉を喰らう羽目になる。 ――あんな幼い子供達に宝玉をお与えになるとは! 一体どのような御考えですか! ……そう。ここではガラスですら貴重品、ましてや帝國のガラス細工など下手な宝石と同義語であったのだ。 (どうせやるなら良い物を、と都内の某高級百貨店から取り寄せたのがまた拙かった) 結局、ビー玉や御弾きは何とか子供達の手元に置かれたが、子供達はぶつけて遊ぶような勿体無い真似はせず、一つずつ丁寧にしまっている。 これは最早、玩具の扱いではない。 黒部中尉もこれに懲り、以後は御菓子や食品以外の帝國品は持ち込まない様になった。 が、女の子である。簪の一つや二つ、買ってやりたい。 ……また竜借に頼むかな? ンモ〜 !? そんなことを考えていると、いきなり牛の鳴き声が耳に飛び込んだ。 「じゃあ、ライ麦を小樽5個でどうだ? 樽もつけるぞ?」 見ると、数頭の牛が売りに出されている。 恐らく付近の農民が連れてきたのだろう。牛は農民の宝。何か余程の事情があったとみるべきか。 それを察している客も、足元を見て安値で吹っかけている。 それにしても、成牛の牝牛を『ライ麦小樽5個』とは! 成牛は、雄牛ですらどんなに安くても『小麦』で『大樽』5個以上する。ましてや牝牛なら、乳が出ない様な不良品を除き、最低でも小麦で大樽8個以上はするだろう。 (ちなみに大樽は約200L、小樽は約20L入。小麦1樽はおよそライ麦2樽分に匹敵) 如何に価格交渉とはいえ、些かえげつなさ過ぎるというものだ。  ……おや、仔牛もいるのか。 先のやり取りに顔を顰めて見ていた黒部中尉の目が、ある一点に注がれる。 成牛の雄牛に牝牛が1頭ずつ、後は雄の仔牛が1頭。 そうだ! 肉を食おう! 突然閃いた。 せっかくの家族の団欒だ。夕食は一つ、すき焼きとしゃれこもうではないか! すき焼きに必要なのは砂糖に醤油、まあその位は家に置いてある。 ……後は何だっけ? まあ主役の牛肉があれば何とでもなるだろう、そう思うことにした。それが非常に危険な素人考えだと知らずに。 【4-2】 「仔牛にレムリア小金貨4枚!」 黒部中尉の言葉に、一瞬周囲の喧騒が止む。 「だ、旦那……」 売り手の男が、戸惑った様な声を出す。 「うん? 小金貨4枚では不足か?」 そう言いながら、頭の中で素早く計算する。 大雑把ではあるが、旧タブリン王国の標準的な物価では、 成牛の牝牛 小麦大樽8〜12個分 成牛の雄牛 小麦大樽5〜10個分 仔牛の牝牛 小麦大樽4〜6個分 仔牛の雄牛 小麦大樽3〜5個分 ――となる。(上の価格はあくまで健康な牛の場合) 大樽1個分の小麦は良銭――優良国の発行した貨幣――の小銅貨1000枚であるから、雄の仔牛は小銅貨3000枚〜5000枚。間をとって4000枚だ。 レムリア王国の貨幣制度では、 正金貨(10レムリア金貨)1枚=副金貨(5レムリア金貨)2枚=小金貨(1レムリア金貨)10枚 正銀貨(10レムリア銀貨)1枚=副銀貨(5レムリア銀貨)2枚=小銀貨(1レムリア銀貨)10枚 正銅貨(10レムリア銅貨)1枚=副銅貨(5レムリア銅貨)2枚=小銅貨(1レムリア銅貨)10枚 ――となる。(レムリア王国公式の標準レートでは、1レムリア金貨≒10レムリア銀貨≒1000レムリア銅貨) であるから、レムリア小銅貨4000枚は4レムリア金貨、或いは40レムリア銀貨に匹敵する。 無論、物価や貨幣レートは地域によって大きく変わるし、同じ地域でも日々変動する。 が、まあそれ程間違ってはいないだろう。――そうあたりをつけていた。 「い、いえ、そうではありませんが……」 「?」 ああ、金貨の真贋を判定できないということか? 「牛如きを金塊で求める、ということに戸惑っているのですよ。中尉様」 群集から、町唯一の竜借屋の主人が進み出てきた。 「おや、竜借の……」 竜借屋は黒部中尉に会釈した後、群集達を諭す。 「お前達も、あまりあこぎな真似をするものじゃあありませんよ。