帝國召喚 短編「帝國医学と魔法」 某大陸、某国沖合いに1隻の船が停泊している。 ……帝國の船だ。 ――大きい。 基準排水量で、優に1万トンを超えているだろう。 その船影は優美であり、全身は純白に包まれている。所々に機銃や砲が据え付けられてはいるものの、その美しさは全く損なわれていなかった。 正に、『海の女王』だ。 この船。実は今、世界で最も有名な船である。 それは、何もその美しさによるものだけではなかった。 今日もまた、この船に慌しく患者が担ぎ込まれて来る。 今回の患者も、一目で重篤と見て取れた。 「狩りの時の怪我が、悪化して…… 何人もの医師や魔道士に頼みましたが、無駄でした。もう『この船』に縋るしか……」 どうやら、趣味の狩りの時の怪我が元で、感染症を引き起こしたらしい。 「大丈夫ですよ、奥様。帝國の医学薬学は、『世界一』ですから」 だが、医師の一人が、自信満々にそう言い切った。 ……そう。この船は、『病院船』だったのだ。 現在、帝國は将来への投資――帝國製品高級化計画(本編参照)――の一環として、様々な宣伝活動を行っている。 時計等、一部精密機器による帝國の技術力の誇示。 化粧品や香水等による帝國製品への憧憬、高級感の獲得。 ……そして医療を通じた、帝國に対する神秘性と信頼性の獲得。 この『医療を通じた宣伝活動』のために、帝國は、わざわざ豪華客船1隻を病院船に改装していた。 それが、この船である。 この病院船には、各地からかき集めた最良の医療機器や薬剤(その大半が欧米製だった)が搭載されており、乗り込む医師も、選りすぐりの腕利き達だ。 しかも護衛として、特別陸戦隊まで乗り込んでいる。 この船は世界各地を回り、病人を募って治療しているのだ。 その対象は、世界各地の有力者で、現地医療では治療できない程重篤な者。 それ故、病室も豪華であり、付添い人たちの控え室や宿泊施設まで存在する。 加えて患者のプライバシーにも十分配慮し、病人とその従者達毎に区画が割り当てられているため、他の患者とは顔を合わせないでも済む様にされていた。 これ程豪華な『病院』は、帝國国内にも存在しないだろう。 当然、代金も高額で、正に『足下を見た』価格といえた。これが支払えるのは、余程の大富豪か大貴族位のものだ。 だから帝國には、良い小遣い稼ぎになるし、『資料収集』としても役に立っている。 この船に来るのは、自国では到底治療不可能な難症例ばかりであるから、その患者――当然、その国最高レベルの治療が施されている――から様々なことが分かるのだ。 この世界の病気の種類とそぼ治療法。その治療レベル。 そしてこの世界の人間について…… これらの情報は将来、非常に役立つ筈だ。 さて、当たり前のことではるが、全ての患者が助かる訳ではない。 むしろ助からない患者の方が多い。 だが、『この船でなら助かるかも知れない』という思いと、『この船に乗って助かった者も多い』という現実の前には、そのような事実は『些細なこと』でしかなかったのだ。 前述の感染症の患者も、数ヵ月後に元気に退院していった。 『死の病』といわれた病気からの生還は、また一つの伝説を『この船』に加えることになるだろう。 「……やはり凄いな」 「ああ、正に『魔法の薬』だ」 ペニシリン。 西暦1929年、英国で発見された物質である。 その後長い間、その存在は地に埋もれていたが、1941年、その抗菌作用により再び注目され始めていた。 未だ治験の域をでていなかったが、その将来性は疑うべくもない。 幸い、転移時に英国に留学していた一医師が、その治験の話を知っており、転移後軍医として個人的に試して見たところ、著しい効果が認められた。 以後ペニシリンは、重要な薬物として研究されることとなる。 「だが、余りにも生産量が少ない! これでは到底足りない!」 『生産量が少ない』。これがペニシリン最大の欠点であった。 現状では、未だ量産技術を確立できず、一単位ずつ『手作り』で作っているような有様である。 これではいくら規模を大きくしても、その生産量はたかがしれている。 現在のペニシリンは、事実上『重要人物専用の秘薬』でしかなかったのだ。 「……本国では、最優先で研究されている。