何故、中尉様が金貨で支払おうとしたとお思いですか?」 あまりに好意的過ぎる解釈ではある。が、その辺は恐らく計算の内だろう。 失礼しました、と竜借屋はこちらに向き直り、話を続ける。 「牛如きを金塊で求めるとは剛毅、流石は帝國の将校様であります。 ……が、その様な物を一農夫が貰ってもかえって困るでしょう。小銅貨を渡してやれば十分です」 「しかし、銅貨なぞ持ち合わせていない。故に金貨で代用している」 金貨も銅貨も、共に貨幣ではないか。 「……ならば私めが、そのレムリア金貨をレムリア銅貨で買いましょう。それで支払うのは如何?」 「買う? 両替では無くか?」 首を捻る。 この世界では、金貨と銀貨という正規の通貨の他に、補助通貨として銅貨がある。 (厳密に言えば、銀貨こそが真の正規通貨であり、金貨は本来儀礼的な贈答用貨幣に過ぎない。まあこれは大昔の話であるが) 先に述べたように、金銀銅貨のそれぞれの交換比率は、地域によって大きく変わるし、同じ地域でも日々変動する。 たとえ同じ種類の貨幣であっても、発行した国や時代により価値が異なり、やはり違う種類間の交換比率と同様に日々変動するのだ。 これを調整し、他の貨幣との交換に応じるのが両替商である。 無論手数料も貰うが、あくまで名目は『両替』だ。『買う』では無い。 「……少し長い話になりそうですなあ」 竜借屋が呟く。 「廻りも騒がしくなってきましたので、中で話しましょう。どうぞこちらへ」 と、店の中に招き入れる。 見ると、いつのまにか注目の的になっていた。 【4-3】 店の中で、大人二人には酒、子供達には砂糖の入った冷水が振舞われる。 (この辺りでは、客に対するもてなしは酒である。まあこれは裕福な家での話であり、余裕の無い家では白湯が振舞われるが) 落ち着いたところで、竜借屋が話を再開した。 「さて、どこからお話しますか……」 タブリンでは物々交換が基本である。何しろ都の役人の俸給ですら、布などの物品で支払われている位だ。 無論、全く金銭の遣り取りをしない訳では無い。 流石に都及びその周辺地域や一部大都市では、金銭による売買が主流である。 (ただし、依然として物々交換も補助手段として続いている) が、この様な田舎町では銭などという洒落た物を持つ者はそうはいない。一部の裕福な者が蓄財用として溜め込んでいる程度である。 この地方で銭を使う時は、余程大きな買い物の場合であろう。 例えば田畑、山林等の売買。要するに金持ち間での取引だ。 「牛も銭で取引するそうだが?」 「……そういう場合も御座いますなあ」 黒部中尉の疑問に、竜借屋が曖昧な笑みを浮かべる。 確かに、竜や牛などの買い物は大きい買い物だ。が、1頭単位では…… 「まあ、全く無いとは言いませぬが……」 少ないでしょうなあ、と言外に匂わせる。 銭を多数抱え込む様な金持ちならば、牛や竜を一頭単位で買い求めるようなことはそう無い。どちらかといえば、それなりに裕福な農民間での遣り取りだろう。 ならば、『小麦大樽幾つ』で交換する可能性の方が断然高い。 「成る程。が、何故金貨は駄目なのだ?」 「中尉様、タブリンでは金貨や銀貨は、銭ではなく『宝物』で御座いますよ」 「宝物!?」 タブリンでは、自国通貨に対する信任が著しく低い。自国通貨は押しなべて鐚銭扱いである。 (金銀の産出量が低く、金銀貨を発行していないせいもあるかも知れないが、それだけが理由ではない。根本的に信用されていないのだ) 故に、諸外国から銭を『輸入』して使っている。 そのためタブリンで流通している貨幣の種類は、ちょっとした国際見本市並である。 ……が、銅貨ばかりで金銀貨は殆ど存在しない。 「外国では、自国の金銀貨の持ち出しを厳しく制限しておりますからなあ」 竜借屋は、溜息を吐く。 実は、貨幣を輸入している国は結構多い。 理由は様々。『金銀の産出量が低い』『銭の大量生産が出来ない』『国が信用されていない』等々…… 彼等は大量の貨幣を諸外国から吸収する。 が、貨幣が流出(輸出)する方はたまったものでは無いだろう。金銀貨は国家経済の根本、その保有量の減少は最悪の事態を招きかねない。 故に、多くの国々は海外との交易の際、金銀貨での決済を厳しく制限している。 金銀貨での決済が可能なのは、あくまで『対等な国同士の場合』のみ。それですら物々交換を奨励している位だ。 それ以外の国との交易では、『物々交換』或いは『補助貨幣である銅貨での決済』のみ。 これは所謂『不平等条約』での基本条項、その一つであり、この世界の大国-小国間貿易の標準形態となっている。 「という訳でして、タブリンには銅貨以外は殆ど入ってこないのですよ。ですから金貨や銀貨は金塊、銀塊に細工を施した『宝石』扱いです」 「それはそれは」 黒部中尉は呆れる。 しかし、幾ら優良国の金銀貨に裏打ちされているとはいえ、補助貨幣である銅貨しか流通していないとは……  まあ銅そのものにすら価値がある地域だからこそ通用するのだろう、そう無理矢理納得することにした。 「……これで疑問は解けましたかな?」 「まあ」 確かに宝物扱いならば、かえって手に余るだろう。 「ではレムリア小金貨4枚をレムリア小銅貨で買いましょう」 「ちょっと待った。何故『両替』では無く、『買取』なのだ?」 「私共は両替商の資格を持っておりませんので」 成る程、と納得する。 が、タブリンでは物々交換が主である。黒部中尉は気付かなかった様だが、両替商の資格など『あって無いようなもの』だ。 「この辺りの現在の相場では、大樽1個分の小麦はレムリア貨幣ならば小銅貨720です。 あの仔牛を小麦大樽4個分とすればレムリア小銅貨2880ですので、それだけ払ってやれば宜しいでしょう。 ……失礼とは思いましたが、既に立て替えさせて頂きました」 「手早いな。 ……しかし大樽1個分の小麦が小銅貨720とは、地域によって随分価格が違うのだな?」 『小麦大樽1個分は小銅貨1000』という標準値から随分離れている。 「そりゃあそうです。でなければ私共の商売など成り立ちは致しませぬよ。尤も近頃は、帝國の御蔭で仕事には困りませぬが」 「世辞は良い」 「これは失礼を。で買い取り価格ですが、銀貨の際には五割、金貨の際には十割の上乗せ価格(プレミア価格)がついているのですよ。 ですから、レムリア小金貨1枚をレムリア小銅貨1000として、上乗せ価格を付けて2000で如何でしょうか?」 「おいおい、それではレムリア小金貨4枚をレムリア小銅貨8000枚になるぞ!?」 「……何度も言うようですが、銭はあくまで蓄財目的のものです。銅貨より金貨や銀貨の方が貴重なのは当たり前では? レムリア王国でも、儀礼用の大金貨や大銀貨は、上乗せ価格を付けられて取引されているそうですよ?」 事実である。大金貨や大銀貨は、レムリア国内でも額面価値の数倍で取引されている『希少品』だ。 「う……む、では仕方が無いか」 「では、レムリア小銅貨8000枚から先程の立替分2880枚を差し引いた5120枚をお支払いします」 竜借屋が手を叩くと、使用人が大きな箱をを二人掛りで抱えてきた。 竜借屋が箱を開けると、中は銭が詰まっている。 「この中には100枚ずつのレムリア小銅貨が51個入っております。後の20枚は、こちらの袋に」 100枚ずつ紐で括られた銅貨をしげしげと眺める。 成る程。金貨や銀貨には穴が無いのに、何故銅貨にだけ真ん中に穴が空いているのか不思議だったが、紐を通す穴だったのか。 そこで気付く。 「……待て、手数料は如何する?」 「中尉様、先程『これは両替ではなく買取』と申し上げたではありませんか。中尉様は銅貨を手に入れ、私目は金貨を手に入れることができた。二人とも万々歳です」 そう言って笑う。 ……が。 「ならば、これは先程の勉強料と茶代だ。貴様も商人、情報は宝の筈だろう」 黒部中尉は、銅貨の束一つと袋――合わせて小銅貨120枚――を竜借屋に押し付ける。 