何れ、量産も可能となるだろう」 「その『何れ』とは、一体何時だ? 明日や明後日じゃあないだろう? 少なくとも、数年は先の話の筈だ」 「帝國にできなければ、何処の国でも出来ないさ。 ……少なくともこの世界ではね」 「……君の聴診器は何処で作られた?」 「ドイツさ」 「そうだ。悔しいが国産とドイツ製では雲泥の差だ。音が全く違う。いや、何も聴診器だけじゃあない。医療機器の全てがそうなのだ。真似はできるが、その性能までは……」 「君の言いたい事は分かる。だが、それ以上は……」 「僕は悔しいのだ。この世界に来て5年、もう5年だ! きっとアメリカやイギリスでは、医学は更に進んでいることだろう、それがもう二度と学べないのが悔しい! ペニシリンだって、きっと今頃は……」 「ならば、我々が英米の代わりに研究すれば良い。我々がやらねば誰がやる? 君もこの世界の医学、いや医術を見ただろう?」 この世界の医療は到底、医『学』とは言えなかった。 余りにも個人的経験と才能に頼りすぎ、学問として系統立てられていないからだ。 当然医療を学ぶ学校も、医師になるための試験も無く、医療を学びたければ弟子入りするしかない。徒弟制度そのものだ。 「そう、これはチャンスなんだ! きっと近い将来、世界中の人間が帝國に医学を学びに訪れるだろう。我々の医学が、『世界標準』となるのだ! 上手くいけば、医学史にも名を残せるぞ!?」 彼は、転がり込んできた『チャンス』に興奮していた。 何も彼だけではない。 上は大財閥の当主から下は庶民まで、皆が皆、転移により転がり込んできた『チャンス』に熱狂し、帝國は上昇思考で覆われているのだ。 「だがこの世界の医療とて、特に魔法の力は侮れない。君も見ただろう? 癌細胞が『石化』されていたのだよ!?」 この世界の医療技術そのものは、最高でも18世紀の欧州レベルで問題にもならない。 だが、『魔法』という、元の世界には存在しない技術体系がある。 『魔法』でも、精々個人の治癒力をある程度高めるのが精一杯である。だがそれでも、大国の王や大貴族の為に、各国で発展した『医療魔法』は侮れない。 体に出来た異物を石化したり、進行を遅らせるのだ! これと帝國の医学を組み合わせれば、いや治癒力をある程度高めてくれるだけでも…… だが、熱くそう語る医師を、もう一人の医師が、『何を馬鹿な事ことを』とでも言う様にたしなめた。 「君は正気か? あんな物を、帝國医学に取り入れようだなんて……」 「正気さ。治癒力をある程度高めてくれるだけでも、有難い」 「僕は反対だね。あれは学問じゃあない。お呪いと同じさ。取り入れれば、それだけ帝國医学の発展が遅れる」 医療魔法とて、所詮帝國には理解し難いものである。 いや、学問であるかすら怪しい。 そしていくら効果があるからといって、理解すらできない物を取り入れることは出来ない。 理解できない物は、所詮『お呪い』と同一であり、それでも取り入れるのは学問の否定、ひいては帝國医学の敗北である。 帝國医学が停滞、下手をすれば崩壊しかねないのだ。 「……多くの患者が助かるかも知れないのに、かい?」 「それでも、さ! 今一人助ける代わりに、将来助かるであろう百人を見殺しにはできない」 「もしかしたら、素晴らしい学問に昇華されるかもしれない」 「無理さ! 所詮土台が違う。木に竹を接ぐようなものだ。それなら別々に発展していったほうがまだ良い。 ……まあ、どちらが廃れるかは明らかだがね」 「なら君はそうすれば良い。僕は僕で研究してみる」 「君は、将来を棒に振るつもりかい? 折角、この船の一員に選ばれたのだぞ?」 「出世に興味が無いと言えば、嘘になるけどね……」 「考え直せ! 医療魔法は、才能がなければどうにもならないものだ。努力さえすれば、どんな人間でもある程度は習得できる帝國医学とは、根本的に違うぞ! それだけでも、どちらが優れているか分かるじゃあないか!」 「『どちらが優れているか、劣っているか』の話じゃあないよ。患者が助かればそれでいい」 「分からず屋!」 両者の論争は、これで終わる。 だがこの考えの違いは、近い将来、帝國医学界で大論争を巻き起こすことになるのだった。