「では、有り難く頂戴いたします」 黒部中尉の様子から、遠慮しても無駄と判断したのだろう。躊躇無く押し頂く。  その辺りは流石歴戦の商人だった。 【4-4】 「……ところで中尉様。仔牛を一体如何なさるので?」 「ああ、喰うのだ」 「そういえば、今回の市には牛の肉は売っていませんでしたからなあ」 「……仮に売っていても、廃牛の肉なぞ固くて喰えるか」 黒部中尉は顔を顰める。 家で処分した家畜の肉、その喰いきれない分がたまに市に出る。 が、労働に使えなくなったり乳が出なくなったりした廃牛であるため、その肉は固くて不味い。だからこそ、仔牛なら柔らかくて美味いだろうと買い求めたのだ。 それを聞いた竜借屋が溜息を吐く。 「何かの祝い事でも無いのに若い牛の肉を食す…… 帝國の方は剛毅ですなあ……」 「まあ、な」 流石の黒部中尉も『いえ、安いから買っただけです』とは言えず、曖昧に頷く。 「しかし中尉様。牛の解体などをやったことがお有りで?」 「いや無いぞ?」 「……中尉様。仔牛とはいえ、牛一頭解体するのは結構骨で御座いますよ? しかも素早く上手に処理しなければ、肉の味が大きく落ちてしまいます」 「……そうなのか?」 初耳だ、と首を傾げる。 「でしたら当家で捌きましょうか? 心得の有る者が居ります故」 それを見た竜借屋が申し出る。 「頼む」 「いえ、先程の銅貨120枚分のお礼ですよ」 これで先程の借りは返しましたよ、とばかりに竜借屋は笑った。 「ああ骨と内臓だが、もしかしたら犬が喰うかもしれん。少し貰っていくぞ?」 子供達が飼っている巨大な犬を思い出し、黒部中尉が言う。 「!? 中尉様、失礼ですが内臓は食さないので?」 珍しく本当に驚いた様な表情で、竜借屋が尋ねる。 「……内臓など食えぬだろう?」 その言葉がどうやら本気であると判断した竜借屋は、溜息を吐いて尋ねる。 「では、もしお家で仔牛を解体していたら、内臓と骨は……」 「捨てたな、埋めて」 「…………」 その言葉に竜借屋はしばし目を閉じ、やがて真剣な表情で言った。 「……差し出がましいことではありますが、どうせ捨てるのならば皆に振舞っては? 皆も喜ぶでしょう」 「内臓を、か?」 「内臓と骨を、です」 「……そんな物を振舞うのは、かえって失礼では無いだろうか?」 「その辺りはこの竜借屋が保証致します。誓ってそんな者はおりませぬよ。 ……それに捨てても漁る者が多数おりましょうし」 「……それ程か」 「それ程です」 竜借屋の言を聞き、黒部中尉は頷く。  「ならば、肉の半分も入れてやってくれ」 「宜しいので?」 「ああ、どうやら少し浮かれ過ぎていた様だ。 ……忠告に感謝する」 「いえ、忠告を受け入れるのも度量の一つで御座いますよ。有難う御座います、皆も喜ぶでしょう」 竜借屋は店の外に出ると、大声で叫ぶ。 「皆の者! よく聞け! 本日は、クロベ様とサーナ殿が出会ってから一周年だ! クロベ様は、この記念すべき日を祝い、皆に仔牛を振舞われるとのこと! 奮って参加し、御二人を称えよ!」 住民達の歓声の声が響き、黒部中尉を称える声が響く。 「……いいのか? そんな嘘ついて」 「はて? 御二人が出会ってから、一年は過ぎたかと存じますが?」 「そりゃあそうだが、丁度一年という訳ではないぞ?」 「だいたいで良いのですよ。自分の年すら碌に覚えていない連中です。そんな細かいこと気にしません。只で肉が喰えるのだから文句など出る筈も無いでしょう」 「そりゃあそうかもしれないが、仔牛一頭で足りるのか? 数百人分だぞ?」 「……スープにすれば足りるでしょう」 きっと。 「…………」 黒部中尉は、無言で懐からレムリア副金貨を手渡した。 「?」 「市で売ってた成牛の雄牛も買う。スープの材料とかもこれで頼む。後、祝い事には酒が必須だろう? 確か竜借屋では酒も扱っていたよな?」 「これはこれは、かえって散財させてしまいましたなあ。申し訳ない。 ……いえ、寧ろ『毎度有難う御座います』と言うべきでしょうか?」 「さあ……」 どんちゃん騒ぎに移行した市の様子を眺め、苦笑いしなが呟いた。 ……折角手に入れたレムリア金貨、殆ど全部使っちゃったな。 苦労して手に入れた副金貨1枚に小金貨5枚が、もう小金貨1枚しか残っていない。まあ交換した銅貨の山もあることはあるが。 「そういえば、腹空きましたね……」 先程から黙りっぱなしでいた高木軍曹が呟いた。余程腹が空いていたのだろう。 見ると、もう日も高い。 「……帰ろうか」 正直、背中がむず痒くてここには居られない。四人は早々に退散することにした。 追記 ……後でサーナに怒られました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【5-1】 サーナの家は町の外れ、やや小高い丘の上にある。 場所的には悪くないが、当然購入したものでは無い。無断使用だ。 (この直轄領では女性は土地を購入出来ない――無論抜け穴はあるが――のだ。これは辺境、というよりこの世界ではそう珍しいことではない) とはいえ、この土地に持ち主はいない。 しいて挙げるとすれば旧政府、現直轄領総督府であろうか。 ――官地の無断占拠。 かつてならば、たちまち現地の官に鞭で追い出され、それでも居座れば殺されても文句を言えぬ重罪である。 (それでも後を絶たなかったが) が、現在は少し、いやかなり事情が異なる。 新たな主人となった帝國が、タブリンの全官衙に『本人が住む目的で占拠するだけならば、常軌を逸したもので無い限り黙認しろ』と通達したのである。 これは事実上の官地占拠の容認である。 無論この直轄領限定、それも一時的な措置だが、この様な手段を一時的にとはいえ採らざるをえなかったというのは余程のことだ。 この背景を理解するには、少しこの直轄領のことを知らねばならないだろう。 【5-2】 この直轄領は、かつての名をタブリン王国といった。 文明レベルは帝國でいえば平安時代並、代々の王とその貴族達は政治に無関心――権力には関心があったが――であり、王都を中心とした狭い箱庭世界で優雅に遊び暮らしていた。 そう、丁度平安貴族達の様に。 そんな状態が数百年も続いていたらしい。同じ辺境である筈の周囲の国々から見ても異常、そんな国だった。 当然国は荒れた。 そんなタブリン王国の歴史に終止符を打ったのが帝國である。 皮肉にもこの国――というよりもこの国も含めた周辺地域――は、石炭の宝庫だったのだ。 タブリン王国に侵攻した帝國軍が見たものは、荒れた国内とそれを省みずに遊びほうける貴族達の姿だった。 ――――まるで『羅生門』の世界だ。 これは当時の帝國タブリン派遣軍司令官が、王都に進駐した際の言である。 幾ら資源も無く工業農業生産力も低い貧乏国とはいえ、今までよく国がもったものだ、と派遣軍幹部達は一様に首を捻ったと伝えられている。 とうに周囲の国々に攻め滅ぼされていてもおかしくはない、そう考えたのだ。 (まあ周囲の国々も、この国の治安の悪さに敬遠したのかもしれない。治安の確保には金がかかるのだ) 以上が、帝國占領時の状況だった。 故に、帝國は資源採掘に加えて、領内の安定化も同時に行なう羽目になったのである。 帝國はタブリンの実権を握ると、直ちに種々の政策を実行した。 ―――『浮浪者の一掃』。 道路や港等の大規模なインフラ工事を行ない、その労働者として浮浪者を徴用する。 彼等には、粗末ではあるが日に二度の食事と住居を支給し、一定期間就労後には畑――勤労期間により異なるが数反程度――と準備金(現物)が与ることも約束していた。 食事は薄い麦粥、住居は雑魚寝という待遇の悪さではあったが、この政策により浮浪者は激減し、人心も安定した。 特に就労後の畑支給の約束については、未だ半信半疑であるものの、労働者達に大きな希望を持たせた様だ。 (これは将来に多少なりとも希望が持てたのが大きいのだろう。数反程度の畑では食うのがやっとであろうが、まあ『生きること』は出来るし、何より自作農という響きは格別の意味を持つ) ……もっとも彼等に与える畑を捻出するため、新たに開拓を行う羽目になり、余計な仕事が増えたが。 また力仕事を行なえない子供の浮浪者達については、炊事や掃除洗濯等大人の労働者の世話をさせ、空いた時間に帝國語の簡単な読み書きと道徳等の皇民化教育を行なっている。 (ただし教師の大多数は即席教育の下士官である上、教師一人に対する生徒の数も多く、その効果には早くも疑問の声が上がっている) ―――『匪賊討伐』。 盗賊や山賊、海賊といった匪賊共とて、元をただせば生きるために身を落とした者も多い。 故に、帝國は『無条件に下れば罪を減じ、十年の強制労働の後、その罪を許す』とした。 ……ただし、『従わぬなら問答無用で討伐』と付け加えて。 だがこれに関しては従わぬ者が多く、結局帝國は大規模な掃討作戦を行なう羽目になる。 反逆、即討伐。 帝國は先の言葉を忠実に守り、夥しい数の屍を築いた。 (この任務のために、精鋭歩兵連隊をタブリンに貼り付けている) ―――『汚職役人の処罰』。 これは珍しい措置だ。本来、帝國は現地の統治機構には手を加えないのが原則である。 が、邦國ならばそれでも良いがここは直轄領、しかも乱れた地である。 多少の悪ならば見てみぬ振りもする――帝國はたとえ直轄領であっても余程のことが無い限り現地のことに口を出さない――が、度を越えた悪は見逃せなかった。 帝國は役人共の再任にあたり誓約書を書かせ、今後これを破れば容赦なく討つと宣言し、役人共――彼等は帝國の言を無視した匪賊の末路を知っている――を大いに震え上がらせた。 これは異例中の異例の措置である。 (とはいえ甘い。今までの行為は不問であるし、今後も余程のことでも無い限り罰する積もりは無いのだ。 精々、あまりにも目に余る巨悪、後は運の悪い小悪を年に幾らか罰する程度だろう) この様な種々の措置を一年半以上も続け、治安もどうにかマシ――実に微妙な表現だが、仮に零点が四十点になったとしても不可は不可なのだから仕方が無い――になってきた、というのが現在の状況だった。 【5-3】 先の官地の無断占拠ともとれる通達、これも治安向上策の一環だ。 行き場を失った者達にまず定住の場所を与え、落ち着かせようというのである。 ただし最寄の官衙への申告が必須であるし、広大な地の占拠は認められない。 またたとえ狭くても、町の中心等の占拠はやはり認められない。ましてや転売目的などもっての他である。 (要は町や村の外れ、そこの極狭い地ならば居住を認めるということだ) また流民の占拠を防ぐため、周囲が知らぬ者の占拠は不可とされている。 ……まあこれについては判定が甘く、集団占拠ならばともかく一家族程度ならば潜り込めなくもない、という抜け道があったが。 サーナの家も、この内部通達により黙認されていたのである。 前にも述べたように、サーナの家は町の外れ、やや小高い丘の上にある。 水はけも良く日当たりも良い。そんな場所だ。 ……が、周囲に他に家は無い。 こんな良好な物件ならば、他にも占拠者がいてもおかしくはないのだが、不思議と他に人はいないのだ。 理由は幾つも考えられる。 まず水源から遠い。 町外れの丘なので共同井戸や川から遠いのだが、これは結構な問題だろう。 町から少し歩くことも問題だ。 占拠者の多くは日雇いだが、日雇いは先着巡、早い者勝ちの世界である。町から近ければ近い程良い。 他にも色々あるが、要するにこの場所は『実生活には不便な場所』ということなのだ。 だから敬遠されたのだろう。 彼等には居住環境よりも、生きるために実生活の便利さが優先されたのである。 (その証拠に、丘から降りた所には占拠者の掘っ立て小屋が散在している) 占拠とて、やはり強いものから順に良い場所を選んでいく。弱者は残り物しか得られない。 そして子供二人抱えた未亡人であるサーナは、紛れも無い弱者であった。 故に、この不便な地に住まざるをえなかったのである。